「普通に働いて、定年まで働いて税金を納めた高齢者の方でも、働けなくなってボケてしまったら、福祉制度で一人暮らしというものを支えてもらえない状況にある。そんな中で、あなたたちみたいな税金を払ってないような障害者が一人暮らしをしたいっていうのは、わがままだと思う」

こうやって電車を利用できるようになったのも、エレベーター設置を主張してくれた先人たちのおかげです。

 タイトルの文章を目にしたのは、フェースブックの障害者グループでだ。このような言われ方をする障害者は少なくないのだろうし、つまりは、このように考える健常者も多いのだろう。障害者自身だって、こんな風に考えて、だから「わがまま」を言わないようにしている例もきっと多い。

 気になったので、自分の考えをまとめて書いておこうと思いました。「自分の考え」と言ったって、けしてぼくのオリジナルってことじゃない。これまで本を読んで人から教えてもらったこと、それを自分なりの言葉で言い換えているだけ、ってことなんだと思います。それでも、改めて自分の責任で文章にすることに、少しは意味があるだろう。ということで、今回は特に改めて、本を確認したりせずに、書き始めます。

税金は貯金じゃない。

 改めて書くまでもなく、税金を払うというのは、貯金をすることじゃない。当然、高額納税者が政府から優遇されるってことでもないはずだ。だから「税金を払っている人でさえ、制度でケアが受けられないのに、税金をはらっていない人がそれを求めるのはわがままだ」というのは、どうしたって間違っている。税金は、社会を構成している人たちの幸せのために使われるものであって、そこに納税者とそうでない人の間に差があったらおかしい。納税していない子どもたちのために多額の税金を使ったからといって、「納税してない子どもに税金を使うなんて」という批判はおこらない。

 子どもたちは将来の納税者だから、彼らを育てなければ社会は衰退してしまう、つまり子どもたちに税金を使うのは、未来への投資だ、という考え方はあるだろう。だとすれば、よい納税者にならないだろう障害のある人たちに税金を使うのはおかしいのか?でも、税金は「社会を構成している人たちの幸せのために使う」のだから、やっぱり、「納税できない人」の幸せに税金を使うのは、ぜんぜんおかしくないはずだよね。

税金は保険なのか?

 国民年金や厚生年金を、ぼくたちは積み立てている。そして、年金機構から「あなたが受給できる年金は〇〇円です」というような通知ももらう。
 そこだけに注目すると、掛け金が将来に戻ってくる保険みたいに思える。年金の積立そのものは税金じゃないけれど、でも、給与から自動的に引かれたり、あるいは期限を定めて支払わなかったりしなければいけないのは、税金と同じだ。

 税金をみんなが払わなかったら、国や地方自治体の収入がなくなって、けっきょくその社会を構成する人たちの幸せのためにお金をつかう仕組みも維持できない。幸せってのは何?って質問に答えるのは簡単じゃないよね。人それぞれの価値観もかなり違う。それでも、たとえばインフラ整備、道を整えるとか、水道、電気、ガス、下水を整備するとか、そんなことも「幸せ」とは無関係じゃないはずだ。「幸せ」だとわかりにくいから、「生活の質」と言い換えてもいいかもしれない。「生活の質」が維持されなければ、「幸せ」うんぬんなんてことも言っていられないわけだろうから。そして、今、そして明日の「生活の質」を維持するために税金を払っていると考えれば、そこには保険のような役割があるんでしょうね。税金を払うことで、将来の「生活の質」を確保しようとしている。
 年金もそんな面はある。将来の収入を確保するために、今、年金を払う。年金が払えない人には免除の仕組みもあるけれど、支払い免除された人は実際に老後にもらう年金は大きく減額される。でも、ゼロになるわけではない。減額された年金だけで生活ができなければ、生活保護などの福祉を利用するということもできる。とにかく、生まれた人、生きている人には「最低限の生活の質」を社会で保証しようってことだよね。だから、税金を払っていないからといって、その人が見捨てられていいってことは、ない。

他所ではどうなんかな?カンボジアの

 ぼくが長く生活していたカンボジアの例をちょっと紹介してみる。
 税金って集めるの、かなり大変なことだよね。カンボジアでは、つい最近まで、きちんと税金を集めるシステムが整っていなかった。所得税が定められて、給与をもらう人からその収入に従って税金を自動徴収するようになってから、まだ10年も経っていないはず。自動徴収なんてシステムは、給与を労働者に支払う側の協力が必要で、その構築はかなりの手間だったはずだ。
 さらに固定資産への課税も、今、ようやく進んでいるところだ。

 これまで払わなくてすんだものを、払うようにさせられる、ってのは、払う側からすれば大きなプレッシャーだ。結局、そこは権力をかざして徴収するってことになる。ということで、ぼくの感じる限り、カンボジアの納税者は今のところ「へへぇー」と頭を垂れて、政府“様”に納税している。昔の王様が民から税を集めていたのと、似ている気がする。
 今後、納税者となった人たちが「へへぇー」と頭を垂れるのではなく、自分たちの幸せのために税金を払っているのだから「それ、ちゃんと使いなさい」と政府に要求する側になるまでには、もう少し時間がかかるようにも(ぼくは)思う。つまり政府様から“様”を取るには、納税者意識がもっと高まってほしいなぁってことだ。

 公務員が年金を受ける制度はあるけれど、民間企業による厚生年金の制度は、まだ十分に整っていない。いわゆる夜逃げがまだまだある社会だ。夜逃げとは、会社が給与未払いのまま、ばっくれてしまうようなケースだ。ぼく自身の経験を書くけれど、2005年ごろ、ぼくが自分の車の自動車保険を加入していた大手の保険会社が破綻して、経営者は夜逃げした。そのニュースを聞いて、すぐに保険会社があった場所に行ってみると、元従業員が社内の備品、たとえばパソコンなど、をどんどん持ち出しているところだった。彼らも、未払いの給与もあるだろうし、今日から失業者だ。ぼくも、1年間の自動車保険のほぼ10ヶ月分の加入費が無駄になってしまったのだけれど、どこに文句の持っていきようもなかった。

 1990年代には、銀行の夜逃げもあったと聞いた。そこにお金を預けていた人たちは、そのすべてを失ったらしい。ぼくの妻(カンボジアの人)の両親は、ぼくたちがお金を銀行に預けるのに反対だった。彼らは銀行口座を持たず、貯金はすべてタンス貯金だった。だから義父は、長く家を留守にしたこと一度もなく、日本に招待しても来てくれない。海外旅行をしたくないのは、もちろんタンス預金のせいだけではないだろうけれど、でも、それが一番だとぼくは想像している。
 さらに、現金、紙幣は、あてにならない。持つならやっぱり「(きん)」だ。間違いなく、タンス預金は紙幣ではなくきんのはずだ。そんな義父たちにとって、税金を払うということが明日の「生活の質」を保証する保険なんだという考えるのは、難しいことなのはよく理解できる。
 妻は以前は公立教育機関のスタッフだった。つまり公務員だ。彼女が公務員を辞めて小さなNGOで働くことにしたときに、両親は公務員の立場を(多少、不正な方法を使っても)維持するように強く説得したそうだ。なぜなら、公務員の立場があれば、少なくとも年金制度があるから。民間に移るということは、年金はまったく期待できない、というのが両親の考えだった。それは、実際に今のカンボジアの状況では、正しい。

 そんな状況の中で、障害者への生活保障制度もまだ未整備だ。今、ぼくの知っている障害者グループが「障害者の一人暮らしサポートを公費から出してくれ」という運動を始めている。そのために、まず「障害者でもサポートがあれば一人暮らしが可能なんだ」ということを実証する試みに取組んでいる。彼らの運動は、微々たる範囲だけれど、一部のコミューン(一番小さな自治体)が少額でも障害者の支援に予算をつけてくれるようになったという成果を上げつつある。
 彼らの戦略によれば、この成果が第一歩であって、やがてはカンボジア全土の障害者が公的支援を受けられるようにすることを目指しているわけだけれど、まだその道程は長いだろう。

(カンボジアの障害者運動の一端は、このブログの以下の投稿で触れています。)

カンボジアで車イス者から話を聞く 2 ボッパーさんの場合 その2 「新しい人になりました」と書く日まで  – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)

カンボジアで車イス者から話を聞く 2 ボッパーさんの場合 その3 Falling Loveはあったけど、内緒です。 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)

カンボジアで車イス者から話を聞く 3 ネアップさんの場合  – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)

列の先頭を進むものは雨に濡れる

  ALS (筋委縮性側索硬化症)の母親の介護をする経験をきっかけに、日本の福祉制度の充実にチャレンジしている川口有美子さんが、最近フェースブックの投稿の中で次のように書かれていた。
「日本人は社会保障は上から降ってくるまで待つのが当たり前みたいに考えているけど、政治に参加しないで文句だけ言っていても何にも変わらないし、政策を待たずに自分達で始めてしまう事も手段の一つ。」
 先に紹介したカンボジアの障害者の人たちが進めているのは、「政策を待たずに自分達で始めてしまう」という手段を取った良い事例だろう。

 障害者の自立生活に関しても、これまで多くの人たちが、まず自分で道を切り開くことで、次の世代の一人暮らしの可能性に道を開いてきた。1970年代の脳性麻痺者のグループ「青い芝の会 神奈川支部」の取り組みが知られているけれど、彼らに限らず、最初に「一人暮らしをさせて」と声を上げた人たちはみんな「わがままだ」と誹りをうけた。それでも諦めずに、周りの人を巻き込み、粘り強く役所と交渉し、ときには無謀とも批判された実力行使も選択しながら進めてきてくれた結果が、たとえば24時間看護を認める自治体が増えてきたことなど、現在の制度整備の改善につながっている。

 「あなたたちみたいな税金を払ってないような障害者が一人暮らしをしたいっていうのは、わがままだと思う」という声は、きっとこれからも簡単には消えないだろう。でも、だからこそ、声を上げ続けないと、福祉は後退してしまう。
 ぜひ、税金を払ってきた人たちも、払えずにきた人たちも、一緒になって声をあげていけばいい。「福祉制度で一人暮らしというものを支えてもらえない状況」を変えるために、共闘すればいい。
 ぼくたちの前を多くの人が、雨に濡れながら歩いてきた。そして、道は少しずつ踏み固められ、広くなってきた。

 ただ、懸念されるのは、最近の障害者にとって、現在の公的な社会保障が、まるでずっと前から変わらずあってまるで上から降ってくるような当たり前の存在と感じられているかもしれないことだ。「当たり前」なのは、ステキなことだ。でも「当たり前」だと思っていることが、もしかすれば、失われてしまようなことも起こり得る。(公助ではなく)自助や共助が必要とされる社会、さらに財政難などを理由に福祉が削られる社会、では、今「当たり前」な支援が将来も「当たり前」かどうかかなり不安にぼくは思う。せっかく先人が踏み固めてくれた道も、そこを歩く者がいなくなれば、きっとすぐに消えていってしまう。福祉とか、人権とか、油断すれば消えてしまう道のようなものなんだと思う。

 だから、「その要求はわがままだ」と言われても、怯まないで粘り強くいきましょう。ひとりで無理なら、なんとか仲間を探しましょう。税金を払っていないくせになんて言われても、「税金は貯金じゃないよ」ってゆったり教えてあげましょう。そうやって、「幸せ」の道を開いていけたら、本当にいいなぁと思うんです。そういうことを社会に言い続けていくのが、障害者のひとつの社会貢献なんじゃないかしら。だって、誰もが障害者になり得るわけだし。年齢を重ねれば、だれだって人の世話になるのだから。

6件のコメント

そうなんですよねー。誰しも障害者になるかもしれない。母親は自分の子供が新生児の頃、皆それを感じていたはず。たまたま障碍児を持った親にも大いに共感できた。そのお母さんと同じ時期に自分もおなか大きかった、うちの子が障碍児だったかもしれない。だから保育園の帰りに「○○ちゃん遊ぼう」なんていって自分の子と一緒に見ながらおしゃべりしてたじゃない?それがなぜか中学生くらいになって、その○○ちゃんがが髪を引っ張る、コンパスでつつく、奇声をあげる、球技のルール無視、なんてことになると、お母さんたち「あの子と同じクラスにしないで」と言い出す。そういう子と一緒の教室で学ばせるには、人手と手間がかかる、つまり税金の投入が必要なんですよね、でも現場に求められるのは「インクルーシブ教育」教室で担当教師がなんとかしろ、、ただでさえ忙しい学校がどんどん忙しくなってしまう。税金は貯金じゃない。その通りだと思います。正しく使われるように見ていかないとね。

伊藤明子さま
いつも読んでくださりありがとうございます。
私自身は、インクルーシブ教育が個々のお子さんたちにとって一番いい選択なのかは、よくわからないところがあります。
ただ、障害者がまわりにいない子どもたちにとっては、インクルーシブのほうがいいだろうと思います。
私の経験は、小学校3年前いた障害のある同級生が、小学校4年でいなくなった(他校の特殊教育クラスに移った)こと。
彼女がいるのが普通だったのに、いなくなって「どうして?」と思いました。彼女の顔や動作や、なんとなく心に残っています。
忙しい学校がどんどん忙しくなる。予感ですけど、きっといらない仕事があるんですよね。点検してなくしていかないと
いつまでも、先生は超忙しい。それはよくないのははっきりとしていますよね。

村山哲也

定年まで特別支援学校に勤務し、卒業生とともに門戸開放運動に関わってきた身にとっては、門戸開放運動を良しとしない人たちから、いつも耳に入ってきた内容です。
いつもこのような話を聞くたびにある卒業生の話を思い出します。彼女は電話交換業務(受付のような形で今ももあるんですよ!)に関わっていました。半日座っていても数本しか電話がかかってこないことを、同僚(障害者)に話したら、「仕事がなくって良いじゃない、ラクなんだから」と言われました。
その話を電話で聞いた私は、ちょうどその頃体調が悪く、すぐに会えないが、元気になったらすぐに連絡するからね、と伝えました。彼女が自ら命を絶ったのはそれから直ぐでした。それまでにも増して、生半可な付き合いは絶対にしない、と思いました。

間々田和彦さま

いつもコメントありがとうございます。
そんなことがあったんですか。障害者にとって(健常者にとっても、ですね)「自死」は大きな課題です。
「生きているより、死んだほうがまし」という気持ちを持つことがあるのをゼロにはできない。
ぼくも数年前に高校時代の級友が自死しました。彼はときどき私に電話をかけてきていました。
最近、電話ないなぁ、つまり調子がいいんだなぁと思っていたら……
生半可な付き合いをしないって、それだって簡単じゃないですよね。生きるって、辛いことと出会ってしまうってのもあって。
それも含めて、力を入れすぎずに、行けたらなぁと思います。

村山哲也

すごくよくわかります。税金は社会をよくするために使われるのであって、必要とする人がより良く生活できることが、社会・ひいては自分たちの身の回りに居心地の良さになるんだと思います。。。障害のある人が身近にいると、社会の課題に気づきます。そして、「効率」とか「忙しい勝ち組」のための社会になっちゃってるのかなと。多様性があって許容するから、社会は素敵なんだと、もっとみんなで思いたいですね。

いかわ様
私が大ファンの同名の方がいるのですけれど、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないという前提でお返事いたします。
「税金」って話だと、とりあえず母集団が「国」みたいな感じになりますよね。
本当は、世界共通税みたいのがあってもいいのかもしれないですね。税収が豊かな国はたくさん払うみたいな。
そして、その世界共通税をどう使うか、考える。今は、国連とか開発銀行とか、あるいはODAとかがそれに当たるのかなぁ。
とすると、それに関わるのは、世界公務員かな。世界公務員としての矜持みたいなものがあったりするのか。
ある人が、ユニセフの問題点は、内部に警察的な存在がないことで、すべてが自己判断?になっているとおっしゃっていました。
おそらく、ユニセフだけの問題点じゃないですよね。とっても、わかる気がする。
あと、最近、障害者を語るときにくっついてくる「多様性」。私は天の邪鬼で、ついつい、多様性という言葉はいらないなんて
思ったりすることがあります。多様性なんて関係なく、みんな生きていい、って主張してみたいというような気持ち。
現実は、生きていけない場がたくさんあって、それはそれで気が滅入ることもあります。それでも、ごはんを美味しく食べてしまっている
自分……、それは否定しちゃいけない、とも。ブログ書いていると、頭でっかちになっていく自分がいるようで、そこは気をつけなくちゃなぁと思ったり。
ではでは、また。

村山哲也

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