ルワンダで、日本でのアイヌの人たちのことを考えた

ルワンダにて 左の木がジャカランダ 紫の花が綺麗だ (本文とは直接関係はありません)

民族問題はルワンダには存在しない、消されたごくごく少数派先住民トゥワの人たち

 《民族》とか、《人種》とか、とてもあやふやな言葉をあまり使いたくはないけれど、世界の現状を言い表す際には、使うほうが伝わり易いということはある。また、《民族》や《人種》という言葉に頼らずに日々生活していられるのは、実は強い側、多数な側だ、という現実もある。そんな現実に目をつぶるのは、「えー、カマボコはお魚(トト)で出来てるの???」(というのが、カマトトの語源だそうだ)ということになってしまうこともある。

 ぼくが2012年から2年近く過ごしたルワンダの、フツツチという《民族》については聞いたことがある人も多いだろう。ただ、両者は同じ言語を使っているし、婚姻などのつながりも古くからあったそうだ(現代でも少なくなかった)。そんな土地にやってきて植民地化したドイツ、そして第一次大戦後にドイツから引き継いだベルギーによって導入された個人認識票という紙切れによって、両者の民族化が固定された。まだ百年ちょい前の19世紀最後から20世紀にかけてのことだ。

 両者の悲劇については、来年2月ごろ?出版される予定のぼくの本の中でも触れているので、ここではこのぐらいにする。今回はもう一つの先住民について。欧州の宗主国が導入した個人認識票の民族欄には、フツ、ツチの他にもうひとつ、トゥワがあった。

 アフリカのピグミーと呼ばれる人たちのことをぼくが知ったのはなんの機会だったのか、思い出せないでいる。でも、知っていた。ピグミーとは、アフリカの密林に住む狩猟でくらしている人たち。そのピグミーの人たちのルワンダでの呼び名がトゥワだ。
 ピグミーの人たちのことを改めて調べてみると、彼らはアフリカ中央部の大湖地域やコンゴ盆地東部(ルワンダやコンゴ共和国東部)、あるいはもっと大西洋に近いカメルーンや中央アフリカ共和国といった熱帯雨林にくらす狩猟民族で、一言にピグミーといってもそれぞれが独立した社会集団の集まりだ。ピグミーという民族意識を持つ人たちがいるわけではなくて、それぞれの社会集団にそれぞれの言語や固有意識(それに連なる自称名)がある。

 国際人権NGOのMGR(Minority Rights Group International)によるルワンダのトゥワ(Twa)に関する記述 Twa – Minority Rights Group によれば、 2004年の調査では、3万3,000人のトゥワの人たちがルワンダには暮らし、主には陶器製造を生業としてるそうだ。彼らは、もともと生活していた森林から、伐採、農地化、国立自然公園化などによって立ち退きを命じられ、生活の基盤を失った人たちが多い。彼らの土地所有権の主張は政府に無視され、教育や医療の点でも、とても不利な状況にある。彼らへのルワンダ社会からの偏見や差別も多いという。
 フツとツチの民族和解という大方針を掲げるルワンダ政府は、「ルワンダには民族は存在しない」という立場を強くとっている。もちろん、それは無意味な民族紛争をこれ以上起こさないために必要な対応ではあるのだけれど、そのことが余計にトゥワの人たちへの差別と、彼らの貧困を見えないものにしてしまっている。先住民族としての権利を主張しようとしても、民族問題は存在しないとする政府の方針とぶつかり、結局、無視されることになる。トゥワの人たちを支援しようとする海外から働きかけに対しても、ルワンダ政府の対応は消極的だ。

北海道アイヌ 19歳知里幸恵が残した名文

 民族問題は存在しない。多数派はいつもそう言って、少数派の存在を無視するよねー、やんなっちゃうよなぁ、ずるいよなぁって、ぼくがいえば、どの口がそれを言う!となる。
 日本の明らかな支配民、ヤマトンチュあるいはシャモ[1]、に属するぼくがルワンダのトゥワの例だけを挙げるのはあからさまに狡いだろう。
 以下に紹介するのは、1922年(大正11年)に19歳で早逝した北海道アイヌ知里(ちり)幸恵さんが、亡くなる直前に残した『アイヌ神謡集』[2]の序文だ。ぼくの子どもともそれほど年の違わない19歳の、しかも偏見多き時代の女性が書き残したものと知れば、ことさら姿勢をただして読みたいと思う。

 その昔、この広い北海道は私たち祖先の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびり楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、何という幸福な人たちであったでしょう。
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して(ふき)とり(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる(かがり)も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,(まど)かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく。
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍里くらんで行手も見わかず。よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお滅びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう。 

 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます。
  大正十一年三月一日                       知里幸恵

 知里幸恵さんは、北海道登別で1903(明治36)年生まれた。なんと、ルワンダで個人認識票が導入されたのと同じころだ。幸恵さんの祖母がアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だったため、彼女は幼い頃からアイヌの価値観・道徳観・伝統文化に親しんだ。また、彼女はアイヌの子どもたちが通う(通わされた)小学校で日本語も学び、成績優秀だった。

 幸恵さんが15才のとき、言語学者の金田一京助が、祖母のカムイユカラの聞き取り調査を行った。アイヌ語と日本語の両方に堪能だった幸恵さんは金田一の調査に協力し、上京しカムイユカラの翻訳作業に取り組んだ。そして19才の短い人生を燃やしたんだ。
 上述した文章を読めば、彼女が文学的な才能を持ち合わせていたことは疑いようがない。彼女と金田一との会合が、どれだけ幸運だったのかはぼくは知るよしもないけれど、ふたりが出逢えて本当によかった。けれど、幸恵さんは早逝し、アイヌの人たちの悲劇は続いた。

 ぼくが子どものころ、日本政府は「日本に民族問題は存在しない」という立場で、総理大臣が平気で「単一民族」なんて口にした。ようやく1984(昭和59)年に差別的な法律だった「北海道旧土人保護法」が廃止され、アイヌ新法が設定された。さらには、1994(平成6)年に萱野茂さんがアイヌとして初めての国会議員(参議院)となり、その年の11月24日に国会で初めて、アイヌ語による質問を行っている。

 イタップリカ ソモネコロカ シサムモシリモシリソカワ チヌムケニシパ チヌムケ カッケマク ウタペラリワ オカウシケタ クニネネワ アイヌイタッアニ クイタッルゥェ ネワネヤクン ラモッジワノ クヤイライケプ ネルウェクパンナ。  エエパキタ カニアナッネ アイヌモシリ、シシリムカ ニプタニコタン コアパマカ 萱野茂……   
(言葉のあやではありませんが、日本の国土、国土の上から選び抜かれてこられた紳士の皆様、淑女の皆様が肩を接しておられる中で、成り行きに従いアイヌ語でしゃべらせてもらえることに心から感謝を申し上げるものであります。  私は、アイヌの国、北海道沙流川のほとり、二風谷に生をうけた萱野茂というアイヌです……)
第131回国会 参議院 内閣委員会 第7号 平成6年11月24日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム (ndl.go.jp)より

 最近では、2019年にアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律が施行されている。
 蛇足だけれど、この法律の背景には、昨今話題の学術協議会が2011年に出した「アイヌ政策のあり方と国民的理解」報告書による提言があったりする。kohyo-21-h133-1.pdf (scj.go.jp)
 単一民族の虚構からわが祖国が自由になれたとしたら、喜びたい。

 今年7月、北海道白老郡にウポポイ(民族共生象徴空間ウアイヌコㇿ コタン)園が開かれた。そこには国立アイヌ民族博物館もある。北海道は大学生のころ、自転車で旅したことがあって、それ以来ご無沙汰だ。ウポポイ目指して、北海道は再訪するつもりだ、ただし寒くないときに

弱いから侵略された、だから強くならなくちゃ、からの脱却はできるのかな

 ルワンダのトゥワと、日本のアイヌ。知らぬ間に近代国家に取り込まれ、土地と生活を奪われた人たち。彼らにとって、越境者は侵略者だった

 以前、20世紀前半の日中太平洋戦争時従軍慰安婦として辛酸をなめた韓国の女性が「国が弱かったから、私は苦労することになった。韓国には強い国になってほしい」とインタビュ―で語っているのを聞いて、複雑な思いがしたことがぼくにはある。
 侵略に対抗するためには、侵略されないようにするしかない。今の日本の軍備の重要性を語る文脈も、そういうことだ。
 でも、そうなれば、軍備拡張競争となることは、歴史はもう何度も明らかにしている。拡張の果に、風船が割れるように戦争が起こる、
 現代では、戦争は、侵略というよりも、武器弾薬の在庫整理だ。軍備拡張の裏には、軍需産業がある。軍需産業に従事している人たちの数は多い。軍需産業を止めて起こる失業問題は深刻だろう(まるで、途上国での経済社会開発支援がもはや産業で、それに従事している人も多い、だから国際開発事業は止まらない?構図みたいだ)。

 でも、そろそろなんとかしなくちゃいけないはずだ。ここ数世代でなんとかしなくちゃ。
 トゥワやアイヌの人たちが「弱かったから侵略された、だから強くならなくちゃ」と、ルワンダや日本で旗を振る姿を、ぼくはけして見たくない。

 

 


[1] ヤマトンチュ(大和人)は琉球人が日本の多数派支配民を指した言葉、シャモ(和人)はアイヌが日本の多数派支配民を指した言葉。

[2] ここでの引用は以下より。『アイヌ神謡集』知里幸恵/著訳 https://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html 

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