たまたま書き出してしまった“尊厳”。その後も、本を読んだりしていると“尊厳”が目に入るのです。
尊厳は、自己決定がキーワード。さらには、尊厳は、人それぞれだし、同じ人でも伸び縮みするやっかいなもの。だけどそれが尊厳なら、仕方なし。さらには、自己決定と言ったって、実は一人っきりの決定なんて虚構だよ、私たちは「チーム自分」でできている。………、と書いてきました。
それでもまだ書ききれていない感が強いのです。前々回の投稿では、「集合名詞を使った自己決定権には要注意」と書きました。けれども……。ということで、今回の投稿です。
個人の尊厳、集団の尊厳
尊厳とは弱者こそが使う言葉なんじゃないか、ということも前回の投稿で書きました。そこでは、個人としての“弱者”をイメージしていたのです。けれども、私たちが生活するこの社会、この世界には、「集団」としての弱者も存在しています。
たとえば、女性。女性イコール弱者という見方はあまりに単純すぎるのかもしれないけれど、目に見えない「ガラスの天井」という言葉に象徴されるように、男性優位社会における意思決定の場に女性が参加しにくいという事実があるのは明らかです。
ドメスティックバイオレンスの被害者は、女性ばかりではないのは確かですけれど、でも女性が圧倒的に多いのも疑えない。
警視庁の2022年4月発表の資料でも、「相談者の性別は、女性からの相談が6,419件(80.1パーセント)、男性からの相談は1,592件(19.9パーセント)で、過去4年間も同様の傾向です」とあります。相談者イコール被害者ではない可能性はありますし、男性のほうが女性よりも被害を訴えにくいという男性へのジェンダー縛りもあります。それでも、この警視庁のデータは、女性が虐げられる傾向があることを示していると理解することに、無理はないでしょう。
つまり、女性であるということは社会的弱者になる確率が高いのであり、つまり男性よりも女性のほうが“尊厳”を意識することは当然多くなるはずです。そんな状況があれば、“女性”という集合名詞/複数名詞を使って「女性の尊厳」が語られることは当然ある。
最近の事例なら、ジャーナリストの伊藤詩織さんが元TBS記者に受けたレイプ事件に関して、伊藤さんを中傷するインターネットSNS内のコメントに国会議員がポジティブな反応をして誹謗中傷の連鎖を拡大した件が話題になりました(一審無罪でしたが、二審では有罪判決が先日出たところです)。こんな事例で扱われる尊厳は、伊藤さん個人の尊厳だけに留まらず、広く女性の尊厳にかかわっているはずです(この件が網羅する弱者は女性だけに限らない、という解釈も当然可能ですけれど)。
弱者としての集団がある以上、それを主語・所有格とした尊厳を想像し、語ることができる。女性のほかでもいろんな集団がありそうです。子ども、障害者、高齢者、少数民族、移民、貧困者、性的志向の少数者、きっとまだ名づけられていない集団もあるでしょう。障害者の中にだって身体、精神、知的、あるいは生まれた時からの障害と中途障害と、いろいろと細分化も可能だったりもする。弱者の中にも階層があったりする、悲しいことだけれど。そして、それぞれが大なり小なり象徴的な集団として語られたり、語ったり、できるし、される。
手元に『モロトフ・カクテルをガンディと 平和主義者のための暴力論』(マーク・ボイル著 吉田奈緒子訳 ころから 2020)という、私にとってはかなり厄介な本があります。タイトルのモロトフ・カクテルとは、火炎瓶のことで、ここでは抵抗者の暴力的行為のシンボルとして使われています。この本については、また書く機会があるとして、まずはその中からごく一部を紹介します。
彼(村山注 マルコムX)のレンズで見れば、尊厳とは、受けた殴打(肉体は傷つけても心を傷つけることはできない)を超越できる能力にかかっているのではなく、必要とあらばいかなる手段を用いてもみずからの心と肉体の不可侵性を守りぬくという態度にかかっている。
(中略)
現在北米と呼ばれる地の先住民、ファースト・ネーションの気概のある人びとにとって尊厳は、多くの場合、あらゆる手段を尽くして植民地の応力に立ち向かうことでのみ保たれたと言われている。(前掲書 318~319ページ)
(念のため書いておくと、マルコムXは米国の黒人解放運動家でキング牧師と同時代の人です。キング牧師の平和的融和的な黒人解放の呼びかけに対し、マルコムXは過激な武闘的解放への道を唱えたという対比で語られることが多いようです。マルコムXが語った背景にあったのは、単純に言えば「(白人からの攻撃に対して黒人たちよ)自己防衛せよ」だったと私は理解しています。自己防衛さえ攻撃的と揶揄されたのが、1950年代1960年代の黒人解放運動だったのです。マルコムXは1965年に公衆の面前で暗殺されています。キング牧師が暗殺される3年前のことです。)
マルコムXが“尊厳”という言葉を使うとき、それはもちろんひとりひとりの個人の尊厳としても機能していますけれど、でもむしろアフリカ系住民、黒人、という集団の尊厳と読むのがふさわしい。あるいは、「ファースト・ネーションの気概のある人びとにとっての尊厳」も北米先住民という集団の尊厳として理解できます。気概のある人びとが自分たち(複数形)の尊厳のために具体的に行動を起こしたことが語られている。
私が敬愛するギャンブラー森巣博さんが、その著作のどこかでオリンピックのメダル競争について語っています(どの著作だったか、今確認できないまま書いています)。彼の主旨は、豊かな先進国がオリンピックのメダル獲得に狂喜乱舞するのは見苦しいけれど、貧しい途上国がメダル獲得に熱狂するのは理解できる、というようなことでした。森巣氏は、先進国イコール強者、途上国イコール弱者という文脈で語っているわけです。それはあまりに単純すぎると批判はできるとしても、森巣氏が1948(昭和23)年生まれなのを知れば、帝国主義的植民地主義の反省が強くあった時代背景とあわせて、彼の言っていることは私には理解できるし、穏やかな共感も感じます(ちなみに森巣さんの数ある著作の中でこの一冊をとなればやはり名著『無境界家族』集英社文庫 2002がおススメです)。
私が今暮らしているカンボジアは、まだオリンピック競技でメダル獲得者が出たことはありません。今のところ有力競技者も存在しないので、近い将来にメダルを取れる可能性はけして高くもありません(お隣のタイは、数回前のオリンピックで女子ウエイトリフティングで金メダル者が誕生し、そのときは国をあげてのお祭り騒ぎとなったように記憶しています)。でも、もしメダル獲得者が出たら、きっとカンボジアは大騒ぎになることが予想できます。実際、2014前にアジア大会で金メダル獲得者(テコンドー女子重量級でした)が出たときも国をあげての祝賀ムードがありました。高校生だった19歳の競技者は、首相の鶴の一声で無試験で高卒資格を得て大学進学が許可され、政府から賞金もプレゼントされ、故郷には立派な家も建ったと聞いています。
この事例も、背景には植民地だった歴史を持ち、さらにはASEAN諸国の中でも比較的非力なカンボジア国という集団の尊厳が関係しているように感じます。
もちろん、この種類の国家としての尊厳は、すぐに過剰となり排他的な愛国に転化する危険性が山盛りです。実際、カンボジアでも例えば隣国からの移住者に対する排他的な言説を目にすることも少なからずあります。そして、カンボジアに限らず、弱者の尊厳がいつのまにか強者による過剰な尊厳の誇示へと転化し、その社会の弱者の尊厳をむしばむ事例がたくさんある。それも尊厳の伸び縮みの事例のひとつで、なんともややこしい。
民族自決 が輝いていたころがあって
弱者としての集団という存在があって、その集団の尊厳という考え方がある、ということは認めるとします。
尊厳シリーズもともとのネタである川内美彦著『尊厳なきバリアフリー 「心・やさしさ・思いやり」に異議あり!』(現代書館 2021)によれば、尊厳とは自己決定権と大きな関わりがあるということでした。では、集団の尊厳にとって大事な集団としての自己決定権とはなんでしょうか。
20世紀後半、民族自決という言葉がとても強い力を持ったときがありました。象徴的だったのがベトナムのフランス植民地からの独立戦争と、その後の南北に分かれた(分かれさせられた)ベトナムの統一戦争、通称ベトナム戦争です。
大国米国との闘いに屈しなかったベトナムという集団にとって、独立と統一はベトナム“民族”の自決権という尊厳に欠かせないモノだったと世界は理解し、政府はさておき多くの市民の共感を生んだのでした。
ベトナムだけではありません。民族自決というキーワードは、欧米日という列強国の植民地支配に晒された多くの地域の独立の際に唱えられたのです。
けれども、21世紀の今、民族自決が持っていたパワーはかなり色褪せてしまったように私には思えます。民族自決によって生まれた集団が、しかしその後、内部で紛争を生じ、新たに細分されていく。あるいは、イラン・トルコ・イラクという国に分かれて存在するクルド民に象徴されるように、民族自決を唱えて独立した国が他の民族を分断する。
そもそも民族とはなにか?民族自決という言葉が力を持っていた時代には、民族とはあたかも自明の存在かのように受け取られる傾向が強かったのですけれど、今や民族の根拠も大いに疑われる時代です。きわめて人為的政治的に偽造捏造的に創造されたモノでしかないのが民族というきわめて曖昧で集団幻想的モノ。それでも、それを全否定できないというのが、先に紹介した森巣さんの「途上国なら仕方がないじゃん」という解釈なのです。なぜなら、たとえば中東のガザやパレスチナ西岸の人たちの集団的苦難を理解しようとしたときに、パレスチナ人という集団を想像することがまだ力を持つからです。当然、彼らもパレスチナ人という言葉を使って自らの苦難に立ち向かう。それを「いやいや、そもそもパレスチナ人ってなんですか?共同幻想じゃないですか?」というのは、冷淡にもほどがある、ということなのです。
返す刀で、パレスチナ人に対して直接的な暴力を行使しているイスラエルの基盤となるユダヤ人という言葉が抱える尊厳はどうでしょう。70数年前に欧州でユダヤ人弾圧が起こった時、ユダヤ人という集団は弱者でした。けれども、現在の中東イスラエルのユダヤ人は、けして弱者ではありません。むしろ圧倒的軍事力経済力を持つ超強者だ。だから、イスラエルが自らの存在を尊厳という言葉で形容しようとしても、おそらく力を持たない。空しく響く。
私がたまたま生まれ育った日本の社会の中にある民族問題も上記のパレスチナとイスラエルの関係と同様です。
在日韓国朝鮮人の人たちが民族を意識し、そこに尊厳を語るのは、彼らが社会的弱者であるからです。具体的には、ヘイトスピーチの対象だから。朝鮮韓国語を教える学校が、他の私立学校ならば受けられる公的支援を受けられないから。中国からの移民や労働者の人たちもそう。彼らに対して未だに「反日」という言葉が氾濫する日本社会の中で、彼らが民族的尊厳に目覚めてしまうのもむべなるかなと私は思います。沖縄もしかり、アイヌもしかり。そのほか、アジア諸国やアフリカからやってきた人たちもしかり。
単純なことです。たとえば私の生活するカンボジアで、排日運動が巻き起これば私だって日本国籍者としてなんらかの尊厳に目覚めてしまうかもしれません。
一方、そんな少数者に対して多数者かつ強者である“日本人”(かっこ付けにしたのは、何をもってして自らを日本人と認識するのか、私にはよく理解しきれていないからです)が、尊厳を語ってもやはりあんまり響かない。
それでも「日本人としての尊厳」を語る人たちには事欠かないという状況があります。おそらく、自らを弱者と認識している人が増えているのでしょう、意識的にせよ無意識的にせよ。
それは米国のトランプ現象ともかぶります。トランプ的な存在を支持するのは、白人弱者の存在があるそうです。俺の方が、私の方が、弱い!という競争です。なぜか?弱いと尊厳が高まるからなのではないか???? 個人として弱者であることよりも、集団として弱者であるほうが自らの惨めさを多少はオブラートに包むという効果もあるんじゃないのか?だから、個人を主語とせず集団を主語として尊厳を語る方が、語りやすい。
あららら、こういう評論家的なことを書くようになっては私も焼きが回ってきたかな。
閑話休題。たとえ弱者がつかう集団としての尊厳を認めるとしても、そこに付随する集団としての自己決定権を無条件に認めるのはよろしくないように感じます。「集団としての尊厳と自己決定権」を誰が語っているのか、そこをよーく見ないと。特に集団の自己決定権が語られるときに、自分が不用意にそこに含まれることには注意が必要なんじゃないかしら。知らず知らず、自分も強者(であるにもかかわらず弱者であるかのような)としての集団の一員として語られている、そのことに用心したい。
「集合名詞を使った自己決定権には要注意」の看板は下ろさないでいいようです
前々回の投稿で、私は「集合名詞を使った自己決定権には要注意」と書きました。
けれども、そう書いた後「弱者としての集団の尊厳や自己決定権はどうなのだろう?」と思ったのです。集団としての尊厳を否定してしまうと、先にあげたような弱者としての集団の尊厳という考え方も否定することになってしまう。それでいいのか?という問いです。
で、結論。
確かに弱者集団の尊厳という考え方は有効なことがある。それは認める。
けれども、集団の自己決定権となると常に要注意が必要なのは当然そうである。
集団の自己決定権が、個人の自己決定権を蝕むということは、その集団が弱者であろうと起こりえることだからです。
ちなみに私のチーム自分には、日本人という集合名詞をことさら強く使うメンバーはいないみたいなんです。それは偶然の結果なのか、それとも意図的に除名されてきたのか、そこはどうなのかなぁ。
海外生活が長いと、「日本人としての自分に目覚める人」もいますし、「コスモポリタン意識が高まる人」もいます。当然、両者の境界も不鮮明で、グラデーションなのですけれど。私はどちらかといえば、コスモポリタンに振れたいという意識はあるのです。その意識からも、「集合名詞を使った自己決定権には要注意」の看板は掲げたままにしておこうと思います。

















村山さんは普段の行動や言説からもはやコスモポリタンに振れている人ではないですか?私にはそう思われます。
先日、いつもお世話になっている床屋さんのご主人が小学校の教員から『小学6年生に〝はたらくこと”ということについて話してほしい。』と頼まれたと話していました。なんでも、最初に自衛官の幹部に同様の依頼をして話してもらったが話が難し過ぎて生徒がそっぽを向いてしまったから上手に話してほしいと添えられたということでした。村山さんの今次の”尊厳認識”のテーマとは外れますが、〝はたらくこと”ということについて話すときには話者の話しの底流に”尊厳認識”が絡むと思うので床屋さんのご主人がその辺りをどう話されたのか伺いたかったが果たせなかったところへ村山さんのこの4回シリーズのお話しでした。村山さんの話は難しかったが私なりに考えさせられました。ありがとうございました。
(追記)”はたらくこと”というテーマは最も難しいテーマだと私には思われますが当該の小学校の教員も簡単に講話の依頼をできるなぁと驚きました。