「フィリピンの拳」英雄パッキャオの学歴疑惑
「カンボジアの日常風景」というタイトルで、最初はフィリピン? なんでよ?
まぁ、硬いことは云わないで下さいませ。まずは前座ということで。
「フィリピンの拳」とフィリピンの人たちが敬愛するプロボクサー、マニーパッキャオ。数々の世界チャンピオンベルトを手に入れた大英雄は、1978年12月の生まれですから、現在は42才。すでに何回か引退をし、さらに復活を遂げ、今年2021年にも再起戦を予定しているとか。フィリピンでのパッキャオの人気は、戦後の力道山人気あたりが近いんじゃないでしょうか?
彼の出身地は、今から20年ちょっと前に私が働いていたフィリピン最南端のミンダナオ島の東南に位置するジェネラルサントスという町です。そして、このジェネラルサントスは、私の勤務先であるダバオの教育省地方事務所の管轄地区でした。というわけで、ジェネラルサントスの町は私にも馴染み深い場所です。そして、ジェネラルサントスでのパッキャオ人気は、もうものすごいものです。パッキャオシティと呼んでもいいほど。パッキャオホテル、パッキャオバー、パッキャオスーパー、パッキャオ饅頭、パッキャオ煎餅、なんでもあって、町中がパッキャオに恋しているという感じ。
パッキャオは現在、フィリピン上院議員でもあり、ドゥテルテ大統領(彼はダバオ市の出身!)の次の大統領候補とも噂されています。フィリピン、あるある。
さて、そのパッキャオの面白いニュースを、ダバオ時代の同僚ミラが最近インターネットで教えてくれました。
パッキャオさん、2019年に念願の政治学での大学卒業資格を取ったのですけれど、最近、この資格についてフィリピンでは議論が巻き起こっているのです。
記事によれば、通常4年かかる卒業までのプロセスを、パッキャオは1年(3ヶ月とも云われている)で取ってしまったというのです。この資格は本物と呼べるのか?さらに、この資格を出したマカティ大学というのは、公立大学だと云うのですね。パッキャオが学位獲得のためにマカティ大学に支払ったお金の領収書があるとかないとか。さてさて、どうなるのか。
フィリピンは知る人ぞ知る、高等教育肥大国で、全国で大学数は数千になるんじゃないでしょうか。ダバオでも立派な私立総合大学から、小さーな単科大学まで、たくさんありました。フィリピンは、歴史的にも東・東南アジアで最も早い1611年に大学、セントトマス大学、が設立されています。スペイン植民地時代です。1611年というのは、関ケ原の合戦の11年後です。日本の現在まで続く最も古い大学は1877年開学の東京大学とすれば、その250年前のことです。おそらくそういう歴史的背景があって、高等教育の拡大が起こったのじゃないかなぁ。
で、パッキャオの学位問題。さすがに「おかしいんじゃないの?」「結局、学位も金か!」という声がフィリピンでは巻き起こっているようです。ミラも「大事なのは、紙ではなくて、何を学んだかだ!」と至極真っ当なコメントをしています。紙というのはもちろん資格、サティフィケート、のことです。
でも、先日のブログ学校の敗北? 学校教育制度の死? – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)で「学校教育制度の本質は、何を学んだかではない!大事なのはどんな資格かだ!」、と書いた私にとっては、してやったりというようなニュースでした。パッキャオ、さすが、本質を捉える力は人一倍いい勘持っています、よね?
Pacquiao graduates from University of Makati | ABS-CBN News
Is Pacquiao’s ‘college degree’ fake? | The Manila Times
カンボジア中学1年生のリモートクラス受講風景
さて、今日の本題です。カンボジアの生活の一断面。
学校閉鎖が長引くカンボジアで、教育はどうなっているのか。
最近、このブログでときどき書いていますように、私の暮らす家には、今姪っ子が3名います。上のふたりは大学生、一番下が13歳の中学生です。今日は、その中学生の話。
彼女は勉強好きではありません。小学6年生までは公立学校に通っていたのですけれど、成績もよろしくない。面倒見のいい私立学校に通ったほうが、しっかり勉強を見てもらえるのではないかということで、中学校から私立学校に進学したのです。
ちなみに、もうひとつの選択肢に、国立芸術学校の中等部に通ってダンサーを目指すというのもありました。私の妻のお母さん(姪っ子のおばあちゃん)もダンサー、妻の妹(姪っ子のおばさん)もダンサー、という妻の家族はダンサーの系譜があるのです。このダンサーって、元をたどれば王室の踊り子さんたち。いわゆる伝統クメールダンス、の踊り手です。この姪っ子のお母さん(私の妻の姉)も、国立楽団のフルート奏者。そんな家族に囲まれた姪っ子は、踊りには小さい頃から多少の素養があるのです。勉強が好きじゃないなら、ダンサーになるのはいいんじゃない!と私は思ったんですけれどねぇ。
ところが、彼女のお父さんはキリスト教会の神父さん(の卵??かも)で、なんと宗教的な理由で伝統ダンサーはいけません、ということになったのです。もったいなさ過ぎ!なら、お父さん、あなたが勉強見てあげてよ!!
で、せっかく進学した私立校も、はいったそばから新型コロナ禍で学校に通えなくなりました。それで、今はリモートクラスで勉強しています。
が、朝7時から始まる授業、彼女は遅刻の常習犯。しょっちゅう学校から彼女の母親に「遅刻ですよ、欠席ですよ」の電話連絡が入ります。でも彼女は叔母(私の妻)の家に居候中。で、最近は妻に直接苦情の連絡が入るようになりました。
こうやって電話をかけてくれるのは私立校ならでは、です。公立校じゃ、こうはいきません。
というわけで、これまでは寝泊まりしている自室でリモート授業を受けていたのですけれど、今後は私たち夫婦がいる1階で勉強しなさい、となりました。そんなわけで、彼女の授業の様子をちょっと垣間見る機会もあるわけです。
気がつくのは、リモート授業を生徒中心でやるのは、教室以上にいろいろと工夫が必要ということです。妻もある私立学校で教員をやっています。彼女の授業は、かなり参加型です。そのために、「ジャムボード」とか、「googleクラスルーム」とか、いろいろとアプリ(ソフト)を使っている。みていると子どもたちは楽しそうに授業に参加しています。あれなら、通常の教室授業の補いになるでしょう。
けれども、妻の学校はカンボジアでもかなり「特殊」な学校環境で、姪っ子の学ぶ私立校では、とてもそこまで授業内容に手間はかかっていません。となれば、当然、リモート化しやすいのは教師中心の授業です。つまり、教師が黒板の前でしゃべって伝える授業。
ですから、生徒側はパソコンやアイパットやスマートフォンという受信機の前で、真面目に集中して話を聞くという能力が求められます。で、姪っ子はこの能力があるとはとてもいえない。彼女はアイパットを使っていますが、自室で勉強していたときは、ついつい布団の中で横になったまま授業に参加していた様子です。さらに、今もついついアイパットで授業を聞きつつ、手に持ったスマートフォンでチャットしたり、カンボジアで大人気のtiktokというアプリでショートムービーを見たり。
さらに、ノートを取るという習慣づけが、カンボジアの公立小学校ではあまりきちんとなされません。授業は聞くもの。そして、先生から「写しなさい」と云われたときだけ、ノートに書くというのが通常のスタイル。で、対面でない場合は、「写しなさい」と云われても、本当にそれが行われているかどうかはなかなか確認が取れません。ということで、姪っ子はリモート授業に臨むとき、特にノートも筆記具も用意しません。おいおい、大丈夫なのかい???
私たちも、それぞれやることがあり忙しい?(妻は本当に忙しい、私は、えーと…)
ということで、あんまり口うるさく姪っ子の自由奔放なスタイルに口出ししていません。とにかく、自分で考えてせめて最低限のことはやりな、という感じです。あと、算数だけは、毎晩、私がちょっと面倒を見ていますけれど。というのが、あるカンボジアのプノンペンで暮らす、我儘盛りの中学1年生女子の勉強ぶりです。
私はその私立学校がちゃんと年度末試験を実施して、姪っ子が留年になればいいなぁと密かに思っています。カンボジアでは小中学校から留年は起こりえます。ま、何年か留年すれば、彼女も多少は自分でどうすべきか考えるんじゃないかと、自動進級じゃないのは、悪くもないよね、と思ったりするのです。その日に備えて、まずは今夜も分数計算かなぁ。
カンボジア教育省はリモート教育に力を注いでいるけれど
現在、カンボジアの新型コロナ禍の状況は、昨年3月ごろから始まった世界中のコロナ禍騒動史上、最悪の状態です。連日、千人前後の新規PCR感染ポジティブ者がカウントされ、死者数も連日10人以上で、合計数も700人を超えました。詳細は以下の共同通信グループの日本語の記事にくわしいです。大使館「短期渡航の中止を」 邦人に隔離環境厳しく、昆虫食も – NNA ASIA・カンボジア・社会・事件
記事中の「昆虫食」ですけれど、記事に添付されている写真を見ればわかりますけれど、昆虫主体ではなくて、肉と野菜を炒める際にアリがまぶされているようなおかずです。あぁ、なつかしい。これ、コンポンチャムで働いていたときに、よく夜の飲み屋で食べたなぁ。
このアリは木の上に巣に、その木の葉っぱを枝ごと束ねて巣を作るハキリアリ?の仲間です。このアリだけを炒ったものも食べますけれど、写真にあるように肉などのまぶすように使って、ちょっとした酸味(ギ酸)を楽しむという食べ方が一般的です。その際には、成虫だけではなく、卵や蛹も一緒です。
ただし、妻が育った家庭では、アリ食はほとんどなかったということなので、いわゆる病院食として出すのはそのセンスが問われるかもしれませんけれど、とにかくカンボジアの人たちにとっては特段大騒ぎする問題ではありません。きっと食べられなかったカンボジアの人もいたでしょうけれど。納豆食べない日本人も数多いのと同じです。
にしても、とにかく、カンボジアは日本の多数の価値観からすれば、すでに医療崩壊でしょう。もともとの医療基盤が弱いのですから、仕方がないのです。私も心配な気持ちもあります。脊髄損傷で下半身麻痺になる前でしたら、カンボジアの厳しい医療環境でも耐えられるという自信がありましたけど(根拠?多少はあったよ)、車イス者で、特に排便排尿障害を持つ今となっては、今のプノンペンの新型コロナ感染者が運び込まれる施設に入れられるのは、かなり不安です。あそこで、ちゃんとウンコできるかな???って。オシッコの処理も大丈夫かな?尿路感染は、ホント、コロナ並みに怖いのですよ。
そんな社会状況の中、カンボジアでは、今、全国で学校は封鎖中です。再開の見込みは、まったくたっていません。以前も書きましたように、多くの私立校が財政不安に直面しているようです。ただ、私立校の先生たち、おそらく大多数は公立校でも教えている先生です。つまり、副業。ですから、もし私立校からの給与が減っても、大多数の先生は公立校教員(公務員)としての給与はもらえているはずです。もちろん、減収は辛いでしょうけれど、公務員の給与も最近はかなり良くなってきていますから、おそらくなんとか耐え忍ぶのではないか。数は多くはないでしょうけれど、私立校一本で務めている人たちは、大変でしょう。そして、私立校一本で教えている教員のほうが、平均的には質は高いでしょう。さて、質の高い先生をどう維持するのか。
そして、公立校では、各学校ごとにリモート授業を行うのは難しい。結局、教育省が提供するビデオ授業をテレビやYoutubeで配信し、学生はそれを見て勉強することになります。となれば、内容は完全無敵の教員中心型。学生は受け身100%で勉強することになります。となれば、そこはかなり才能、つまり受け身勉強でも主体的に勉強できる能力、があるかどうかが勝負になります。例えば、本を読んで勉強するにもコツってものが、ありますよね。得意、不得意、ある。
で、カンボジアの真面目な学生は断然有利です。彼らは受け身で主体的に勉強する能力に長けています。ただ、私の姪っ子のようなタイプは、もう絶対に不利です。そして、私の想像ですけれど、姪っ子タイプも、少なくない。片手にスマートフォンでtiktokとか、ノートも筆記用具もなしとかで、映像授業を眺めている子は少なくないと思うのです。眺めていれば、まだいい。面白くなければ、やがてテレビをつけないし、わざわざYoutubeも開かない。都会っ子は、今やNetflixで映画鑑賞もお手のものです。一方、田舎っ子はインターネット環境もない、あってもよくない、さらにスマートフォンもない、なんてこともあるでしょう。
妻の働く(特殊な)学校では、よく生徒の保護者にリモート授業のサポートをお願いしています。でも、共働きの夫婦であれば、それも簡単ではない。また、最近はコロナ疎開で、子どもだけ地方の実家にプノンペンから避難させるということも多く行われているようです。となれば、おじいちゃんおばあちゃんが、どれだけ子どもの「自主的な学び」を支援できるのか?
姪っ子のお母さんは、幼い頃にポルポト時代を過ごしています。おそらく、分数計算、得意じゃないと思います。子どもに自信をもって教えられるわけじゃない。「勉強しなさい!!」とは言えても、横について勉強を教えるってことはしない。できない。これは、おそらく日本の貧困問題と教育格差ともリンクすることです。
教室で行う授業でも、そりゃ、みんながみんな、しっかり勉強するわけじゃありません。でも、リモート教育は、家庭環境による児童の学習の質格差を、確実に維持し拡大するでしょう。リモート教育が長引けば、それは世代格差にもつながりかねないと、カンボジアに身をおいていると感じます。強く、そう思います。
リモート教育が生む、サティフィケート獲得のための「勉強」制度の本格化と、その先にあるもの
それでも、もはやこのコロナ禍でも、コロナ禍収束後でも、学校教育制度は後戻りできません。それはおそらく日本でも、カンボジアでも同じでしょう。それだけ学校教育制度こそが、近代国家が運営するガラパゴス制度なのです。
となれば、学校教育の大衆化の行き着く先は、どうしたって「資格」のための勉強、となりがちです。特に、学校信仰の強い後進国ほど、その傾向は進む。ちょっと飛躍があるかもしれませんけれど、パッキャオのようなケースが一般化していくように思います。つまり、制度の2極化が起きつつあるのではないでしょうか。もちろん、勉強の中身を重視する価値観は存続します。そして、競争は激しいけれど、それを提供する教育の場は残る。一方で、勉強するのが得意じゃない子どもたち、主体的に勉強する才能が開花する前に置いていかれた子どもたちも、進学はしたいし、していくし、資格を取りたいし、取れる、そんな道も必ず用意されます。そうじゃないと、社会が納得しない。つまり大衆のパッキャオ化です。パッキャオが短期で学位を取得するのにいくら使ったかは知りませんが、それもやがては大衆に手がとどく値段まで落ちていくはずです。
でも、そうなっても大衆にはなかなか厳しい。だって、取った資格の価値はどんどんインフレーションを起こす(価値が下がる)でしょうし、さらにはエリート層はあらたな(価値の高い)資格を準備して待ち受けるでしょう。こうやって資格も2極化していく。その行く先は、支配する側と支配される側のますますの表面化。さて、そうなっていく中で民主主義はどうする。さて、今日はもう止めましょう。長文をここまで読み切ってくださったあなた。連絡してくれたら後日商品を送ります。お知らせ下さい。ではでは、また。

















民主主義はどうなる?そうなんですよ、、。日本の人口が3000万人だった明治の初めに、300万部売れたという福沢諭吉の「学問のすすめ」で彼は、天は人の上に人を造らず、、(アメリカの独立宣言の訳らしいですが、)と言い、ちゃんと学んだ民衆のところには良い政府ができ、学ばないと悪い政府ができる、、とまで言ったけど、できたのは明治憲法だった。福沢諭吉は先へ飛びすぎちゃっていたのか、儒教道徳が強すぎたのか、カンボジアの今って、そのころの日本に似てるのかもしれない。もうちょっと先へいっているかな。10人に1人以上は、四民平等、1人1票ちゃんとしようよと考えていると思いますが、「上の人のいう事を黙って聞くのが良い子であり、良い人である」と多くの人が思っていますよね。でも、お金はほしい。だから、形だけ「はいはい」って上の人の言う事きいて、その中でできるだけ楽して儲ける方法が学歴詐称、、。一方で学問に、もうちょっと希望を持っていた西欧社会、ファラデーのろうそくの科学の講演に聞き入って絶賛する一般市民がいた社会があって、だからカンボジアは植民地になっちゃったのかしら?
村山さん、カンボジアの科学史を書こうとしておいでですよね、ピラミッドにあってアンコールワットになかったもの、化学ですか?ということは、万物は粒子でできているとは思わなかった?
数字についても、せっかくそろばんの5玉みたいな良い数え方の言葉なのに、7,8,9,10,11,12、、、、と数を数えていくときに、10の位に一つ上がる感じを持たず、子供がお風呂で30まで数えられると自慢するときのような、一本の数直線上にずっと数字が並んでる感覚なのかも。まだまだ前途多難という気がします。
伊藤明子さま
いつもコメントありがとうございます。
民主主義は多々問題はあるけれど、これまで発明されてきた制度の中では、ごくごくましな制度だと言ったのは誰でしたっけ?とにかく、アメリカによる日本占領と新憲法が作られてから20年近くして生まれた私にとって、民主主義は当たり前?というか、夢と希望の仕組みだったのです。で、その後、自国日本の歴史(現代史)に対して自虐史観とも呼ばれる健康的に批判的な態度も身につけた者として、民主主義の周りにあった共産主義とか、権威主義とかよりも、やっぱり民主主義はいいものに思えました。
でも、どうやらあっちでもこっちでも、民主主義に軋みが出ているようです。そんな軋みは、当然、学校教育にも反響しないわけはない。残る時間は短いですけれど、やっぱり変な方向に世の中が流れるのには、あらがいたいようにも思うのですけれど、さて。
カンボジアの科学史なんて書けないですよぉ、情報ぜんぜんないもん。でも、カンボジアの先生や学生さん向けに科学史を書きたいとは思っています。その第一章(予定)は、アンコール時代の科学と題して、アンコール時代にどんな科学があったか、想像してみたいと思っているのです。
エジプトの大きなピラミッドが建設されたのは4000年前、アンコール時代より3千年以上古い。では、エジプトのピラミッド時代とアンコール時代と。どれだけ科学の違いがあっただろうか?
そのあたりは、またご意見拝借しますので、その際は相談にのって下さい。
カンボジアも、自国での民主革命の経験はない社会です。赤色革命はありましたけれど。市井の人たちの力で自分たちの権利を時の権力から奪取した経験がないというのは、日本社会もそのようです。そのあたりが、やっぱり社会のいろんなところで表面化していることはあるのかもしれません。
村山哲也