夕焼け空を見上げる
鳥の群れが東へ西へと翔び交っている
幼鳥を育てながら
次の旅への準備である
職場と寝る所と
交流の場を行き交う
こうして街が生まれた
若人よ世界を旅してくれ
文と写真の旅もある
旅は誰にでもできる
この平和を守り続けてくれ
新潟の寒村から東京へ
この詩?のようなものを書いたのは1936(昭和11)年生まれのMCさん。私の父です。
彼は新潟県の冬は雪深い寒村の農家に生まれました。女・男・男・女という四人姉弟の2番め、つまり長男です。彼が生まれた時代、長男というのは今以上に特別あつかいされる存在だったようです。家業を継いで、代々の田んぼと家を守るべき人として育てられた彼は、しかし村にただひとつの高校(4年制の定時制)を卒業後、1~2年村役場に務めた後、大学進学を目指して東京に出てくるのです。中国太平洋戦争が終わってから10年ほど経ったころの話です。
当時、彼の故郷である寒村から東京までバスと汽車を乗り継いで、おそらく丸々1日はかかったはずです。今なら、関越新幹線を使えば楽々半日で済む道のりです。イメージで言えば、おそらく東京から見た新潟の山奥という場所は、現在なら東南アジアの地方の村ぐらいの距離感なのではないでしょうか。
ときどき思い出すように話したことによれば、彼は天文学者になりたかったのだそうです。星の一生を研究するような仕事、つまりは物理学の最先端ともいえる分野です。天才たちが競う場所です。そして、おそらくその夢は叶わないとどこかで悟ったのでしょう。彼は農業土木、主に水利の技術者になりました。想像するに、新潟県職員になるなどの選択肢もあったはずです。けれども大学の研究室でお手伝いとして働いていた東京生まれ育ちの女性と恋に落ちた彼は、東京での勤めを選びました。農地開発機械公団という組織です。
この仕事につけば、数年おきの地方まわりは当たり前でした。けれども、彼は公団での組合業務に縁がありました。そのせいで、私は3歳から13歳まで10年間、東京都杉並区で過ごしました。新宿の西に開けた住宅地です。江戸・明治の時代なら、武蔵野の農地が広がっていた場所です。代々の地元民よりも、むしろ戦前戦後に増えていった地方から東京に出てきた若い世代が多いような地域でした。転勤族も多かった。
その後、組合業務から離れた彼は、福島県福島市、さらには大館村(その後、福島第一原発事故による原子雲に覆われて、大きな放射能汚染被害を被った場所です)で働きました。しかし、日本国内では改めて農地を開拓する需要はどんどんと縮小していきます。彼が務める公団(その後、農用地開発公団と名前を変えています)の役割は、日本国内ではもうほとんど残されていない。
やがて彼は海外の農用地開発の仕事に出会います。主な場所は、西アフリカのニジェール、インドネシアのスラベシ島、南米のパラグアイ。私も途上国での教育支援に関わっています。私の途上国への思いは彼が海外での仕事を得るずっと前からのことですから、ときどき「お父さんの後を継いで」というようなことを言われるとちょっと不満な気持ちが湧いてきます。彼と私とでは、もともとの思いが違うと。彼の海外援助のやり方は私から見ればアマチュアだと、私は不遜にも思ったりしているのです。
それでも、彼とそのパートナー(私の母)が途上国の生活経験が豊富であることは私にも都合のいいことが多くありました。たとえば、実母(私の祖母)が亡くなったとき、その葬儀に彼は海外から戻ることはできませんでした。彼の働くパラグアイの地方の町から新潟の寒村までは、さすがにまだまだ遠かったのです。故郷を離れて数十年たった長男を待つために葬儀を数日遅らせるほどの長男ブランドはすでになかったわけです。偶然日本にいて祖母の葬儀に参列することができた私は、「親族の葬儀に帰れない」実例に何か心が軽くなる思いがしたものでした。実際、その後私は親族の冠婚葬祭を帰国せずに過ごすことが多いのです。
さらに、私が働く途上国で爆発事件があった時なども、そういう場合もだいたいの状況が想像できる彼らは必要以上に私のことを心配することはありませんでした(少なくとも表面上は)。
60歳を過ぎた彼は、そのまますっきりと引退しそれまで縁のない埼玉県北部に建売住宅を買って、そこで20年ちょっと過ごしました。新潟の故郷近くに帰って暮らしたいという思いがまったくなかったわけでもないようです。彼の村から東京に出てきた人たちの集まりは、彼には大事な場所でした。村の名前を冠したその会の会報にも、彼は積極的に文章を投稿しています。それでも、二十歳のころに村を出てから、彼が故郷に暮らすことは二度とありませんでした。
越境、そして越境
彼が村を捨てたことを「彼のわがまま」と評する人もいたようです。ただ、彼のお姉さん(私の叔母)が「MCは少々人付き合いの苦手な弟のことも考えて家を出たんだ」と語っていることを最近知りました。おそらく「わがまま」もあったし、「弟のことを考えた」ことも本当なのでしょう。実際、弟さん(私の叔父)は農地を、牛や鶏という家畜が共に暮らす家を、大きな鯉が泳ぐ池を、裏山を登った先にある水源地を継ぎ、今では彼の長男(私の従兄弟)がそれを引き継いでいます。
もし私が彼からなんらかの影響を受けているとすれば、それは越境するということかもしれません。彼が東京に出てきたのは、間違いなく越境です。そりゃ、東京に出てきても日本語は通じたでしょう。読み書きに困ることもなかったはずです。けれども、1960年前後(昭和30年代)、旅行ではなく上越線で三国峠を超えた彼は、大きな境界を超えたのです。そして、そうやって始まった彼の越境は、やがてアフリカやモルッカ諸島、南米まで繋がりました。おそらく、想像していたよりもずっと遠くまで、彼は手を伸ばした。
それが冒頭にあげた散文の「若人よ世界を旅してくれ」の実感となったのです。
組合仕事の一環で、選挙になると父は旧社会党候補者の支援をよくしていました。休みの日の近所へのビラ配りには、私も彼との時間が嬉しかったのでしょう、よく一緒に歩きました。大きな団地などにいけば、「こっからあっちは頼む」ということで私も郵便受けに候補者支援のビラを入れて歩いたものです。
そんな私は大人になってからの社会党凋落のころ、「当時の若者にとって社会党支持はファッションのようなものだったんじゃないか?」と彼に少々の批判も込めて告げたことがあります。今から思えば、ずいぶんと酷い一言だったと身震いする思いもあります。彼がなんと答えたかは覚えていません。おそらく「そうかもしれないなぁ」とつぶやいたぐらいではなかったか。
8年前、私がルワンダで事故に遭った際、その知らせを聞いた彼は昼間から寝込んでしまったそうです。それでも、その後の私の再生の歩みは彼にもなんらかの意識変化を起こしました。
健康診断を10年以上も本人の意志でサボっていた彼が、みるみる痩せた2020年、ようやく出かけた病院で調べたときには、すでにお腹のなかは癌だらけでした。すべての延命措置はしないと常々言っていた彼でしたから、彼が「手術を受ける」と言ったときにはまわりは少し意外に思ったものでした。「障害者となった哲也(私の名前)が頑張っているのを見ていたら、俺ももう少しという気持ちになった」のだそうです。2021年の桜も見られないだろうと言われた後、手術の結果、彼の寿命は約1年延びました。その1年のあいだに、孫たちと国内旅行もし、パートナーとも静かな時間を過ごして、2021年11月に彼は永眠しました。
手術後、一度彼に「死ぬのは怖いか?」と聞いたことがあります。彼の答えは「それほどは怖くない」というものでした。本音はわかりません。
亡くなるその日の昼間、コロナ禍で面会禁止の病院で、でも彼はパートナーに会うことを懇願しました。10分だけという制限の中、病院に駆けつけた彼女に会ったのが、彼と彼女の最後のコミュニケーションと聞いていました。けれどもその夕刻にも彼女に電話があったのだそうです。電話で彼が彼女に頼んだのは……、それはここで書くのは止めにします。大したことではないのですけれど、ね。とにかく、父にはすでに予感があったのでしょう。その夜、彼はまたひとつ大きな境界を一人で静かに越えていきました。
海外にいた私は、彼の葬儀には帰りませんでした。
冒頭の散文は、彼が亡くなる数日前に小さな紙切れに書き残したメモのようなものです。筆圧の弱い震える文字は、でも推敲を重ねた跡も残っています。
旅は誰にでもできる この平和を守り続けてくれ ……
父よ、世界はぜんぜん平和じゃないよ。日本の平和を守れみたいな、一国主義ではダメではないか。ただ、その思いは承ります。ではでは、また。

















以前に村山さんの本の中で御父上様のことが少し書かれていて少ーし存じていましたが、村山さんの人生はご両親、特に御父上様に無形の影響を受けておられますか。いずれにしても。村山さんのスケールの大きい、大陸的な生き方(勝手な、あいまいな表現です!)には日々圧倒されています。今でも喝を入れられる思いです。
私は親父が教員でした。子どもが6人と多く、私は第4子でした。公立校の管理職でしたが定年までに子育てが終わらないので定年前にカトリックの私学に移りました。「教員だけにはなるな」と言っていた親父に逆らって私は教員人生を選びました。管理職は目指さない、数学を教えるという形だけは貫ぬいてきましたが、ここには書きたくない反戦意識の強い教員(教官)生活の時代、受験指導に没頭するような時代、G社、S研ゼミ、S予備学校の受験誌の執筆に夢中になった時代、オチコボシを意識して自分に攻められる時代などありましたが、無職になった今、振り返ると自分にはこの職業でよかったと思います。村山さんにも出会えたしね。(小野 久)