カンボジアで車イス者から話を聞く 2 ボッパーさんの場合 9歳で発病してから、自由の味を知ってしまうまで

プノペン大学の学生に、障害者の自立について啓蒙活動を行うボッパーさん(左)

プノンペン大学での啓蒙プログラム

 2019年12月11日。カンボジアの首都プノペンでぼくがコンタクトをとっている障害者グループが、プノンペン大学で学生に対して障害者の実情を理解してもらうために実施しているプログラムに同行した。

 プノンペン大学はカンボジアでもっとも歴史ある大きな公立大学だ。日本政府によるODA支援で建設されたカンボジア日本人材開発センター(Cambodia-Japan Cooperation Center、略称CJCC)があるのも、この大学の広い敷地の一角だ。

 この日のプログラムには、このCJCCの裏手にある校舎の一教室を使って、外国語学部日本語学科で学ぶ3年生26名が参加していた。女子学生が17名、男子学生は9名。男子のうち2名はオレンジの僧衣が鮮やかなお坊さんだ。障害者グループからは、車イスの4名ボッパーさん、ネアップさん、ヒエンさん、ディーさんと、そのサポートメンバーのソッパルさん、合わせて5名が来ている(11月10日の当ブログ投稿で紹介したのが、ディーさん)。

 メンバーのリーダー格がボッパーさんだ。彼女が手慣れた様子でパソコンの画面をプロジェクターで映しながら、小さなスピーカーに継ったマイクを片手にカンボジアの障害者の状況に関して説明する(上部の写真、参照)。
「カンボジアの人口に占める女性の割合は57%、男性は43%、そして全人口に対して約10%がなんらかの障害を抱えていて、さらに2%が重い障害を持っています。」

 エアコンのない教室では天井に取り付けられた大きな扇風機がまわり、窓は閉められ青いカーテンが掛かっている。暑いけれど、話し上手なポッパーさんの語りに、学生たちは惹きつけられて聞いている。

 プログラムはたっぷり1時間半、車イス障害者が自立してひとりで生活する様子を写したビデオなどを紹介して終わった。学生たちと記念撮影をした後、ボッパーさんたちは、障害者グループが自分たち用に作った車イスのままで乗車できる特性の車両に乗り込んで、帰っていった。
 「障害があっても、家族から自立して生活できることを、若い人たちに少しでも理解してもらいたい」という主旨で開かれたプログラム。26名の学生たちにとって、車イス者がひとりで暮らし始めていることを知ったことが、何につながるかはわからない。ただ車イス者の4名にとっては、充実した時間だったはずだ。 

ボッパーさん

先生の私塾に通えずあきらめた中学校

 ボッパーさんは9才のときに首に変な痛みを覚えた。数日後、高熱が出て、首だけでなく身体のあちこちが痛くなった。眠れない夜を過ごした翌日には、右手が動かなくなり、口もうまく動かず、話すのも難しくなった。家族は伝統医を呼んだけれど、ボッパーさんの症状が回復することはなかった。家族が彼女をようやく病院に連れて行ったのは発病して1年後のことだ。けれど、病院でも原因はわからなかった。ただ「治らない」と判断され、地域のリハビリテーションセンターを紹介された。
 自宅からセンターまでは車で2時間半かかった。とても毎日通える距離ではない。だから彼女は、センターに1週間ほど滞在してマッサージを受けたり、身体を動かす訓練を受けることを何回か繰り返した。センターの宿泊は無料で、食事も提供された。そこで手動の車イスももらった。そうやってボッパーさんは少しずつ自分の身体を動かせるようになっていった。 

 再度小学校に通い出したのは発病してから3年後のことだ。
 校舎の床は地面から50センチメートルほど高く、生徒たちは数段の階段を使って出入りしていた。でも、車いすで上がるのは無理だ。すると、お父さんが学校と掛け合った末、自分で土を運んでスロープを作ってしまった。彼女は3年生に復帰した。教室を入ってすぐのスペースが、車イスの彼女がいつも勉強する場所だった。ポッパーさんより年下のクラスメイトたちは優しかった。ただ、彼女はそのころとても物静かだったそうだ。
 「病気の前はとても活発な子どもだったけれど、車イスになってからはあまり友だちとしゃべることもなく勉強ばっかりしてました」と、当時を思い出してボッパーさんは言う。 

 ボッパーさんは、学校が大好きだったし、勉強もよくできた。
 カンボジアでは、先生は学校で教えるだけでなく、自宅で私塾を開くことがよくある。そんな場合、生徒はその先生の私塾に通わないと進級が難しい(カンボジアは自動進級ではなくて、毎学年進級試験がある)。つまり、先生にとっては安い給与を補うための苦肉の策でもある。(ボッパーさんが小学生だったのは、20年ほど前のこと。現在の教員給与は当時よりはかなり上がっているけれど、この私塾制度は特に地方では今でも続いている。

 ボッパーさんの自宅から学校までは2キロほど、そして担任の先生の私塾までは未舗装の道を自転車で20分ほどかかった。車イスの彼女はその道を、友だちの漕ぐ自転車に片手でつかまって通った。雨が降れば道はぬかるむし、車イスの車輪が小石にぶつかってバランスを崩して身体が道に投げ出されたこともあった。それでも彼女は卒業までの4年間を小学校と私塾に通い続けた。進級するたびに教室が変わり、そのたびにお父さんが土でスロープを作り直してくれた。成績はいつもクラスでトップだった。

「下校前の全校生徒合同の集会に、私と私をサポートする友人たちは出席しなくてもいいことになってたんです。だから友人たちは、みんな私をサポートしたがったんです。」彼女はおかしそうに思い出す。

 でも、ボッパーさんは中学校には進まなかった。進学先の中学校の名簿にはボッパーさんの名前もあった。校舎が全部平屋だった小学校と違って、中学校の建物は3階建てだった。けれども、彼女が進学をあきらめたのはそれが理由ではなかった。

「小学校では担任の先生の私塾だけに通えばよかった。けれども中学校になると、教科ごとに先生が違うでしょう。だから科目ごとそれぞれの先生の私塾に行かないと進級できない。先生たちの家も遠くにある。私にはいくつもの私塾に通うのは無理でした。」

自由を満喫した職業訓練学校

 1年ほど自宅で過ごしたボッパーさんが次に選んだのは、プノンペン近郊にある、日本のNGO難民を助ける会(Association for Aids and Relief, AAR Japan)が設立したキエンクリアン職業訓練センターだった。
 AAR Japanのホームページ(日本生まれの国際NGO AAR Japan[難民を助ける会])によれば、この職業訓練校をAAR Japanが設立したのは1993年で、2011年まで支援を続けた後、運営をカンボジア側に引き継いでいる。(AAR Japanは、現在でもカンボジアでインクルーシブ教育、障害のある無しに関わらず、子どもたちが共に学ぶ教育、の普及活動を実施している。

 ボッパーさんが職業訓練校のドミトリーに入って学んだのは2002年から1年間だから、まだAAR Japanの支援が続いていたときのことだ。テレビ/ラジオ修理、バイク修理、裁縫、という3つのコースからボッパーさんが選んだのは、テレビ/ラジオ修理だった。そのコースをその年にとった12名中、女性はボッパーさんひとりで、しかも最年少だった。
「足が動かなかったから、ミシンは無理だったんです。それに、勉強できるならなんでもよかった。私は家を出たかった。」

 彼女の家では、ふたつの意見があったようだ。彼女の継母は、彼女が自立して勉強することを積極的に後押しした。けれども、それに対して批判的、つまり障害を持つボッパーさんは自宅に居るべきだという考え方をする親戚もいた。
「あなたが邪魔だから、他所にやろうとしているのよ、と母をなじる声を私の耳に届けた親戚もいました。けれど、私の自由にさせてくれた母に、私は感謝しています」

 3コースあわせて45名の同級生が訓練校にあるドミトリーで共同生活をした。女性の車イス者はボッパーさんだけだった。5人部屋でボッパーさんが同室になった仲間は、ポリオと地雷で片足を失った女性たち、みんな裁縫コースの生徒だった。同室の彼女たちや、テレビ/ラジオ修理コースの年上の同級生たちを始めとする若い人たちに囲まれて、ボッパーさんはそれまで経験したことのない刺激的な日々を経験した。それはとても楽しく、幸せな時間だった。彼女は親元を離れ「自由」の味を知ったんだ。

 このテレビ/ラジオ修理コースの先生(健常者)のアシスタントをやっていたのが、ボッパーさんが今働いている障害者グループのリーダー、サミスさん(車イス者)だった。サミスさんが障害者グループを立ち上げ、ボッパーさんがそのメンバーに加わるのは2008年のこと。ボッパーさんが2003年に職業訓練校を卒業してから、5年後のことだ。その5年間、ボッパーさんは一度味わってしまった自由を求めた日々については、また次回で(12月4日投稿予定)。

3件のコメント

ご無沙汰しております間々田です。
とてもうれしい内容でした。彼女には,プロジェクタープロジェクトでパワーポイント再生の指導をお願いしています。
この内容を友人達へ知らせたいと思います。

先日、コメントしやすく改善してくださったとのことで、ありがとうございました。コメントしようにも、毎日の話が非常に濃くて重いので、コメントできない、というのが実情だということをご理解ください。つまり、無視しているわけではありません。

村山哲也です。

間々田さん、はい、どうぞ自由にシェアしてくださいませ。

また、匿名さま、コメント、ありがとうございます。
「非常に重い」のばかりにならないように、したいと思っております。
無視されているとは思っておりませんので、ご安心ください。
現在、メールに自動送信されている方が20名ほど。その他、日のよって、少ないと10名弱の方から、多いときには30名強ぐらいの方がブログに来てくれているみたいで、ちらっとでも読んでいただいているのかなぁ、ってことで、ありがたいです。

これからもどうぞよろしくおねがいします。  

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