連載第1回から11回まで、カンボジアの海岸沿いカンポット周辺で栽培される、高品質の胡椒の起源を検討してきた。13世紀、アンコールトムを訪れた周達観が書き残した真臘風土記に短く記された青胡椒の存在。現在のカンボジア胡椒業界がこぞって引用する胡椒のアンコール王朝時代起源の根拠はあいまいで、むしろ18世紀以降、華人ネットワークを通じてカンポットの胡椒栽培は始まった可能性が高いことを、記してきた。
そして、前回は「カンポット胡椒が世界一」と記載されたブリタニカ百科事典の日本語版と、原版である英語版・フランス語版の記述の違いと、ポルポト時代のおさらいでした。(前回の連載は以下)
さて。
ここで、いったんカンボジアを離れて、胡椒の歴史、特に香辛料・調味料としてのヨーロッパ社会でのあつかいに触れていこうと思う。その歴史が、美食でもてはやされるフランス料理の大本、フランス国の植民地であったカンボジアの胡椒につながっていくからだ。
ということで、『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』の第2章です。
今回は、「胡椒がヨーロッパで広く用いられたのは、肉の保存のためだった」というのは、どうやら怪しい俗説だったというあたりから触れていきます。
胡椒と古代・中世ヨーロッパ
胡椒が地中海沿岸のヨーロッパに伝わったのは紀元前からで、紀元前5~4世紀のギリシャ時代には胡椒が食卓にでていた。紀元前469年頃の生まれで、紀元前399年に処刑されたソクラテスが食したであろうウナギの蒲焼きには、胡椒がまぶしてあったという[i]。その後、西洋で胡椒を料理に本格的に使いだしたのは帝政ローマ時代のローマ人だった。エジプトとアラビアを経由してインド洋からやってきた胡椒は高価な料理の調味料として定着していった[ii]。たとえば牡蠣をローストしてたっぷり胡椒をかけて食べた[iii]。
西洋で胡椒の需要が高かったのは、肉の保存に欠かせなかったとよくいわれる。例えば農畜産業振興機構ホームページの『フランス料理の歴史とデザートの役割』にある次のような記述だ。
中世末に至るまで、ヨーロッパ人は狩猟による肉類を主食としていた。生肉は3日もすれば臭くなるので、長く保存するには塩漬け以外に方法はなかった。香辛料の中でも特に胡椒は、傷みかかった肉の臭みを消して味を良くすると同時に、防腐剤として殺菌力があるため引っ張り凧で、供給が間に合わなかった。香辛料さえあれば、冬を越すのに十分な食料、肉を貯蔵できた。ハムやソーセージも肉の保存用に発達したものである。香辛料は欠くことの出来ないものであり、最も利益の上がった交易品であった。[iv]
胡椒は利益が上がった交易品ではあったのは確かだ。ところが、広く定説となっている胡椒が肉の腐敗防止に使われたというのは正しい認識ではないようだ。胡椒を始めとするスパイス類の需要が高かったのは、腐敗防止ではなく、富裕層が料理を楽しむ娯楽として使ったからだった。マージュエリーシェファーは『胡椒 暴虐の世界史』で次のように書いている。
中世の人びとは腐りかけた肉のにおいを隠すために、あるいは肉の防腐剤として胡椒を求めたとよく言われるが、そうではない。さまざまな香辛料を使ったのは主に富裕層だが、金持ちはいつでも新鮮な肉を手に入れることができた。(中略) 肉はそのまま、あるいはひき肉にしてスパイスのたっぷりはいったソースで煮込んだ。現代人の口には合いそうもないソースである。中世ヨーロッパでは砂糖がなかなか手に入らなかったから、裕福な人たちは、ピリッとした旨みを出すために胡椒やシナモンやナツメグを大量に使ったのだ。胡椒は新鮮な肉の味を引き立てるとともに、食後酒のような役割も果たした。豪華な食事の後で皿に盛った胡椒を客たちに回し、それぞれ一口味わうのも、富裕層の楽しみの一つであった。
金のない人たちはスパイスには手が出なかったし、生の肉を食べることもほとんどなかった。胡椒をわずかばかり、それとスペインから来るクミンを買うのが精いっぱいで、食事といえばパンや粥や水っぽいチーズであり、ときたま魚を食べた。とはいえ、胡椒が肉の腐臭を隠すために使われたという通説は、そうではないと歴史家がどんなに力説しても、いまだにまかり通っている。[v]
アネットホープによる『ロンドン 食の歴史物語』でも次のように触れられている。
中世のレシピではスパイスはごく当たり前のものだった。にもかかわらず、どんな料理にもスパイスが強くきいていたのは腐りかけた食品の味をごまかすためだったという誤解がある。だが第一に、スパイスを買える人びと ――たとえば土地もちの郷士――は一年を通じて新鮮な肉を手に入れることができたのだ。(中略)スパイスは地位を見せびらかすのにうってつけの手段だったのだ。裕福な家ほど、食卓に並ぶスパイスが多彩になった。[vi]
フ ランスの歴史学者フランドランらが著した大著『食の歴史』の中でも肉の保存にスパイスが使われたという説は一蹴されている。しかし、スパイスの大量消費に対してのフランドランの見解は、先に紹介した資料とは少し趣が違う。
スパイスは食肉の保存、あるいは保存が悪かった食肉の劣悪な味をごまかすために使用されたという説である。実のところ、どの方向から検討しても、この節はとうてい認められない。(中略)
多くの優れた歴史学者が、スパイスを使った料理を社会的差異化の手段と考えている。スパイスは庶民の手に届くところにはなかったのだから、これは誤りではない。もっと言えば、、料理に含まれるスパイスの量と種類の多さは、財産と地位に比例して増加した。だが、この説は表面的なものにとどまる。なぜならば、スパイスの差異化機能はその第一の機能ではありえないからだ。[vii]
そして、フランドランは、スパイスの医薬品としての機能――薬効――こそが、貴族たちがこぞってスパイスを使った第一の理由だと述べている。中世の欧州の医者たちは、消化を助けるために調味にスパイスを使うことを勧め、その勧めに従って貴族たちは高価なスパイスを大量に使う料理を好んだという。1607年にフランスで出版された本には、胡椒の薬効として、健康を維持する、胃を丈夫にする、ガスを称賛させる、排尿を促す、間欠熱の悪寒を治す、蛇の噛み傷を治す、体内の死児を外に出す、咳に効く、レーズンと一緒に噛むと脳からの粘液をきれいする、食欲をわかせる、が挙げられている[viii]。胡椒は正に万能薬だった。
中世とは、ヨーロッパ史の中では、黒死病と呼ばれたペストの流行や魔女狩り、さらには十字軍遠征など、負のイメージも伴う時代だ。社会の仕組みでいえば、キリスト教が定着し、封建制が完成し、さらに地方領主によるそれぞれの統治から中央集権制の絶対王政に向かい、ヨーロッパにある現在の国々が徐々に形成された時代となる。
この時期に胡椒貿易を支配していたのは、イタリアの都市国家ヴェネチアだ。15世紀ヴェネチアがもっとも栄華を誇った背景には、ヴェネチア地中海からエジプト、さらに紅海からインド洋に抜ける道を通る胡椒貿易の独占があった[ix]。
この胡椒を始めとする香辛料の東方貿易に参入しようとしたポルトガルやスペインが、地中海航路に頼らない海路を模索することで大航海時代を開き、それにオランダ、さらにはイギリスが続くことになる。それまでインド洋に続く紅海と地中海につながるナイル川の間の陸路を駱駝で運んでいたのと比較し、インド洋からヨーロッパまで直接船で胡椒を運べるようになったことで、東南アジアからヨーロッパへの胡椒輸出量は16世紀から急増し、17世紀初頭ではおよそ年間二千トンほどと推定される。さらには1660年代には年間四千トンを超えた。
しかし、その17世紀後半にヨーロッパで胡椒価格が暴落し、以降ヨーロッパへの東南アジアからの胡椒輸出は徐々に減退する[x]。18世紀になると、胡椒はその特別な価値を失い、大量に胡椒を使った料理を裕福層が自慢することはなくなっていった。しかし、それに代わって、一般庶民の食卓に胡椒が使われるようになっていく。
マージェリーシェファーによれば、中世ヨーロッパの社会にとって胡椒は、楽園、パラダイスへの幻想を掻き立てるものだったという。東洋は地上の楽園であり、胡椒などのスパイスで満ち溢れているというイメージがあった。胡椒は当時の西洋社会の過酷な環境、――例えば比較的豊かだったフランスでも10世紀から18世紀にかけて広範な飢餓が89回も起こっている――、の中でゆるされた甘い幻想のシンボルだった。だからこそ、胡椒をふんだんに使った料理の価値が高かった。
実際には東洋はヨーロッパの人々が夢想するような楽園ではなかった。17世紀前半、中国ではそれまで増え続けていた人口が旱魃や洪水が続いたことで減少しているし、同じ頃1630年にはインドがひどい飢餓に見舞われ、インド南部の現在のケララ州辺りでは胡椒が全滅している[xi]。つい2~300年前、飢餓は世界中で“普通”なできごとだった。世界史の中では「今、現在」は常に特異な時間だ。
胡椒を始めとする香辛料を求めたヨーロッパの東南アジアへの進出は、東南アジア社会に大きな変容をもたらすことになった。ポルトガルやスペインの進出は、軍事力による略奪から始まっている。さらに、オランダとイギリスの東インド会社は、17世紀に競うようにスマトラ島やマレー半島で胡椒栽培地を開拓した。それにより、その地の王たちは経済的に潤ったものの、住民たちは強制的に胡椒栽培に駆り出された。輸出作物栽培の強要は、ときには地域住民の飢餓へと直結した。
カンボジア海岸部は人口密度が疎であったこともあり、東インド会社の進出はなかった。だから、胡椒栽培の移入は、マレー半島やスマトラ島よりも遅かったのだ。そして、そのことは初期のヨーロッパからの略奪を逃れられたという点で、カンボジアの人々にとっては幸いであったのかもしれない。
[i] 189ページ 塚田孝雄/著『ソクラテスの最後の晩餐』 筑紫書房 2002
[ii] 280ページ J.L.フランドン、M.モンタナーリ/編 宮原信・他/訳『食の歴史I』 藤原書店 2006
[iii] 262ページ J.L.フランドン、M.モンタナーリ/編 前掲書
[iv] 農畜産業振興機構ホームページ 「フランス料理の歴史とデザートの役割」 https://sugar.alic.go.jp/japan/view/jv_0102b.htm
[v] 35~36ページ マージュエリー・シェファー/著 栗原泉/訳『胡椒 暴虐の世界史』 2015
[vi] 28ページ アネット・ホープ/著 野中邦子/訳『ロンドン 食の歴史物語』 白水社 2006
[vii] 642~643ページ J.L.フランドン、M.モンタナーリ/編宮原信・他/訳『食の歴史Ⅱ』 藤原書店 2006
[viii] 645ページ J.L.フランドン、M.モンタナーリ/編 前掲書(『食の歴史Ⅱ』)、そこで紹介されている1607年に出版された本とはJean-Antoine Huguetanによって書かれた「Le Thresor de Sante(健康の至宝)」
[ix] 37ページ マージュエリー・シェファー/著 前掲書
[x] 18ページ 弘末雅士/著『東南アジアの港市世界』岩波書店 2004
[xi] 37~39ページ マージュエリー・シェファー/著 前掲書

















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