オーストラリアの北端にあるダーウィンを訪ねたことがある。人口12万人強のそれほど大きくはない都市だ。ダーウィンという名前は進化論を唱えたチャールズダーウィン[1]に由来しているけれど、彼がこの地を訪ねたことはない。ダーウィンが世界一周の航海で乗船した英国軍艦ビーグル号が、別の航海でその地に寄港したのがダーウィンと名づけられた由縁らしい。
人の越境によって、起こってきたこと
このダーウィン、人口に占めるオーストラリア先住民の割合が4分の1を占めている。これはオーストラリアの他の都市と比較してとても高い割合だ(オーストラリア全人口の中で先住民が占める割合は2%しかない)。
シドニーなどの大都市があるオーストラリア南東岸が温帯に位置し気候の穏やかなのと比較して、サバナ気候で暑さの厳しい北部への欧州からの移民(主に英国人)が少なかったことが関係しているのだろう。18世紀にジェームズクック(通称キャプテン=クック)によるオーストラリア大陸東岸部の英領宣言以降、オーストラリアでの英人移民により起こった先住民にとっての数々の悲劇、彼らは狩猟の対象にもされた、についてはここでは書ききれない。
英人移民は、気候豊かな南東部では羊を放牧し先住民を追い出し、あるいは豊かな鉱物が発見されれば、やはり先住民の土地を奪った。
ぼくもときどき楽しむ美味しいオーストラリアワインも、そんな歴史の産物だ。
ダーウィンの中心地はそれほど大きくなく、繁華街をぶらぶら歩いていると30分ほどでどん詰まりの港にたどり着いてしまう。この町で印象的だったのは、先住民と欧州系やアジア系の移民組とがまったく別々の世界を生きていることだった。夜の町を歩いていると、ちょっとした歩道の暗がりで先住民の人たちが座り込んで話し込んでいた。そして、その脇に赤い警光灯を回したパトロールカーが停まると、移民系の警官が「こんなところに座り込んではいけない」というようなことを伝えていた。その一方では、明るいレストランの中で、移民の子孫たちや観光客が食事を楽しんでいる。そんなレストランの中には先住民の姿は見られない。
例えばダーウィンと同じく、新大陸である北米に欧米からの移民が開いた都市であるカナダのバンクーバーにも2年ほど前に1ヶ月ほど滞在したことがある。そこでは欧州移民系の路上生活者がたくさん町を歩いていたけれど、先住民系の路上生活者は、ぼくの1ヶ月という短い滞在の範囲だけれど目にした記憶はない。
ところがダーウィンでは〝白い〟路上生活者は見られず、道に座り込んでいるのはいつも先住民だった。ただ彼らを簡単に〝路上生活者〟と呼んで良いのかどうかはわからない。なぜなら彼らの多くは、子どもも含む家族連れの10人を超えるような集団で、ちょっと用があって町に出てきたような風情を漂わせていたから。単に数日を過ごして、自分たちの居住区、あるいはダーウィン郊外の自宅に帰るのかもしれない。そうであれば、わざわざ宿に泊まるのが億劫なだけのことかもしれなかった。
つまり、先住民にとって、町も野も、それほど関係ないのかもしれなかった。どこであろうと、たどり、とどまり、ただようところ。
ところが、町はどこも「私有地」か「公共地」に分類されている。私有地に無断で入ることは許されないし、公共地で寝泊まりすれば排除される。移民者が持ち込んだルールは、一方的に先住民にも適応される。
夜の舗道での、先住民グループと警察官たちとのやり取りを少し離れたところから見ていたことを今思いだすと、改めて境界を越えることの難しさを感じる。
先住民が残してきた岩絵
ダーウィンの東方や南方には先住民居住区が広がっている。そこは先住民専有の場所で、居住者以外の者がそこに入るためには先住民コミュニティからの許可が必要になる。観光客であるぼくは、そんな許可を得て実施されていた正規ツアーで、ダーウィンの東部に広がるアーネムランド居住区に入った。その山中に点在する先住民たちが描いてきた岩絵を見てみたかったんだ。ツアーで訪問した村には先住民が暮らす小さな家屋が点在し、小さなマーケットもあった。そこは先住民だけが暮らす場所で、村に面した小さな湖の空には私の大好きなペリカンが大きな羽を広げて悠悠と滑空していた。ペリカンの飛んでいる姿ほどカッコいいものは、この世の中にそうそうはない。
人が移動して、新しい人たちと出会う。異文化同士が接触し、何かが起こる。でもこれまでの異文化の衝突はけして平等ではなく、一方が他方を飲み込む――あるいは蹂躙という言葉を使ってもいいかもしれない――形で進行することが多かった。その途上で気づきがあり、再度境界がひかれ直す。そこに至るまでに多くの犠牲が払われたことを指して「遅すぎた」と批判することは可能だけれど、とにかく何かに気がついてそこで取りうる手段を取ろうとするのを批判する必要はないだろう。
先住民が描いた岩絵は素敵だった。描かれた自然界のワニ、魚、カンガルー、トカゲなどのときには内蔵までが丁寧に描きこまれた様は、先住民にとってそれらの生き物がいかに身近なものであったかをとてもよく今に伝えていた。また人類自身を描いたものもどこかユーモアを感じさせる余裕があった。そしてオーストラリア先住民の壁画に限らず古い壁画に多く見られるハンドマークは当時から今に続く人類の承認欲求を示しているようにも思えた。さらにそれらを案内してくれた先住民ガイドの語りは、岩絵が単に過去のものではなく、彼らの暮らしと誇りに今もつながっていることを十分に理解させてくれるものだった。彼らには、ぼくには見えないものが見え、ぼくには感じられないものが感じられるんだ。それを疑う余地はない。

それにしても、オーストラリア先住民の暮らしぶりを垣間見ると、多文化共生という言葉が強者の言葉であるかもしれないことを考えないわけにはいかない。彼らにとって、異文化や多文化は迷惑な話でしかなかったのではないか。でも、世界は開いているから仕方ない、といってみたい誘惑はぼくには強い。
医療によってそれまで助からなかった子どもが助かる、交通の便がよくなり遠くまで出かけることができ、それによって自分たち以外の存在を知り交流する、そんなことが〝迷惑〟だけで語られてしまうのは寂しすぎるように思うから。
ダーウィンの港の堤防の先に観光客相手のレストランがあり、ダーウィン滞在中はほとんど毎日宿からそこへ歩いて行き、波の音を聞きながら生牡蠣を食べた。素材の味で勝負してくるものは、毎日食べても飽きないものだ。生牡蠣はレモンも何もつけずにそのまますするのがぼくは好きだ。そっちのほうが牡蠣に詰まっている海のエキスの味がよく分かるような気がするから。
[1] チャールズダーウィン 1809年英国生まれの自然科学者。1831年末から5年かけてビーグル号の西廻りでの地球1周航海に乗船しガラパゴス諸島など各地を訪問した。オーストラリア東海岸シドニーにも寄港している。この航海での観察経験が後の進化論の完成につながる。1859年『種の起源』発行。1882年死去。

















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