わからない。何が本当か、本当にわからない。それでも今日が来てしまう。だから、とにかく解らないなりに判るしかないわけで。私のメディアリタラシー。

平和の夕餉が、阿鼻叫喚の場に変わる。この写真の誰かが死に、だれかは殺す側にまわる。それが戦争なのだと思います。せっせせっせと想像しなくては!

ウクライナ戦争のニュース

 ウクライナで起こっていること。プーチンロシアがやっていること。
 ロシア軍による虐殺のニュースが入ってきます。いや、正確に書こうとすれば「ロシア軍が行ったとウクライナが発表したニュース」が入ってきます。この文章、もしかしたら《ウクライナが》の部分は、《ウクライナを支援している側が》とか、《プーチンロシアを批判する側が》とか、《米英側が》とか、いろいろと置き換える試みもしたほうがいい。

 正直に書くと、次々と更新され入ってくるニュース一つ一つに、そういうていねいな対応は面倒でもあります。めんどくさい。
 さらに、戦争のニュースにどんどん慣れてくる。不感症になっていく。

 なにに《慣れて》、《不感症》になっているのかせっかくだからもう少し考えてみる。私の心の中の熊さんとご隠居さんに語ってもらいましょう。

熊さん: 戦争とはああいうものなんじゃないすかね。
ご隠居:  お待ちよ、ああいうものってのをもう少し聞かせておくれじゃないかい。
熊さん: だから、お互いがフェイクニュースを流すってことじゃないですか。
ご隠居: そうすると、どうなる?
熊さん: 結局どっちもどっちで。だからどのニュースもまぁどこかフェイクニュースなんじゃないかと思いながら聞くってことじゃないですかね。半分信じて、半分疑って。
ご隠居: なるほどね。私もそうだよ。
熊さん: え、ご隠居でもそうですか。じゃ、あたしらがわけわからないのも仕方ないやね。
ご隠居: いや、私もさ、ウクライナのことほとんど知識ないしね。土地勘もないし。

熊さん: でも、とにかくロシアがウクライナを侵略しているわけですよね。
ご隠居: それだって、昔に西側諸国って呼ばれてた米英側が、約束やぶってNATOをどんどん東側に拡大していってロシアの不安を煽ったっていう面もあるみたいだよね。ウクライナ政府が、ロシア系住民をいじめていたって話もあるようだよ。
熊さん: ふーん。つまりロシアの不安ももっともだったってことですかい?
ご隠居: いや、もっともだったと言っていいのかどうかすら私にもわからないよ。ただ、ロシア側からみれば、それなりに色々理屈もあるらしいってこと。
熊さん: そうですかい。あたしなんかは、どの記事読んでも、なるほどなぁって思うばかりで。ウクライナ側に立つニュース読めば、ロシアひどいなぁって思うし、ロシア側の記事読めば、ロシア軍による虐殺ってのもどこかウクライナ側からのフェイクニュースなのかなぁって思ったり。あたしたちは、どうすりゃいいんですかね。
ご隠居: うん、どうしようもないなぁ。ただ、フェイクニュースが飛び交っているとしても、戦争が起こっているんだから、それまでの日常が壊されてしまう人たちがいるのは本当なんだろうねぇ。
熊さん: そうですよねぇ。生活していた場所が戦場になるんだから。
ご隠居: とにかく、爆弾落ちたり、鉄砲撃たれたり撃ち返したりしているのは確かみたいだからねぇ。それで怪我したり死んだりってのは、困りものだね。

熊さん: ウクライナの人たちからすれば、攻めて来られれば黙ってるわけにはいかないもんなんでしょうねぇ。あたしなんかは、とにかくすぐ降参しちゃいたい。逃げちゃいたい。
ご隠居: そうだねぇ。お国の理屈と私たちの思いは、必ずしも同じじゃないからね。守りたい人もいる、逃げたい人もいる、ってことなんだろうな。
熊さん: でも、あたしたちは選挙でお国の代表を選んでいるわけでしょ? それでお国の理屈とか考えてもらってんだから。つまり、ウクライナの人たちもあの大統領を選んでるわけでしょう?
ご隠居: 熊さんはそういうけれど、私の投票した人、めったに当選したことなくてねぇ。それでも選挙結果で選ばれた人たちが決めているんだから、国民として従わなくちゃいけないってのも、どうなのかなぁ。
熊さん: 祖国防衛のためには、仕方がないんじゃねえのって声もあるようですね。あぁ、あたしもそのうち「いざ鎌倉へ」ってことになっちまうんかなぁ。
ご隠居: 熊さんにもお呼びがかかるようじゃ、もう諦めたほうがいいと思うがねぇ。
熊さん: へっへ、違いねぇ。とにかく、まずは今日の御飯(おまんま)なんとかしないと。家じゃ腹へらした子どもらが待ってますんで。
ご隠居: あぁ、まずは精出して働いておいでな。
熊さん: えぇ、あたしもさっきうちのおっかあにそうお願いしてね。おっかあ、仕事に行きました…………

藤永茂さんのブログ

 藤永茂、という方がいる。

 私にとっては、『アメリカ・インディアン悲史』の著者としての藤永茂なのですけれど、御本人にとってはその紹介の仕方はおそらく不本意なのではないかとも想像します。藤永茂さん、量子化学が専門の物理化学者として米国で長いキャリアを積んでこられた方です。お生まれは1929(昭和4)年ですから、傘寿(さんじゅ(90さい))を迎えておられる。お元気で、『私の闇の奥 (goo.ne.jp)』というタイトルでブログを書かれてもいます。

 ブログのタイトル「私の闇の奥」から、英国の作家ジョセフコンラッドの『闇の奥 Heart Of Darknessを思い出す方もおられるでしょう。もしかしたら、米国の映画監督フランシスコッポラによる映画『地獄の黙示録 Apocalypse Now 』の原作となった小説です、と書いたほうが馴染みがあるかもしれません。日本で出版されている『闇の奥』には岩波文庫版(1958年版)と光文社古典新訳文庫版(2009年版)に加えて、三交社版(2006年版)の3つがあります。もっとも古い岩波版は中野好夫による翻訳、21世紀になってから出版された光文社版は黒原敏行訳、そして三交社版が話題としている藤永茂さんの訳です。
 『アメリカ・インディアン悲史』は1972(昭和47)年に出版されていてます。本多勝一の著作でこの本を知って私が読んだのは1980年代、私は高校生か浪人生か大学生でした。おそらく、先住民から見た米国の歴史を、藤永氏の“怒り”にシンクロしながら読んだのだと思います。この本がとても印象に残ったことは確かで、その後も何度か読み直しています。
 量子化学の専門家である藤永茂さんがどういう経緯で『闇の奥』の翻訳に取り組んだのかは知らないのですけれど、名著『アメリカ・インディアン悲史』を著した藤永さんが、欧米らによる植民地主義侵略の歴史に対して真摯に向き合ってきたことが『闇の奥』翻訳につながっていることは容易に想像がつきます。長く『闇の奥』唯一の日本語訳版だった中野好夫の訳が、『闇の奥』が書かれた時代的背景について不十分な理解に基づく誤解を含んでいて、それへの不満、中野訳への不満というよりも日本社会の植民地主義理解の底の浅さへの不満、が藤永さんを『闇の奥』への翻訳に取り組ませただろうと、私は理解しています。

 小説『闇の奥』と映画『地獄の黙示録』について知らない方向けの簡単な説明も蛇足ながら書いておきます。
 
小説の方は、ベルギー国王レオポルド2世の私有地(!)だった18世紀アフリカのコンゴを舞台にしています。赤道直下のコンゴ川流域の広大な地域(現在のコンゴ共和国)が欧州の一国家の国王の私有地だったということからして現代の視点からすれば驚くべきことです。その私有地では、他の植民地にも増して過酷な搾取が行われていました。当時天然ゴムの需要が欧米で拡大し、当時のコンゴではゴム栽培が住民に強要されました。充分な収穫を上げない住民たちには「手首を切り落とす」という“狂っている”としか思えないのような刑罰が横行したのです。このような住民虐待政策は、植民地搾取が横行していたヨーロッパ社会ですら大きな批判の声が上がりました。
 『闇の奥』の著者コンラッドは、1857年(日本は、黒船襲来から4年後の安政4年)のポーランド生まれの船乗りで、ヨーロッパから遠くは西インド諸島にコロンビア、さらにインド、シンガポール、果てはオーストラリア、つまりは世界中を旅して周り、やがては英国国籍をとったという人です。43歳の頃に、コンゴ川で象牙商船の船長もやっていたと。そのときの体験を基に書いたのが『闇の奥』で、1899(明治32)年に発表しています。
 映画『地獄の黙示録』は、1979(昭和54)年公開の米国映画で、舞台はコンゴではなく、ベトナム戦争時の南ベトナム、カンボジアに移されています(撮影場所はフィリピン)。監督のコッポラは、すでに映画『ゴッドファーザー』(1972)、『ゴッドファーザーPartII』(1974)の大成功で名声を勝ち得ていて、『地獄の黙示録』は制作時から注目され、その公開そのものがとても大きな話題(日本でも!)となった超大作映画でした。カンボジア在住の立場から一言加えると、ベトナム戦争当時、一人の元米国陸軍特殊部隊大佐によって謎の密林独立国(イメージはアンコールワット)がカンボジアに作られていたという、ハリウッドによる荒唐無稽のトンデモ映画でもあります。

 さて、藤永茂さん。私は、彼のブログ「私の闇の奥」を世の中のあれこれ、特に国際情勢、を考える貴重な情報源として読んでいます。藤永さんによれば、最近の「ロシア軍による虐殺報道」の多くが米国・ウクライナ側からのフェイクニュースです。
 藤永さんが様々なニュースソースを読みながら藤永さんご自身で判断していることの、そのすべてが正しいかどうかはわかりません。藤永さん御本人もついついご自分のお気に入りのニュースソースに目が行ってしまうことを「自分の聞きたいことだけに耳を傾け、見たいものだけを見て、他のものから注意を逸らしてしまうのは、決して推奨すべき生き方ではありますまい」と自戒されています。

 私としては、もう数あるニュース源すべてをあたり、その裏をとっていくことは、もう全然無理なわけです。となれば、どうやって信用できるニュース源を確保するかとなってしまいます。そして、そこでは何を持ってして「信用」するかが問われます。

 藤永さんは長く「侵略される側」の視点に立つことを意識されてきた。
 少し話飛びますが、最近毎日新聞にロシアを巡る長老学者と若手学者の意見の違いに関する(私には)興味深い記事が載りました。長老たち「ロシアの言い分聞くべき」 若手専門家が猛反発 | 毎日新聞 (mainichi.jp) その中で、若手研究者が長老たちを批判する内容として
<①米国は好戦的、②日本の保守政権は米国に追従、③社会主義の中国やソ連の(ロシア)人民と連帯すべき、という思考が現在に至るまでマインドコントロールのように再生産されて、多くの人がその思考でウクライナ戦争を見てるのでは>
とありました。

 同様に、藤永さん(長老と呼ばれて相応しい年代です)の考えも、反米国的で、旧東側に親和的、であるという揶揄もあるでしょう。そして、藤永さんを信用するという私も、その揶揄の対象であるでしょう。
 そういう揶揄に対しては、それでも長きにわたる戦いとそこで培われた目がブランドとして価値を持つのだと言いましょうか。ブランド、たしかに危険な言葉です。老舗だからといって、簡単に信用できるようなご時世でもない。それでも、ブランドはたった一度の嘘、虚言で崩されるのです。私の中で、藤永さんへの信頼は、これまで崩れることはなかった。限られた時間の中で、情報をどこから得るのかと考えた時、私なりの選択肢のひとつが藤永茂さんなのです。

 双方が嘘のつきあいの戦いに夢中になっている現状ですが、昔から、「語るに落ちる」とか「尻尾を出す」とか中々旨味のある言葉もあります。この熾烈醜悪な空言虚言合戦から、期せずして、真の真実がこぼれ落ちて来ることも十分ありうることだと思います。(2022年5月11日の藤永茂ブログ「私の闇の奥」より)

殺される前に殺せ!?

 おそらく、ロシア側もウクライナ側も、私にとってもっとも憂鬱なのは極右の存在です。日本を振り返ればわかるように、ロシアにもウクライナにも極右は存在する。そして、たとえばウクライナの極右は、ロシア軍の虐待に見せかけてウクライナの人を惨殺していると私は思っています。もちろん、ロシア軍による戦争犯罪?としての市民虐殺もあるでしょう。
 (量的には圧倒的に多い)ロシア軍の虐殺の報道記事を読みながらときどきふと腹立たしいのは、報道者たちあるいは読者たち(の一部)がまるで「戦争は起こったけれど、市民虐殺は起きない」とウクライナ戦争の前には少しでも思っていただろうかと感じることがあることです。バカな!!戦争が起これば、“普通の人たち”の日常なんて簡単に破壊されるのです。戦争は仕方がない、けれど市民虐殺は許さない、なんて立場はありえないのだ。だから虐殺も仕方がないと言いたいのでは、もちろんありません。虐殺を止めるには、両軍の戦闘行為を止めるしかない。つまりは、兵器をウクライナに送るなんて、クレイジーでしかない。日本国政府は一応兵器を送ることはしていないとされていますが(ドローンを送ったけれど、兵器用ではないそうです)、兵器をウクライナに支援する国々(米英ドイツポーランド………)を非難することもありません。

 次に侵略されるのは日本だという掛け声で、軍事費を増大しても戦争は防げない。軍事費を増やした結果、ロシア的な側(つまり他国に攻め入る側)に陥る危険性が増すばかりです。じゃ、攻められたらどうするのか? 徹底的な話し合い戦略しかないじゃないですか。侵略されないための方策をとにかくとことん追求するしかないじゃないですか。徹底的に平和的協議で外交問題を解決するために核の傘に入っているのだとぐらい、せめて日本国政府には言ってほしいものです。それでも「もしものときに備えるのが政治です」、あぁそうですか、俺は政治家じゃないからね、と私は書くよ。そして、逃げるよ。逃げながら考えるか、逃げてから考えるよ。殺されるなと言うなら、それ以上の力を込めて、殺すな、です。殺される前に殺せ、ほどお馬鹿なはなしはない。それはあまりに叡智という言葉から遠い、遠すぎる。あまりに遠すぎて、咳をしてもひとり、って気分だ (念のため、尾崎放哉、ね)。あるいは、ネリリし キルルし ハララして、くしゃみでもするしかないのか (念のため、谷川俊太郎、ね)。

「トンデモない話」なのか、「正しい話」なのか

 ついでにと言っては失礼ですが、信用できる人の語りという点で、もうひとつ映画監督の想田和弘さんのブログも紹介しておきます。映画作家・想田和弘の観察する日々 | マガジン9 (maga9.jp)

 こちらは、日々のニュースの内容を判断する情報ソースというよりは自分の思考を鍛えるために有効だと感じています。

 とにかく、限界はあります。ニュースに対する判断を間違うこと、考え違い、そういうことから完全に自由だなんてありえない。それでも、間違いや考え違いを少なくしていくための努力は必要なんじゃないか。言葉足らずを少しでも回避するために書きますが、努力できる人は努力したほうがいいのではないか。僭越ですが、それができない人はいて、彼らはそれをできる人たちに委ねるしかない。この世の中には、徹底的に力のない人たちがいる。そして、彼らも生きていて、殺されていはいけない。だから委ねられた人たち(私もそのひとり、これを読めるとすればあなたもそのひとり)には、彼らの今日が平和であることに責任があるよ。でも、努力して考えても、それが多くの人にうまく伝わらないのも仕方がない。往々にして思いなんて他者にはきちんと伝わらない、そういうもんさ。だからといって、黙っていたら、伝わるわずかな可能性もないじゃないですか。

 ところで、「ソーカル事件」ってご存知でしょうか。アランソーカルという学者が、数学科学の専門用語を散りばめた無意味な学術論文を意図的に執筆したところ、それがさも意味ありげな論文と解釈されて有名哲学雑誌に掲載されたという1995年の出来事を指す言葉です。この事件後、自然科学者と社会科学者との間で「サイエンス・ウォーズ」とも呼ばれる論争が起こりました。
 この事例は、21世紀の今や科学は細分化が進み、ごく限られた専門家でしかその内容を理解できない状況が生まれていること、その結果「科学的な判断」と「空論」との境目がつかなくなっていることを証明してしまったのです。そして、これは科学的なことだけに限りません。
 たとえば、ジェンダーにしても、ジェンダー研究者たちによる最先端の議論は、私たちの日々の生活になかなか反映されません。「母性」なんて、脳科学の面からはもはやナンセンス!でしかないことが、未だに女性にとって大事(つまり男性は母性の面で女性にどうあがいてもかなわない)なんてことがまるで「真実」かのように語られる。
 世界はトンデモない話で満ち満ちている。そして私たちは、どれが「トンデモない話」でどれが「正しい話」なのか、ほとんど判断できないでいる。光子は波でもあり粒でもある、ということと、ロシアもウクライナも嘘をつく、ということが同じ?違う? あなたは、どう思う? Yes、or No? どうして、そう思うの? 
 ね、狂わないでいられることが、不思議だよ。いや、まだ狂っていないって、どうやって証明できるの? それでも生きなければいけないなんて、ホント、現代人はすごいよねぇ。

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