マクドナルド語は、日常ではむしろ使わないほうが好印象じゃない? ということを、まず書きます。
あるブログを見ていたら、「日本人は云々カンヌン…」という文章で始まっていて、う~ん、私は「日本人は」で始まるような文章でブログを書かないよなぁと思ったのでした。
でも、あぁ、なんてこった。タイトルから「日本人は、」だよ。人のブログに文句つけておいて。これだから、ホント、人の言うことって当てにならないよなぁ、って自分にツッコミを入れながら書き始めております。
でも、小田嶋隆さんがおっしゃるように《させていただきます》、最近多すぎ!と私も思うんですよ。ちなみにタイトルで引用した小田嶋さんの文章は以下からです。「させていただく敬語」に抱く敵意の正体:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)
最近若い世代の方からいただいたメールを読むと、とてもていねいに書いていただいてあって、恐縮しまくりです。つまり「メールを送らせていただきます」、「読ませていただきました」、「連絡させていただき」、「参考にさせていただけることもあるかと」、「参加させていただきます」、「ご意見をいただく件」、「紹介していただく」、「回答させていただきます」……。
いや、お一人のひとつのメールからではなくて、複数名の何通かのメールからの拾い出しですけれど、「させていただきます」をたったぷりいただきました!という気分を味わせていただいています。
参考にしちゃった〇〇さんたち、これを読んで気を悪くされたらゴメンね。あくまで洒落ですので、お許しくださいませ。
でもね、たしかに若い人の文章に「させていただきます」は多いように感じます。おそらく「安全」な感じがするんだと想像します。確かに会ったこともない、特に年長者にメールや手紙を書くって慎重になる気持ちはわかります。どうしたって安全運転を心がけちゃう。私だってそう。
けれども、印象としては「させていただきます」はやっぱり書き手の主体性も回避しちゃうような雰囲気が強い言葉だと思います。没個性。安全を優先すれば没個性になるのは当然なのかもしれないけれど、私からするとやっぱり残念な気分もある。
メール程度で個性を出せ!と書けば、まさにおじさんっぽい「忠告」かなぁ。いや、個性なんかメールじゃそう簡単にはわかるもんじゃありません。ただ、せっかくなら、安全よりは、素直がいいと思うんですよね。「させていただきます」文章を書くのも、 素直 に安全策に流れているのかもしれませんけれど。やっぱり個々の 素直 な顔が感じられるような文章がいいんじゃないかなぁと私は思う。「させていただきます」は、どこかマニュアルっぽくて、仮面のイメージが私には強いんですよ。ペルソナって云っちゃえば、社交の顔でいいじゃないか、それ以上何を求めるのよ?パーソナリティの開示を求められても困ります!ってことにもなりかねなくて、年長者がそれを求めたらパワハラ?になるケースは確かにある。
ここは単純に、マニュアルっぽくないようにしようよ、ってことで十分なんかな。「させていただく」は、マクドナルド語だから、あの注文を受けるとき以外はむしろ使わないほうがいいよ、ってことをお伝えできれば、ってこと。せっかく素直に笑顔を見せているのに、それをことさら「営業向け」の無理やり笑顔だって印象をもたせることもないじゃない。それは、もったいないよ、って思うんだけれど、さて、皆さまはどう思われますか?
仮面(ペルソナ)なんて、当たり前?
と、ここで終わってしまえば『越境、ひっきりなし』の名がすたるかしら、と思って続きを書くわけです。
ペルソナと書いて、10代半ばのころ読んだ安部公房の『他人の顔』という小説を思い出しました(正直に書くと、『顔』あるいは『仮面』というタイトルだったかと思って探しましたけれど見つからず、ようやく『他人の顔』が見つかって、あぁ、これだ、と)。確か、他人の仮面をつけているうちに本当の自分が判らなくなってくるというような内容だったですよね。40年前に読んだときは、おぉ!という気分が湧いたと思うのですけれど、今となっては「当たり前」すぎて陳腐かもしれません。
つまり、それだけ現代社会は、仮面なんて当たり前よ。本当の自分? 何啓発本みたいなこと言ってんのよ、ってことになっているんだと(私は)思うんです。人は誰しも、いくつもの顔を持っている。自分ですら、どれが本当の自分なんて判らない、それが普通。そんな気分が世の中を席巻しているんじゃないかな。そして、純真無垢な人だけが、そんな状況に満足できなくて、本当の自分探しに奔走している。それが21世紀の現代! 安部公房が『他人の顔』で描いた葛藤は、今や常識レベルで、多くの人はとうにそんな葛藤は乗り越えている、なんて書くと、「素人がポストモダニズムみたいなこと書いて、大丈夫か?」なんて声が聞こえてもきます。うん、私も危ないと思いつつ書いてます。
超えて気がつく、そこにあった峠(境界線)
途上国の教育支援という仕事をしながら、いくつかの「始めまして」の社会で暮らしてきました。若いころは、たしかに《はったり》って大事だと思っていました。単純な技術レベルでいえば、履歴書の語学欄で、1・2・3・4・5というランクがあれば例え嘘でも「英語力 4」、ないしは「英語 5」とするみたいなこと。「英語力 2」なんて書くのは、正直の美徳にもならなくて、つまり仕事をやる気がないってことだ、みたいなふうなこと。もう少し大きなことで書けば、「できない」って思うなって思っていました。やるしかないのだ、と。自分の専門性なんてわからないけれど、専門性はありません、って言っちゃ駄目だと。それは単に言い訳で、言い訳なんか誰も聞きたくないのだ、と思っていた時期があったように思います。それが《はったり》。《はったり》という仮面をつけているうちに、その下面が本物の顔になればシメたもんだ、ぐらいに思ってた。
実際には《はったり》じゃ、語学はうまくはならない。そして、実際に英語はたいして上手くもなりませんでした。おそらく馴れただけ。それでも馴れは恐ろしいもので、はったりカマしているうちに、はったりも様になってくる。やがて、はったりなしでも、なんとかなると思えたのは、50歳も近づいた頃かなぁ。ようやく肩の力が抜けたあたりで、ルワンダで事故にあってしまい、また振り出しに戻るとなったわけです。
そう思うと、境界って自分の歴史の中にもあったなぁと思うのですよ。《はったり》に頼っていた自分は、ある時期、《はったり》の先にあった境界を超えたのだと振り返るとわかります。以前は、そんな境界は見えていませんでした。超えてから、振り返ることで初めてそこにあったことに気がついた境界が、あったのです。あれは、なんだったんですかね。もしかしたら、峠を越えたってことなのかもしれない。上り坂を登っているときは、いったいいつ峠がやってくるのかなんてわからない。とにかく、次のカーブまで行く。そのカーブの先がどうなっているかはわからない。そして、次のカーブを曲がれば峠が見えると思って自分を励まして、でも、カーブを曲がっても、そこは絶対に峠じゃないんですよ。期待した俺が馬鹿だった。仕方ない、とにかくまた次のカーブまで。そしたらまた次のカーブまで(えーと、私、大学生のころ、峠を攻めるチャリダーだったことがちょっとあるのです)。自転車ならば、実際に峠を越えたら分かるわけですけれど、人生では、あるいは仕事では、峠にある境界線は越えてしばらくしてから気がつくのかな。
そして峠を越えるころには、つまりもはや下り坂なのです。下り始めたら、自転車は早いよぉ。上りであれだけ苦労した高度を、あっという間に下りきっちゃう。上り2時間、下りは10分。
そう思うと、峠を登りきった直後に事故った私は、幸運だったのかもしれません。下り切る前に、違う自転車に乗り換えて、また違う峠を登り始めることができたのですから。
そう、実は登るほうが私は好きなんだと思います。あれ、登っているときは、もうこれで絶対最後にしようって考えています。二度と峠攻めなんかするもんかと誓う。こんな馬鹿なこと、もうやめだ。次のカーブを曲がって峠だったら、そこで終わり。一気に下って、もう峠になんか絶対に来るもんか!って思ってる。そして実際、下りは爽快、がんがん降りる。でも高度をぐんぐん下げながら「あーぁ、こんなに早く下っちゃって、もったいないよなぁ」なんて思ってる。
そして、また登りたくなるのです。バカだねー。
そう、また境界を超えたくなるのです。性分なのかもねー。〇〇は死ぬまで治らないってことなのかしら。ま、しょうがない。それならば、死ぬまで楽しませていただくことにします。

















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