「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」 と、私も考えていたのです、障害者になる前は。

カンボジア カンポット県 ディさんを訪ねて

なんとも迂闊な途上国での教育開発援助者だった私

「障害者と接した機会がないこと、そして、知識を持っていないこと。これが障害のない人たちと接するときに直面する二大障壁だった。何も珍しいことではない」(281ページ ジュディスヒューマン著 曽田夏記訳 『わたしが人間であるために 障害者の公民権運動を闘った「私たち」の物語』現代書館 2021)

 2002年から2005年まで、そして2008年から2012年まで、カンボジアで行われたODA(政府間援助)による中等教育理数科改善計画(STEPSAM1&2)で働きました。このプロジェクトは、プノンペンにあるカンボジアで唯一の高校教員養成校内に日本政府の無償資金協力で支援された理数科棟、2階建ての建物に事務所がありました。そして、この建物にはスロープは設置されていなかったのです。地上階にある事務所に入るためには数段の階段を登らなければなりません。当然、建物内にはバリアフリーのトイレはなかったし、2階に上がるには階段だけが手段でした。
 この理数科棟が完成したのは2002年の7月末だったから、デザインされ建設が始まったのはおそらく2000年後半だったのではないでしょうか。つまりこの建物を建設する際には、日本側もカンボジア側も車イス利用者がこの建物を使うことはまったく想定されていなかったのです。そして、2002年に働き始めた私も、この理数科棟にスロープがないことをこれっぽっちも不思議だとは思いませんでした。冒頭に書いた文章の通り、当時健常者だった私も障害者と接する機会もなく過ごしてきましたし、障害者のニーズに関する知識もまったく持っていなかったというわけです。

 社会開発を専攻すれば、今ならばジェンダー視点を学ぶ機会は必ずあります。私が大学院で途上国の教育開発について学んでいたころ(1990年代)、JICAにはWIDという言葉がありました。WID、Women in Development、開発と女性、と訳されていたような記憶があります。その後、このWIDという言葉はジェンダーに収斂する形で使われなくなりました。一方で、あの頃も、そしておそらく今も、DID、Disability in Development、という言葉は聞いたことがありません。開発学でも、開発と障害者、というトピックは今でも特別には用意されていないんじゃないかしら。もちろん、障害者支援を専門にしている開発援助者はいるものの、その知見は広く共有されるには至っていないのです。

 車イスに限らず、心身に障害を持つ人は、どの社会でも10%程度はいると考えていいでしょう。前掲したジュディスヒューマン(小児麻痺による手足の運動機能の障害を持つ車イス者で、米国の障害者権利運動活動家)の本にも、ロナルドレーガンが大統領だった1980年代当時、まだ人口が3億に届いていない米国で3500万人の障害のあるアメリカ人がいたことが書かれています。日本国でも、令和2(2020)年に全人口の7.6%が障害者手帳受給者でした。障害があっても障害者手帳を持っていない人もいるわけで、つまりは実際の障害者は7.6%よりも多いことになります。進む高齢者社会では、だいたい10%、10人にひとりは障害者といってもけして過大な表現ではないはずです。

 というわけで、2014年に事故にあって自ら障害者となる以前の私は、この10%の人たちのことが視野に入っていない、なんとも迂闊な途上国開発援助者だったのです。

車イス仲間のディさんを訪ねて

 さて、ちょっと話変わって。新型コロナの感染吹き荒れる4月に無理やり日本からプノンペンに移ってきて半年以上がたった先日、本当に久しぶりにプノンペンの外へ出かけてきました。3年近く前に知り合った車イスの友人、ディさんを訪ねたのです。ディさんについては、このブログの2020年11月10日に書きましたので、そちらも参照くださいませ。カンボジアで車イス者から話を聞く ディーさんの場合 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)

 2011年、18歳のときにココナツの実を採るために登ったヤシの木から落ちたことで脊髄損傷による下半身麻痺となったディさんとは、彼がプノンペンの障害者支援団体で研修を受けているときに出会ったのでした。その後、研修を終えたディさんは2020年3月に故郷のカンポットの村に戻り、今は両親とお兄さん夫婦と一緒に暮らしています。新型コロナ禍の日々の新たなPCR検査陽性者が100名を切るようになり(7~8月ころは連日千人を超える陽性者が出ていました)、学校もようやく再開されつつあるカンボジアで、久しぶりにちょっと遠出をしようかと計画したときに、思い出したのがディさんだったのです。「コロナが落ち着いたら会いましょう」と以前インターネットでやり取りしていましたから、出かけるなら彼を訪ねようと思ったのです。

 ここ10年で見違えるように整備された国道3号線を南下し、彼の住む村まで10キロちょっとというチュックという名の町まではすべてがスムースでした。ただ、ここからの10キロがなかなか険しい道程でした。11月、雨季の終わりのカンボジアです。多少の悪路は覚悟していましたが、チョックからディーさんの村への道は、やはりかなりの悪路、ぬかるみ道でした。しかも妻の運転する車は障害のある私が乗りやすいように車高は低めの普通車です。でこぼこ道を走る際には、お腹をすらないようにどうしてもソロソロとゆっくり進むことになります。さらに、村の入口につながる数キロでは、ぬかるみ道を補修するために、ダンプカーが土砂を運びショベルカーがそれを地ならしする作業が行われていて、そこは何十分も通行止になり、そして数台が通ればまたすぐに通行止め。ということで、最後の10キロに2時間近くかかって、ようやくディーさんの暮らす家にたどりついたのでした。

 おそらく彼は、私たちの訪問をとても楽しみにしてくれていたのでしょう。1年半以上ぶりの再会を心から歓迎してくれました。
 彼は帰郷後、自宅で自ら養鶏に取り組んでいます。カンボジアの農村部に一般的な2階建ての家(ディさんは地上に置かれたベッドで寝起きしています)の庭には、小さな鶏小屋が5棟ほど並んでいました。また、養鶏の傍らで趣味のようにして飼っている闘鶏用の立派な雄鶏が数羽、互いが傷つけ合わないようにそれぞれ一抱えもあるようなゲージに入れられて昼過ぎになっても時の声を上げていて、なにかと騒がしいのです。

「この闘鶏の雄鶏はおとなしいんだよ」と、この後私も抱かせてくれました。                             
 鶏小屋の1つの中で、水やりをするディさん。すべての鶏小屋に日に何度も水やりしなければいけません。
かなりの重労働です。ちなみに、彼の車イスはごっついオフロード仕様です。                  

 「ここでの暮らし、大変なことは何?」と聞いてみました。

 「プノンペンでは、周りの人たちが障害に関して理解があったけれど、この田舎では障害者に対する無理解が嫌です」とディーさんは答えてくれました。たとえば、隣近所の人たちも、ときにディーさんに「イザリ者」というような言葉を投げかけるのだそうです。
 あるいは、村役場での村民ミーティングに障害があることを理由に呼んでもらえなかったりしたこともあったそう。また、近所のお寺の施設が建て替えになった際、両親が寄付をした際に「車イス者も利用できるようにスロープをつけて」とお願いしても、結局スロープはつかなったのだそうです。「新しい施設の階段は、以前よりも段差が低くなって昇りやすくなりました。けれど、スロープはつけてくれなかった。パゴダ(寺)の偉い人たちは、新しいデザインを取り入れることに積極的じゃないみたいで」と、ディーさんは悔しそうに顔をしかめて見せました。

 ここでもやはり障害者の存在は、多数の人たちにはなかなか「見えない」のです。ディーさんは「プノンペンでは、周りに障害に対する理解があった」と語りましたけれど、それはディーさんがかかわった人たちが障害者支援組織の仲間やその周辺の人たちだったからです。プノンペンの大多数の町っ子たちにとっても、やはり障害者は未だに見えない存在なのは、田舎とそれほど大きな違いはないと私は思っています。

「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」 を乗り越えるために

 このブログのタイトルに挙げた、「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」という考え方は、特に気にしなければごく普通の考え方にも思えます。まず健常者の利便が良くなってから、という考え方。まずは多数の人たちの利便性が高まることなしに、なんで少数者の障害者のことにまで気がまわるのだ、という考え方。
 この言葉も、前掲の ジュディスヒューマン著『わたしが人間であるために 障害者の公民権運動を闘った「私たち」の物語』 からいただきました。正確には以下のような文章です。
「まずは障害のない子どもたちの教育のことをやりませんか。障害児のことは、そのあとかんがえましょうよ」(283ページ)。オバマ大統領の時代、国務省(日本の外務省にあたる)で障害者の権利条約に関わる仕事をしていたジュディスに対してかけられたひとりの国務省スタッフの言葉です。この言葉に対してジュディスは「こういったことは、本当によくあることだった」とため息をつくかのように書いています。
 こういった考え方は本当によくあることで、つまりは、だから、どうしたって、障害者を含む少数派のことは、いつだって後回しになります。

 例えば、やはり以前もこのブログで触れた、日本国政府によるプノンペンのバス路線整備への支援。2020年11月19日の投稿 日本のODAによるプノンペンバス路線整備、絶好のユニバーサルデザイン啓蒙のチャンスを逃した???もったいなかったんじゃない?? – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com) を参照ください。
 日本から支援されたバスは、すべて高床式で、車イスでの乗降はできません。この支援の計画書を入手して読んでみたところ「雨季に道路が冠水することのあるプノンペン市のバス路線では、低床バスの導入は難しい」とありました。ということは、未来永劫、プノンペン市のバス路線はユニバーサルデザイン車の導入は難しいということなのかな。そりゃ、困ったな。
 私の下衆の勘繰りですけれど、これは「高床式バスを導入すること」を前提とした後付の理屈でしょう。日本でも最近一気に拡大したユニバーサルデザインのバスは、まだそれほど多くは中古車市場に出ていないのでしょう。さらに、ユニバーサルデザインのバスが登場したことでお役御免となった高床式バスが中古市場では多く出回っている。だから高床式バスの支援となった。つまりは、そういうことだろうと、私は勝手に推測しています。そして、おそらく意志決定の場に、障害者はひとりもかかわっていないのです。90%の人たちだけで、ものごとは決められるのです。
 ここにも明らかに 「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」 という考え方があります。この考え方で、意思決定のプロセスのどこからも文句も疑問も出ないのです。プノンペン市のバス路線整備プロジェクトにかかわった開発援助のプロフェッショナルの人たちは、だれもDID( Disability in Development、開発と障害者 )を学ぶ機会がなかったのでしょう、事故前の私と同様に。あるいはもしDIDを意識していた方がいたとしても、あくまで少数派で、彼/彼女の声は届くことはなかったのか。
 ちなみに私が今年4月にプノンペンに戻る際、一度は成田空港の搭乗手続きカウンターで予定していた飛行機への搭乗を拒否されました。理由は、プノンペン空港から待機先のホテルまでの輸送に使うバスが車イスでは搭乗できないから、です。当事者で責任をもってバスに乗れるようにアレンジするように、と告げられました。具体的には私をバスに抱えあげることのできる同行者がいなくては搭乗は許可できないということでした。そのフライトに私は一人で乗るつもりで、同行者はいなかったのです。そして、プノンペン空港から待機ホテルに輸送するバスが、日本政府が支援した日の丸つきの高床バス、でした。(それから10日ほど後に、プノンペンの野球仲間がプノンペン入りする際に私の同行者になってくれて、私はプノンペン行きの飛行機に乗り込めたのでした、Gさん、ありがとうございました!)

 こうやって、「後回し」はあっちでもこっちでも連鎖していくのです。仕方がないこと、かもしれません。でも、本当に仕方がないこと、なのでしょうか?DID(開発と障害者)の思想が広く行き渡っていれば、状況は何か違うんじゃないでしょうか?昨日の常識は今日の非常識ってこともないだろうか?今日の常識は明日の非常識にしていかなくちゃいけないんじゃないのだろうか?

 さて、例えば、カンボジアで現在進行中の大型教育支援プロジェクトに、「教員養成大学設立のための基盤構築プロジェクト(The Project for Establishing Foundation for Teacher Education College 、略称E-TEC)」があります。32.70億円をかけて、プノンペン市とバッタンバン市にある2年間の教員養成短期大学を4年制の大学に変更するためのに新たな校舎建築が進み、バッタンバンはすでに終わっているんじゃないかな。プノンペンもそろそろ完成ではないかしら。
 さて、この新たな4年制大学、バリアフリー化はどうなっているでしょう。20年前の理数科棟と同じように、校舎への入り口には段差があったりしないでしょうか?2階3階の教室に行くためのエレベーターは設置されているでしょうか?トイレにユニバーサルデザインは導入されているでしょうか?つまり日本の公共の建物には用意されるべきバリアフリーの設備は、カンボジアへの支援にも整えられているでしょうか?それとも、日本と違う途上国のカンボジアでは、まだ障害者への配慮は「高望み」で、つまりは 「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」というレベルの援助がなされているのでしょうか、20年前と同様に。
 今日のこのブログは、内容を多少変えてカンボジア語版ブログも同時に投稿する予定です。で、そのカンボジア語版でも、E-TECでのバリアフリーはどうなっているの?という問いを流してみます。おそらくプロジェクトに関わるカンボジア関係者の誰かがコメントをくれるはずだと期待しているのですけれど、さて、どうなりますか。コメントがありましたら、またこのブログでご紹介したいと思っております。

 「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」 をどう乗り越えていけばいいのかな。歴史が私に教えてくれることがひとつあります。それは当事者(この場合は障害者)が声を上げることなしに、こういう多数者による「当たり前とも思える価値観」は絶対に変化しないということです。やれやれ、当事者になるとは、なかなか忙しいのでありまする。

 

 

2件のコメント

「まずは健常者のことをやりませんか?障害者のことは、その後で考えましょう」と2010年に教育省へ伺った時に私も言われました。教育大学がバリアフリーになっていなかったら、支援してきた日本の責任ですね。

私も、同じですよ。15年前は、まさか、こんな体になるとは、思いもしなかったです。
なってみて、ようやく、分かるのでしょうね。

この世は、健常者視線でしか回ってないと思います。

特に、ここまで、日本の高齢化が続くと、ますます、余裕がなくなると思います。

plan75の世界が、到来するのでは、と思っています。

私の方は、まだ、ましな不全麻痺で歩くのが、亀なのですが、転倒の可能性があり、やばいのもさておき、

一番苦しいのは、この悪魔の脊髄損傷(後)疼痛です。

呑んでも呑んでも、右足は、炙り続き、痛みが続くと、完璧に壊れます。

コメント、いただけたらとても嬉しいです