ぼくは、マラリアが心底大嫌いだ! (……カニタのこと)

プノンペン 教員養成校で授業をするカニタ

 少し前のことになるけれど、2020年3月末、日本でマラリアのワクチン開発が進んでいるというニュースを知った。ブラボー!!ぜひ、実を結んで欲しい!

 ぼくはマラリアという病気が心底嫌いだ。心から憎んでいるといってもいい。
 7年かけて育んできたひとりのカンボジア教師を、ぼくから奪ったからだ。ぜったいに、許せない。

 マラリア。熱帯・亜熱帯に生息するハマダラカ(蚊)が媒介するマラリア原虫が引き起こす感染症だ。数日おきに高熱発作が起こる三日熱マラリア四日熱マラリアの他、不規則かつ頻繁に発熱し合併症(深刻な貧血や低血圧、呼吸圧迫、脳障害による意識混濁、等々)を起こしやすい熱帯熱マラリアなどがある。これらのマラリアによって、毎年2億人を越える患者があり、40万人から50万人が亡くなっている。特に、熱帯熱マラリアはときに危険な病気だ。

 ぼくも20代後半に青年海外協力隊に参加し、ケニアで活動していたときに、数回マラリアに罹ったことがある。もちろん、注意はしていた。クロロキンといった予防薬も服用していた(はずだ)。それでも逃げられなかった。1991年ごろ、今から30年ほど前のことだ。高熱ができるときに、悪寒で身体が震え、歯がカチカチと噛み合わなくなった経験は忘れられない。
 そのころは、「マラリアにかかって一人前」みたいな雰囲気がケニアの協力隊仲間のあいだでは、まだあった(今はどうだろう?)。そんな気分を戒めるように、協力隊事務所からは、マラリアに3回感染したら、日本に強制帰国と伝えられていた。でも、首都ナイロビから遠く離れた赴任地では、身の回りでマラリアはごく普通の風邪のような扱いの病気だった。そんな状況でマラリアにかかっても、しかも3回感染したら強制帰国といわれていたら、いちいちマラリアにかかりましたと報告はしなくなっていく。 
 幸い、ぼくのマラリアは重症化することはなかった。けれど、職場にはときどきマラリアの発作が起こる同僚がいたし、村の中で子どもがマラリアで亡くなったという話もときどき聞いた。子どものお棺は小さくて、それがなおさら悲しい。
 さらに、ぼくがケニアにいる間にも、マラリアが重症化して日本に帰国した協力隊仲間もいた。ぼくがそうならなかったのは、単にラッキーだけだったと、今振り返ると思う。自分の愚かな無邪気さが恥ずかしい。

 そして、ぼくとマラリアのつきあいは、ケニア後も続いた。
 ケニアから帰国して数年して、日本で高熱が出た。調べたらマラリアだった。ずっと身体のどこかで眠っていた原虫が目を覚ましたんだ。治療を引き受けてくれる病院がなかなか見つからず、オタオタしたことを覚えている。そのときは、1週間ほど入院となった。それ以降も、熱が出ると、アチャー、またマラリアかぁ??と、かなり不安になった。でも、その後、マラリアと診断されたことはない。さすがに、もう身体のどこにもマラリア原虫は残っていないだろうと思う。

カニタ

 マラリアとは、もう縁が切れたと思っていたとき、あいつは突然現れて、カニタをあっという間に連れ去ってしまった。2010年2月のことだ。
 カニタはカンボジアの高校教員養成校の地球科学の教官で、ぼくの同僚というか、教え子というか、同士というか。とにかく彼女が死んだときの喪失感は、とても大きかった。途上国で開発援助の仕事をしてきて、もっとも辛いできごとだ。カニタは30才だった。カニタが教員養成校の教官になったは2003年で、そのときはもうぼくはその教員養成校で働いていた。だから、7年間だ。7年間があっという間に消え去った。

 カンボジアでもマラリアは一応注意しなければいけない病気だ。でも、それまで身の回りでデング熱の事例はいくつかあったけれど、マラリアは聞いたことがなかった。マラリアは、プノンペンで流行る病気じゃない。でも、カニタは発症の一週間ほど前に、ベトナム国境に近いモンドルキリという地域に出かけていた。そこにはマラリア汚染区と呼ばれる、マラリア原虫をもつ蚊がいる場所がある。
 彼女は教員養成校の教員をやりながら、プノンペン大学の大学院で生物多様性に関して学んでいた。そのコースは、デンマークからの支援を受けて設立されていた。そこでデンマークからの指導教官に可愛がられ、大学院修了後は、デンマークで研究を続ける話も出ていた。その話を、彼女はぼくに直接は告げなかったけれど、ぼくは気がついていた。彼女を教員養成校の仕事から開放してあげなければならない時期が近づいていた。彼女が高く飛ぶのを、邪魔してはいけない。ぼくから見ても、彼女こそ、翔ぶべき人だった。彼女の飛翔をぼくも見てみたかった。
 そして、彼女はその大学院の研究調査で、マラリア汚染区に立ち入っていたんだ。

 彼女が死ぬ二日前に、ぼくは彼女と養成校の事務室で会っている。そのとき、もう熱が高かった。「早く帰って休むように」とぼくはカニタに強く伝えた。でも、ぼくの頭にはマラリアの文字は浮かばなかった。油断してた。このとき設備の良い(そのかわり料金も高い、だから彼女の家族は近所の“普通”の病院に運んだ)病院に連れていけば良かったんだ。なぜ、それを思いつかなかったのか。悔やんでも遅いけれど、悔やんでいる。これからもずーっと悔やみ続ける。 
 その夜か、翌朝か、彼女は昏睡状態に陥って病院に運ばれ、でも、もう目を覚まさなかった。タイミングが悪いことに、ぼくは翌朝から地方出張に出ていた。同僚からの電話でカニタが入院したと聞いて、「そっちのほうが早く良くなるだろう」なんて、ぼくは思っていたんだ。アホだ。

 そして、彼女と最後に会った翌々日の午前中。出張先から、カニタの携帯電話にぼくは電話をした。「様子はどうだ?」なんて聞こうと思ったんだ。その電話を取ったのは男性だった。カンボジア語でなにかまくし立てている。「スラップ」という単語が耳に入った。「死」という言葉だ。
 夕方、プノンペンの彼女の自宅に急いだ。遅くまで仕事をして雨が降った夜、何度か彼女を自宅まで送り届けたことがあった。大通りから彼女の家まで、細い道を行く。早く彼女の家に着きたかった。でも、彼女が無言で待つ家に、ずっと着かなければいいとも思った。
 棺桶の中の彼女は、黒ずんだ顔をして目をつぶっていた。その額に手を伸ばした。ひんやりした肌。バカだなぁ。死んじゃダメじゃないか。許さないぞ。そんなことを、思っていた気がする。

珍しいカニタのお化粧顔 同僚の結婚式で

 長い7年間のつきあいの中で、彼女とふたりきりでご飯をたべたことがなかった。それも、悔しい。彼女とぼくとの関係は、お互いに唯一無二だったと思う。そう書くと、まるで恋愛関係みたいに思う人もいるだろうけれど、なにせふたりだけで食事もしていないのだから、そうじゃないんだ。いや、そうなっても不思議ではなかったけれど、そういう縁は、ぼくたちには、なかった。

 ただただ、損得無しで、ぼくたちは尊敬し合える存在だった。

 彼女が死んでしまって10年が経ち、彼女との関係をぼくはなにか理想化して持ち続けているのかもしれない。そうだとしても、カニタはきっと笑って許してくれるだろう。

 マラリア、ぜひ質の良いワクチンが開発され、多くの人たちに安価で接種できるようになってほしい。どうぞお願いします。心から、お願いします。

コメント、いただけたらとても嬉しいです