岡本ゼミ、梅嵜望様はじめ1月26日にお会いする予定の皆さまへ
当日は短い時間なので、事前にちょっとシェア、という意図での「その2」です。
先日、梅嵜さんから皆様からの質問を受け取りました。今日は、その中のひとつ「カンボジアで活動する中で、最も日本と異なると感じたこと」について、先取りして書きます。
大事な前提「日本もカンボジアもルワンダもフィリピンも、世界中どこも同じよ」
「異なること」を書く前に、まず私の大事にしている大前提として、「どこも同じよ」があることを強調して書いておきます。
この「どこも同じよ」というのは、さらに書けば「どこでも同じように、違いがある」ということも含みます。
最近、私は通信教育で、日本の大学で心理学をちょっと勉強したんです。一応、昨年3月に卒業証書をもらいました。でね、そこで学校心理カウンセラーに関する科目も履修したのです(ちなみに、学校心理カウンセラーになるには、さらには大学院まで進んで臨床心理士の資格を取らなくてはいけないはずです、ですから私が学んだのは“さわり”だけね)。
そこでさんざんっぱら強調されていたのは、「学校によってそれぞれ文化がある」というようなことでした。この学校文化とは、その学校の生徒たちが暮らす地域社会にも根差していて、つまりは地域によってさまざまな背景があることを押さえなければいけない、ってこと。さらには例えば校長が移動すれば、その学校文化にはまた変化が起こる、とも。
つまりですね、日本だってすっごく多様なわけです。それが「どこでも同じように違いがある」ということのわかりやすい事例です。
どの任地・職場に入っても、まずはそれぞれの「異なること」にアンテナを張らなくてはいけない。それには、日本だとか、カンボジアだとか、いちいち言わなくても、世界中どこでも同じだと強ーく私は思っているのです。
そして、さらには、でもやっぱり同じよ、とも。どこでも人は喜怒哀楽し、それぞれの優先順位を(意識的、あるいは無意識にせよ)持っているし、どうしたって保守的だろうし、でもきっかけがあれば新しいことにも興味をもってくれる。それが人、人間。
その点も、世界どこでも同じ!
まず、これが大前提としてあります。さて。
歴史と言語
で、改めて「カンボジアで活動する中で、最も日本と異なると感じたこと」にお答えすると、それは「社会と個人が持つ歴史背景が異なります!」ということになります。
歴史といってもそれほど大げさに長期にわたってさかのぼることもない。ここ100年程度の歴史を考えるのがまず大切だと思っています。
20世紀から現在にいたる道筋が、それぞれの社会で、日本社会(先に書いたようにこの日本社会というのも多様なので、あまり使いたくない表現なのですよ、でも一応ここでは仮ドメとして使いました)と違います。
そして、それは当然のように個人の価値観にも(意識的か無意識かはさておき)大きな影響を及ぼしています。
カンボジアの事例でいえば、20世紀後半にフランスの植民地から独立し、ベトナム戦争に巻き込まれ、ポルポト時代を経験し、21世紀に入ってからは経済成長を突き進んでいる、という時代の流れが、「最も日本と異なると感じる」ことです。
特に私が関わる教育セクターに特化すれば、ポルポト時代に知識人が大量に殺されたことは今に至るまで教育セクターに大きな負の影響を及ぼしています。そこを理解しないで仕事をすれば、そりゃダメだろうと思っているわけです。
ルワンダであれば、やはりルワンダ固有の現代史があります。フィリピンも、ケニアも。どこだってそう。ここでは国名で流していますけれど、ここは国名では不十分かもしれません。
たとえば、日本国内でも、それぞれの地域にそれぞれの歴史的背景があります。神戸であれば、1995年の阪神淡路大震災を抜きには多くの人々の生活・人生は語れないでしょう。東北地方にいけば2011年の東日本大震災での津波被害とフクシマダイイチ原発事故は大きな歴史的トピックでしょう。沖縄には沖縄特有の歴史的背景がある。
そして、それらは現在、つまり今日の人々の暮らし・人生に必ずなんらかの影響を及ぼしています。それをできるだけ理解しようとすることなしに、外部者が支援するのはよろしくないだろうと、私は考えているのです。
もちろん、理解しきるのは、無理です。だいたい何をもってして「わかっている」と言えるのか? 自分のことだって理解しきれないのが、私たちです。他人のこと、自分が暮らしてきたのではない社会のこと、解りきれるはずはありません。
でも、それでも知らなければならないことはあるはずだし、その努力は必要です。そうでなければ、支援などおこがましい、と私は思うのです。
というわけで、私もカンボジアのこと、まだ全然わからないし、知らない。それだからこそ、今でももっと知りたい、もっと知らなくちゃ、と思っていろいろとジタバタを継続しています。
あと、もうひとつ「異なる」に付け加えると、それは「言語」です。日本なら日本語、カンボジアならカンボジア語(クメール語)、ルワンダならルワンダ語、フィリピンならフィリピーノ語(フィリピンの言語社会はフィリピノ語で語りきれない部分も多いですけれど)……。
言語については、ここでは深入りするのは止めましょう。とにかく、言語が違う。だから、言語についても敏感になったほうがいい。言語はできればできるに越したことはありません!ただ、できなくても支援のやりようはあります。そこは歴史的理解とは、また違う話しになります。ただし、母語が苦手では困ります。母語を正確に使いこなすことなしに、他言語で正確に伝えるのは不可能だと私は常々感じています。その点では、日本語の上達も常々大事です。皆さんの日本語はどう??
というのが、質問に対しての大きな回答となります。以下蛇足。
じゃ、具体的には?
例えば、カンボジアの教育セクターでの支援は、以前は量的向上に焦点が向けられていました。量的向上とは、単純にいえば就学率を上げることです。そのためには学校を作り、教員を配属しなくてはいけなかった。
そして、教育セクターの支援は、最近は質的向上のための取り組みが中心になりつつあります。学校でどんな教育をするか、どんな教員が教育を行うのか、ということです。
その流れの中で、1990年代後半から世界的な流れとして「生徒中心の学習(Student Centered/SC とか、Learner Centered/LCと呼ばれますよね)」の取り組みが進行中です。ただ、どんな教員が教えるのかと考えれば、新しい先生に全とっかえなんかはできないわけです。現職の先生が圧倒的に多いわけですから。彼らの教え方・学習観に変化を起こすのは、並大抵のことではありません。
この並大抵ではない背景には、先に書いた歴史的なことがたくさんあるわけです。ポルポト時代のことだけではなく、80年代のまだ東西冷戦期に西側支援がほとんど入ってこなかった10年があったこと、その後90年の国連主導の選挙導入後に洪水のように支援が入ったこと、さらには21世紀に入っての経済成長と独裁政権(現政権は建前上は民主的な政権ですけれど…)という流れ。
その中での、社会の教員の役割や、その立ち位置。そういうことを把握していた方が、現状理解は進む。現状理解は深ければ深いほど、良い(その理解が正しいか、不正確かという検証は常になされなければいけないでしょうけれど)。
たとえば、選挙になると先生たちは選挙活動に忙しくなります。日本でなら、学校教員が選挙活動に駆り出されるということは、まぁあまりないですね。でも、カンボジアでは公務員が与党の選挙活動に参加するのは、ほぼ義務のようなものです。そして、学校教員というのは公務員の中でも大集団です。しかも、全国津々浦々までいる。
「なんで公務員が選挙に?」と感じた時に、単にカンボジアではそういうモノさ、と受け取るのか、カンボジアのここ半世紀の歴史的背景を理解したうえで受け取るのかで、あなたの“ストレス”には差が出るのだろうと私は思っているのです。単にカンボジアではそういうモノさ、というのは“あきらめた”姿勢です。それだと、たとえば日本でそのこと(教員が選挙に駆り出されること)を否定的・批判的に語ってしまう可能性がある。そんな自分に無批判でいられてしまう。理解するということは、おそらく“あきらめる”とは違った態度だろうと考えているのです。理解できれば、簡単には否定的・批判的な態度、つまりは冷笑するような態度、は取れないはずなのです。そして、実はそういうことが何層にも積み上がって、私(たち)は支援者としてカンボジアの人たちとコミュニケーションを取っている。
(ちなみに、カンボジア社会の彼らの事情を私なりに理解したうえで、選挙に公務員・教員が駆り出される現状に対して私は“批判的”立場です。でも、とりあえず、そのことを改善する努力はしていません。それどころじゃなく、やりたいことが多いから、です。それに、選挙に関していえば、日本社会にもあれこれ言いたいことはあるわけです。この件に関して言えば、私は日本国籍者として、まずは日本社会の“改善”にエネルギーを注いだほうがいいんじゃないの、とも思ったりする。)
無理解な態度は、どこかでバレます。足が出る。怖いです。理解しようとしても、どんなに努力しても、ちょっとしたことが「部外者」と評価されるわけです。ですから、油断できない。そのためにも、あきらめずに理解しようとする姿勢が求められていると日ごろから感じています。
そして、実際に私は部外者です。それはそれでいいのです。部外者と評価されることが怖いのではなく、彼らにも私とのコミュニケーションを“あきらめて”欲しくないのです。だから、部外者なりに、ガンバル。
そういうことが、歴史や言語を理解する努力、ということだろうと思っているのです。

















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