『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』外伝5 連載第29回 日本と関わったあるカンボジア政治家の話 

小学校の放課後、遊ぶ子どもたち カンボジア 本文とは直接の関係はありません。

 『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』外伝シリーズも第5回。(前回は、カンボジアでオリンピックが開かれた?というネタでした。以下から飛べます)。
 今回は、カンボジアの胡椒を追いかけている途中に知ることになったあるメアスチャンリープという名の政治家について、です。彼はポルポト時代の前に、日本の花火会社に派遣され、帰国後政府軍に所属しクメールルージュと闘い、タイ経由で日本に逃げる。日本で10年ほどを過ごした後、UNTACのころカンボジアに戻り、政治家となり……
 (今回の投稿内容については、その多くを メアス・チャン・リーブ氏を偲ぶ会実行委員会『メアス・チャン・リーブ氏追悼文集 遠い花火』1995 に負っています。もちろん文責はすべて私にあります。)

メアス、という名の日本への留学生

 カンボジアの胡椒を調べている過程で、何人かの日本人にお話をうかがった。特に、ポルポト時代前の胡椒栽培について、なにか知っている日本人がどなたかいないか、探していたんだ。
 そのなかで、1960年代に日本に花火の勉強に来ていた「メアス」という名のカンボジアの人の話を耳にした。そのメアスさんが見つかれば、彼を通してまた何か当時の胡椒につながる情報が見つかるかもしれない。けれども、花火の修行にきていたメアスさんという名の人という情報だけで探すのは、私にはまったく目処も立たないでいた。結局、メアス、という名前だけがぼくのノートに記されたまま、時間が経っていった。

 胡椒の取材もそろそろ終わりして、ひとつの形にしなければと思い初めていた2017年12月、たまたまAさんとお会いする機会があった。お話しをうかがうと、Aさんの祖母がカンボジアに縁の深い方なのだという。その際に紹介されたのが、平野久美子著『淡淡有情』という本だった。

 『淡淡有情』は、日本への留学経験のあるカンボジア外交官とその母親代わりの日本人女性を描いたノンフィクションだ。この日本人女性がAさんの祖母だった。この本に書かれているカンボジアの若者とその母親となっていく日本女性との人生はとても興味深い内容なのだけれど、ここで触れたいのは別のことなのだ。『淡淡有情』の中に、ふたりの物語とは直接関係のないエピソードとして次の記述があって、なんとそこに「メアス」さんが登場するのだ!

 ここで、もうひとりの知日派政治家の死を書き添えたい。
一九九五年八月八日に、ピストル自殺を遂げた仏教自由民主党の国会議員、メアス・チャン・リープである。享年五十五歳だった。彼の自殺は、不正と腐敗と権力闘争に明け暮れる政界への捨て身の抗議として、日本でも報道された。メアスの清廉潔白な個性と彼が日本で培った道徳観、正義感が、自殺という手段を取らせたのだろうと、友人たちは一様に語っている。
 メアスはカンボジア王国時代から国防省に勤めていた根っからの軍人で、火薬の研究をするために、日本の花火メーカーへ一九六四年から約三年間留学をした。そのとき知り合った日本女性と後に結婚をしている。ロン・ノル政権下では共産党勢力の掃討作戦を指揮。陸軍司令官としてめざましい活躍をした。その後、クメール・ルージュから逃れ、妻と子供の待つ日本へ亡命した。東京でサラリーマンをしながら、ソン・サン派の日本事務所代表として和平会談の推進に力を注いだり、タイ国境にあるカンボジア難民キャンプへも率先して慰問に訪れたりした。
 一九九二年、カンボジアの再建に尽くそうと十六年ぶりに帰国。翌年の総選挙で、ソン・サン率いる仏教自由民主党から立候補して国会議員に当選し、経済改革、農業、環境問題を担当した。また日本のNGO「難民を助ける会」とともに、小学校や身障者訓練所の建設、農村の復興に尽力をして活躍をした人物である。(188~189ページ 平野久美子『淡淡有情』小学館 2000)

 花火メーカーへの留学とメアスという名前に筆者は興奮した。彼こそが、探していた「メアス」氏に違いない。
 それほど多くのカンボジアの若者が日本に来ていたわけでもないときに、同じ名前の別人が花火会社で勉強するという偶然がそうそうあるとは思えない。平野久美子がメアスチャンリープのエピソードを記す際、花火メーカーへの留学の件を書いてくれなかったら、この自殺した政治家の名前がたとえ「メアス」でも、私の記憶とは重ならなかっただろう。平野さん、ありがとう!と平野の手をとって拝みたいような私だった。
 そうか、でも、やはりメアスさんはすでに鬼籍に入られていたんだ。

 『淡淡有情』には資料としてメアス氏の追悼文集が挙げられていた。この文集は、メアス・チャン・リーブ氏を偲ぶ会実行委員会という有志が作成した私家本だ。日本に移民したカンボジアの人たちのネットワークを通して、この追悼文集を知る人がいないか知人に探してもらった。そうすると、少し時間はかかったけれど、見つかった。追悼文集を借りて読むことができたんだ。

 私としては、追悼文を書いている人の中に、ポルポト時代以前のことをよく知る人がいれば、その人を探して当時の話を聞けたらというつもりだった。

メアスチャンリープさんの生涯

 メアスチャンリーブ氏は1940(昭和15)年にプノンペンの王宮で生まれている。カンボジアがまだ独立する以前のことだ。そのころ、現在の王宮のなかには、宮殿に務める人たちの住居も立ち並んでいたそうだ。メアス氏の両親も、宮殿に務める仕事についていたんじゃないだろうか。
 やがて、メアス氏は1960年代初めには日本語の勉強を始めた。そして、1964(昭和39)年、24歳のときに、シハヌーク首相(当時)の直々の指名で、日本の花火メーカーに派遣され花火つくりを学ぶことになった。カンボジアの雨季明けを祝うボートレースが11月にプノンペンの王宮前を流れるトンレサップ河で開かれる。その祭りで、シハヌークが日本の尺玉の花火を打ち上げたかったというのが、メアス氏の留学の背景にはあるという記述が追悼文集にはある。当時のカンボジアの最高権力者直々の留学命令だったのか。
 「日本の有名花火メーカーで修行をしたけれど、何も教えてくれず、技術は盗みとるという日本のやり方だった」とメアス氏は修行時代を語っている。東南アジアの小国からひとり派遣された若者に、当時の日本の社会はきっとかなり厳しいものだったんじゃないだろうか。

 3年後、1967(昭和42)年に帰国すると、日本で学んだ火薬の知識を見込まれてカンボジア軍の陸軍大尉に抜擢される。1969(昭和44)年には、武器弾薬のとりまとめ責任者だったようだ。「花火も大砲も同じようなものだということで砲兵隊に配属された」という彼の言葉を覚えている人もいる。 
 1970(昭和45)年にロンノルによるクーデターが起こり、パリ訪問中のシハヌークが失脚した後も、メアス氏は政府軍の一員として反政府のクメールルージュ勢力との戦いの前線に立ち続けた。1974(昭和49)年にはカンボジア西部のタイ国境との要所であるパイリン県で国道5号線の防衛の総指揮にあたった。旅団長で中佐であった。軍隊の階級は上から、将官・佐官・尉官・下士官・兵卒であり、将官・佐官・尉官は、たとえば佐官なら大佐・中佐・少佐というようにそれぞれ大中小とある。メアス氏は大尉(尉官の一番上)として軍歴が始まり中佐(佐官の真ん中)まで出世していた。旅団とは陸軍編成上の単位であり、通常数千人からなる部隊だ。しかも、パイリンはその後2000年代までポルポト派の拠点となった場所だ。国道5号線は激戦地だった。メアス氏の責任は重かったはずだ。

 1975(昭和50)年にロンノル政府軍が崩壊し、ポルポト率いるクメールルージュが全土を支配したとき、メアス中佐はまだパイリン近くのタイ国境沿いにいた。「わが政府はついえた。かくなる上は自分は一時。タイに逃れる。付いて来るならこい。故郷に帰りたいものは自由にして良い」と部隊を解散し、メアス氏はタイに逃げた。このとき付いてきた部下は27名で、「帰郷した者はほぼ全員、ポルポト時代に殺された」とメアス氏は語っている。旅団の人数が何人だったかはわからないけれど、おそらく数百はいたんじゃないだろうか。となれば、27名というのは、ほんの一握りで、ほとんどの部下がポルポト時代を生き残れなかったことになる。
 メアス氏にはこの時から、自分は生き残ってしまった、という思いに囚われて生きたように私には思える。その思いを美化する価値観を私は持ち合わせないが、しかし部下を亡くした思いを引きずる感覚には共感できるものがある。その後、メヒア氏がカンボジアの平和を強く求めた原点がここにあるのだろう。

 国境を超えタイに逃げたメアス氏は、プノンペンでメアス氏に日本語を教え、その時バンコクにいた日本人教師を頼り、バンコクの日本大使館の支援も受けて日本へ向かう。日本では企業に就職し役員にまで昇進した他、反ポルポト政権の組織の代表を務めたり、カンボジアからの難民の人たちを取りまとめたりと忙しい日々を送った。

 1991(平成3)年にはカンボジア和平のためのパリ和平会議等にソンサン派(クメール人民解放戦線、ロンノル派を継承する反共・反王制の共和派)の一員として参加するなど、和平の四党合意形成にかかわる。この四党とは、プノンペン政府(一党)と、反プノンペン政府三党(ポルポト派、シハヌーク派、そしてソンサン派)のことだ。
 ソンサン派とは、1960年代に首相を務めた政治家ソンサンをリーダーとするグループ。ポルポト時代終焉後の1980年代に、プノンペンを追われタイ国境に逃れたポルポト派、シハヌーク前王に率いられたシハヌーク派と一緒に三派連合を形成し、ベトナムの支援を受けるプノンペン政権に対峙した。ソンセン派は、UNTACによるカンボジア総選挙では仏教自由党を設立し、メアス氏はこの選挙で仏教自由党から立候補し、当選して国会議員となる。

 『淡淡有情』には、メアス氏が日本のNGO『難民を助ける会』と協力してカンボジアの復興活動を続けたことが書いてあったけれど、メアス氏はその他のカンボジアの支援を行う団体への助言協力も惜しまなかった。日本語を巧みに話し、そのパートナーも日本人女性だったことから、メアス氏を慕う日本人が数多くいた。プノンペンの自宅を訪れる日本人に、メアス氏はいつも寛容に大きく扉を開き、相談にのってくれたそうだ。
 メアス氏を慕い、当時のプノンペンをよく知るある人は、次のように私に語っている。

「しょっちゅう、しつこく色々相談に乗ってもらいました。すごく忙しいはずなのに、僕のような若造の話しを丁寧に聞いてくれる。そして、自らのカンボジアへの思い、以前の自然の様子、農家や収穫、カンボジアの文化や生き方などを篤々と話してくれました。偉い人なのにぜんぜん偉ぶったところがなかった。常にキリッとしている。感激しましたよ。自分もこんな大人になりたいって思いました。僕にはとてもいい出会いだった。」

 新生カンボジアで、メアス氏は、再生したばかりの国の運営に多忙な日々を送った。しかし、はびこる政府内の不正と果てしなく続く権力闘争に疲れ果てていく。そして1995年8月8日、メアス氏はプノンペンの国会内で拳銃で自らの命を絶った。残された遺書には、カンボジア政府の腐敗への抗議と所属する政党の分裂への危惧が記されていた。

 「私は自分が日本人だと思っていますよ。日本人の考え方を私は本当によく解っているつもりですよ」と、生前メアス氏は語っている。しかし、日本人としてのメアス氏と90年代のカンボジア政治家としてのメアス氏との心理的乖離は本人の思惑以上に大きくなってしまったのではないだろうか。1995年8月16日の読売新聞にある署名記事(山田寛記者)があり、そこでメアス氏の自殺が報じられている。記事には「カンボジア民主化に憂慮」と見出しが大きく振られ、メアス氏が「政治家のトップから末端官僚に至るまで、なぜこんなに腐敗がひどいのか。汚職で民主主義が滅んでしまう」と強く嘆いていたと書かれている。

メアス氏の日本語の先生

 メアス氏の追悼文集の中に、メアス氏が日本に勉強に行く前にプノンペンで日本語を勉強した際の先生だった山田基久の一文がある。メアス氏が1964(昭和39)年に日本に行っていることから、それ以前にメアス氏は山田基久さんに日本語を教わっていたことになる。とすれば、そのころのカンボジアの状況を山田さんは知っているかもしれない。その中に、カンポットの胡椒のこともあったりはしないだろうか。私は山田さんを探すことにした。

 追悼文集が出されたのは1995年9月で、文集には山田さんの当時の勤め先が書いてある。それは私の知っている開発援助関連の組織だった。もちろん、山田さんはすでに退職しているはずだけれど、山田さんを知る人がその組織の中にまだ見つかるかもしれない。私は、その組織に関係する可能性がある何人かの知人に、問い合わせのメールを打った。
 そして、山田さんを知る人にたどりついたんだ。でも、残念なことに山田さんはすでに亡くなっていた。

山田さんのメアス氏への追悼文

 ここで、その追悼文集の中にある、20代初めのメアス氏にプノンペンで日本語を教えた山田さんのメアス氏への追悼文を紹介しようと思う。そこには、山田さんがメアス氏と過した1960年代のカンボジアの様子が活き活きと描かれ、山田さんのメアス氏への追悼と自らの青春時代への惜別の思いが溢れ出ている。名文だと思う。

  山田は亡くなっていて了解を得ることができない。文集を編纂した実行委員会の長でありNGO『難民を助ける会』創設者の相馬雪香もすでに他界している。時間はどんどん流れている。ということで、以下は無断転載ということになることを記しておく。

豪放磊落なメアス氏
 「先生—-!」と大声で通りの向こう側から呼ぶ人がいた。一九六九年九月、私がカンボジアに再赴任したばかりのある朝のことだった。一九六一年から六四年まで、いわゆるシハヌーク時代に私の日本語クラスに通っていた元気な青年メアス氏だった。細面の浅黒い顔に爛々と光る黒い目と白い歯がニコニコしていた。五年ぶりだった。
 それからずっと後の一九七五年、プノンペンが陥落していくらも経たないころ、バンコクで教壇に立っていた私の許に一通の電報が届いた。タイ-カンボジア国境に近いある村からである。メアス氏だった。生きていたのだ。
 早速タクシーをチャーターし、バンコクから三五〇キロあるその村を探しあて三年ぶりに再会をはたした。メアス氏は中佐になってパイリン地区の指揮官をしていたがプノンペン陥落を知り、部下の兵士と住民を引き連れ国境をこえてきたのだという。
(中略)
 一九七〇年三月、私が再赴任して間もなくロン・ノル首相によるクーデターが起き、昼も夜も連日物情騒然とし社会全体が右往左往していた。そのころ、彼と私は暫くのあいだ泰山ホテルの一室で一緒に暮らしていた。一緒に飯を食い、酒を飲み、議論をし、結婚の儀式に参加させてもらったり、幹部クラスを含む彼の友人たちに紹介されたり、プノンペン周辺の農村地帯を見て回ったり、極めて密度の高い日々を過ごしおそわるところも少なくなかった。最も学んだところは、クメール人の心あるいは気質というものであったろう。彼自身は豪放磊落で優しい青年であった。
 
 いろんなことがあった……

 何とも乱暴な時代であった。私は大学へ通い続け、メアス氏は軍人になった。停電や断水が始まり、戒厳令がしかれるようになった。激しいインフレが市民の生活を襲いはじめた。窓の下を南北に走る大通りを兵士やその家族を乗せた軍用トラックが時には北に去り、時には南へ下っていった。ベトナム人狩りの悲劇。空港のゲリラ襲撃。空港近郊の爆薬庫の爆破とメアス氏の命懸けの処理。ロケット弾の襲来。ゲリラ決死隊の進入。日本の技術で架けた橋の爆破。日本人を含む外国人ジャーナリストの殉職。夜間、窓ガラスを揺るがすB52の爆撃。デマか真実かわからない情報の氾濫。地方から流入する農民のため灯を追って膨らむプノンペンの人口とその救援活動に励む国際機関の人々や、食料その他をピストン輸送する米軍機。そして。停電の中で行なった最期の授業。 
それでも、当時の私には、地方で行われている農民たちの悲劇についてまだまだ知ることはなかったし、この戦争の原因や意味もまるきり分かっていなかったのである。
 一九七五年以降人類史上稀に見る残虐無比なポル・ポト政権下でメアス氏は多くの友人を失った。私の教え子もほとんど生き残っていない。

 複雑な過程を経てともかくパリ包括和平協定が実現し、UNTACのもとに歴史的な選挙が行なわれ、新憲法と新政府が誕生した。
 そして選挙に当選したメアス氏の出番がやっと来たのである。
 何から何まで全てをゼロから建て直さなければならない今、カンボジア現代史の荒波を生きて来、そして、新政府において重要な職務を担った彼こそ、この国にとっても国民にとっても正に必要な存在であった。そのためにこそ、この苦難を乗り越え、準備してきたのではないだろうか。
 プノンペンのプロジェクト事務所から電話で訃報を聞いたとき、ただ絶句するのみであった。それからは毎日のように「なぜ、どうして……」と声に出して言ったり、心の中で呟いたりしていた。正直のところ毎日の生活が虚しく思えてしまった。
 私が初めて知った外国はカンボジアであった。それ以来私の人生はカンボジアと深く関わっている。シハヌーク時代、ロン・ノル時代、そして新生カンボジア時代、それぞれ一定期間滞在し、その間国際政治の情け容赦ない利害競争に翻弄されるあらゆる階層のカンボジア人、ベトナム人、華人を見てきた。いまは、残りの時間を引続きこの国の復興と再建、とりわけ人造りのために費やす積もりでいる。そんなときメアス氏がいるのが当たり前であるし、またどんなに心強いことかと思うのである。
 今年八月、熱海の海岸で行われた花火コンクールをテレビで観た。むかしメアス氏が修行した縁の会社の花火が優勝を飾った。見せてあげたかった。

 彼は何事にも命懸けで当たる青年だった。
 もっともっと話したいことがあったのに。
 まだまだ一緒にやりたいことがあったのに。


メアス・チャン・リーブ氏を偲ぶ会実行委員会『メアス・チャン・リーブ氏追悼文集 遠い花火』1995より転載

5件のコメント

数十年ぶりのメアス氏の記事に大感激致しました。
私は、自衛隊カンボディア国連平和維持活動で当時勤務していました。
趣味のアマチュア無線を通じて「メアスチャンリープ氏」とお付き合いさせて頂きました。
当時プノンペン郊外のご自宅で美味しいカンボディア料理を頂きました。週末買い物も行きました。
帰国後訃報を承って誠に残念で声も出ませんでした。
お嬢様のアスナ氏はカンボディアでお仕事されていると伺いました。
京都府宇治市広野町 木崎 茂

木崎茂様

ブログを書いています村山哲也です。
この度は、コメントをいただきありがとうございました。
自衛隊カンボジア国連平和維持活動、タケオを中心に活動されたようにうかがっています。
1992~93年のカンボジアは、現在からみれば、きっとかなり違う様相だったはずです。
特にプノンペンの街は、以前と全然違う都市となっています。

私自身はプノンペンに最初に訪問したのは1996年。その後2002年から長期で
理科教育支援にかかわってきました。私自身はメアスチャンリーブ氏とはまったく接点がありません。
紳士だったそうですね。だから、当時の政治状況に絶望されてしまったのか。

はい、ご遺族の方は今でもプノンペンに住まわれていると私も聞いています。
連絡を取ったことはないのです。

まったくご縁のなかった木崎様からのコメントは、私には本当に嬉しいことでした。
どうもありがとうございます。胡椒の話はシリーズで連載しました。
他の記事も遊びに行っていただけたら、ますます嬉しいのでした。

お身体を大切に、どうぞお元気でお過ごしください。

ではでは、また。

村山哲也

ご丁寧にありがたく存じます。
自衛隊を定年2008年度で現在は地元京都府の和束町役場総務課で情報処理技術者としで勤務中です。
良い経験させて頂きました。
その後東ティモールPKOも行くことが出来て現地にアマチュア無線をしたときに東京青山学院初等科の机、椅子等を寄贈の話があり調整していましたが私の帰国時期のぶつかり、カンボディアの小学校へ寄贈という方向へ進みました。大成功致しました。
この時の調整は、現在カンボディアで地雷処理するタサンエン村をBASEにしている高山さんが、現地調整して頂きました。
また、6年前には京都の和束町役場へカンボディアからの視察団を受け入れることも出来ました。
その時の通訳に来た担当者と懐かしいことで大きな話題となりました。カンボディア国連平和維持の時の通訳していた方で、私もいつも業務で同行していました、縁とは凄いことです。
そんなことで現在69才で現職自治体情報処理技術者で最高齢をキープしています。笑
でもメアス氏は本当に平和を愛する方でした。
カンボディアという国家にメアス氏の精神がいまもクメールの大地に残ることでしょう。
木崎 茂
un0873318@triton.ocn.ne.jp

初めまして。
突然のコメント失礼いたします。
ふとメアスさんのことを思い出し検索をしたところ、こちらのブログを発見いたしました。
わたしは山田基久の娘です。

メアスさんの訃報を聞いたときのことをよく憶えております。
年老いてきた父が大変落胆し、見ていられないほどでした。
転載していただいたものを、当時読んでいたはずなのですが、あらためてこちらで読み、涙が止まりません。
父は2011年の震災のすぐ後、3月17日に亡くなりました。
カンボジアで暮らしていた母ボパナも、2013年に亡くなりました。

色々な思いがありカンボジアと関わることなく過ごしておりましたが、Instagramを通じてお知り合いになった元難民のカンボジアの方からお声掛けいただき、この秋平塚で行われるカンボジア関連のイベントで使用する映像にナレーターとして(長年声のお仕事をしておりました)参加させていただくこととなりました。
その流れで当時の両親の活動写真や著書などをまとめておりまして、今になり、また両親とカンボジアと、向き合うことになった次第です。

ネットの世界が進んだおかげでこうして父の残したものを目にすることができて、大変感慨深いです。
ありがとうございます。
こちらに書き切れないことばかりですが、カンボジアの黒胡椒はいまや日本のミシュランの星付きのお店でも愛用されておりますね。
わたしも家でつかっております。

雑文で失礼いたしました。
また他の記事も読ませていただきます。

三浦里香様

村山哲也です。ブログを書いたのが2021年1月。ですが、私がカンボジアの胡椒を調べていたのはそれより数年前のことでした。メアスさん、そしてお父様の山田基久さんを追いかけていたことが、2025年になって改めて三浦里香さんの目に留まったということに、自分でも驚くとともに、こうしてメッセージを送っていただけたこと、たいへんうれしくありがたく感じています。

平塚を始めとする神奈川県の町々には、カンボジアから日本に移住した方々のコミュニティがありますね。メアスさんの追悼文集を探し当てられたのも、小田原近辺で暮らすご両親が難民だった方を基点にしたネットワークがあったからこそでした。
近々開催されるカンボジア関連のイベントというのも、そういったカンボジアコミュニティの人たちを中心にして開かれるのかなぁ、などと勝手に想像しています。
ポルポト時代と同じ時期、私は日本で中学生でした。高校時代に読んだベトナム戦争関連の本を漁っているうちに、カンボジアの悲劇を段々に理解するようになりました。そして、その後私は国際開発支援関連の仕事をすることになり、2002年に本格的にプノンペンでのODAプロジェクトにかかわったのでした。
カンボジアとのご縁は現在も続いていて、今私はプノンペン在住です。そうか、山田基久さんのパートナー、つまり三浦様のお母様はカンボジアの方だったのですね。私のパートナーもカンボジアの方なのですョ。

カンボジアの胡椒、はい、風味豊かで、私も愛用しています。ぜひカンボジアの胡椒の歴史を追っかけた記事も読んでくださいませ。

あぁ、でもブログ書き続けていてよかったなぁと思いました。こうして思いがけないメッセージをいただけるというのは、本当に望外な嬉しさです。本当にありがとうございました。
もし機会がありましたら「こちらに書き切れないこと」をお聞かせいただけたら嬉しいなと思ったりもしています。日本での滞在先は東京浅草なので、日本滞在中であれば平塚の催しにも足を運んで、三浦さんのお声を堪能したいところですけれど、プノンペンはちょい遠いのでした。残念です。

まずはお礼まで。 お元気でお過ごしください。

村山哲也@プノンペン

コメント、いただけたらとても嬉しいです