同じ世界に生きているようで、見えているものはずいぶんと違うんじゃないか?
障害者世界は、非障害者(健常者)世界とはまた別の世界だ! ということをときどき書いています。それを強く言うと、両者の間にははっきりとした境界はなく単にグラデーション(小さな段階的推移)があるだけだと、非障害者の方から異論を発せられたことがこれまで数回あります。
確かに、同じ人間だ。そりゃ、同じところ、同じように考えなくちゃいけないこと、たくさんありますよ。特に、権利問題など、両者の間に差があっていいわけない。けれども、日常から見えることは、やっぱりずいぶんと違うよなぁって思うこと、私は多いのです。
そう書いている私も、こっち(障害者側)の世界にやってきて障害者目線で社会を見ることになったのは、まだ10年半ほどのいわゆる中途障害者で、それ以前の非障害者だったころの自分を振り返れば、やっぱり障害者目線を理解できていなかったわけなんですけれど。
たとえば、携帯電話で目に入ってくる「美味しいレストラン」や「穴場レストラン」を紹介する短い動画、ありますよね。私もついつい見ちゃうんです。けれども、その映像の途中に階段や大きな段差などがあると「あららら」と思っちゃう。
この社会の大多数を占める非障害者の人たちは、同じ映像を見てもそんな場面でけして気持ちがつまずいたりはしない。もちろん、そのことで動画を作った人や、なんとも思わない非障害者を責める気持ちはまったくありません。そりゃそうだよ、わざわざ障害者向けに作っているわけじゃなし。まったく問題はない。
でも、この「まったく問題はない」ことが、そのまま両者の間にしっかり横たわる“境界”の存在を示しているんじゃないかしら。
そしてこの手の境界は、この世界にやっぱり無数に存在する。車イス者だから発見できる境界もあれば、車イス者の私では気がつけない境界も多いことだろうと、つくづく思う。そのすべての境界を意識して生活することは、現実的じゃない。結局は、少数者側、境界が見えてしまう側が、その境界とうまく付き合っていくしか術がないことが多いのです。
そしてそう考えると、グラデーションとか語る人がきまって非障害者、社会的多数派であることがよく判る気がするのです。それはもしかして、鈍感? あ、口がすべりました~、ごめんなさい。私も、鈍感者でありました。過去形ではなく、現在形で、やっぱり鈍感者であります。このブログだって、視覚障害者のために打てる手立て、してないもの。あかんのです。
障害者目線での偉人たち
非障害者からすればなかなか自分のものにすることが難しいのが、障害者的価値観なわけです。そして、それはたとえば歴史でも同じ。もしこの社会の多数派が障害者だとすれば、学校で学ぶ歴史の教科書の内容も、今とはずいぶん違ったものになるはずです。
たとえば、世界の歴史的偉人をリストにして並べたとすると、障害世界でのリストは非障害者の人たちからすれば“有名”ではない人たちの名前が何人も出てくる。障害者世界と非障害者世界の偉人リストを比較すれば、両者が違う価値観で成り立つふたつの違う世界であることが実感できるかもしれません。
たとえば、1970年代に障害者運動の先頭を走った横塚晃一や横田弘の名前を知っている非障害者はどれほどいるのか? 20世紀の偉人として横塚の名前を挙げたのは立岩真也さん(元立命館大学先端総合学術研究科教授 2023年7月に急逝)でした。立岩さんは非障害者ですけれども、障害学の泰斗として彼も障害者世界の重要人物リストに名を連ねる方でしょう。
ちなみに、横塚も横田も、脳性麻痺者の親睦団体であった青い芝の会、その横浜支部のメンバーでした。彼らが「障害者の子どもは母親に殺されても仕方がない存在なのか?」と問わなかったら、あるいは「俺たちも公共バスに乗る権利があるはずだ!」と主張して川崎バス闘争を起こさなかったら、さてバリアフリー整備は今ほど進んでいたのか? 彼らのずっと後から中途障害者として障害者世界に参入した私にとっては、彼らは私の生活の質に直結するより障害者/弱者/少数者に優しい環境を作り出してくれた、まさに尊敬すべき、そして感謝すべき人たちです。
日本だけに限っても障害者世界の偉人はまだまだいる。そして、先日80歳で永眠された中西正司さんも間違いなく偉人リストに加わる人です。
【訃報】代表の中西が2025年3月26日(水)に永眠致しました | NPO法人自立生活センター日野|Cilひのホームページ
「俺はこんなことをするために生きているんじゃない!」
私自身は、中西さんと直接にお会いしたり交流したりする機会はありませんでした。もちろん中西さんは私のことを知りはしない。さらに書けば、中途障害を得た50歳になる以前に私は中西さんのことをまったく知らないでいたのです。
けれども、障害者世界に来てしまえば、そしてそこで数年も過ごせば、中西さんのことはどうしたってアンテナに引っかかってくるのです。
私の記憶に中西さんが深く刻みつけられたのは、彼のドキュメンタリー番組をインターネットで視聴する機会があったからでした。その画像に映る中西さんは、そこそこ高齢でかなり重度の障害があることは、その車イスに身体を傾げたような姿勢で座るその姿からすぐに伝わってきました。そして、彼自身の言葉で、彼の半生が語られていったのです。
20歳のときに交通事故で頚椎損傷を負い重度の障害を持った中西さんは、その介護が家族には負担となってしまったため介護施設に送られる。その介護施設でのこと。
朝起きると、パジャマを脱いで着替えなければならない。ボタン付きのパジャマを脱ぎ、そしてボタン付きのシャツを着る。手指が不自由な中西さんにとって、いくつものボタンをはずし、またいくつものボタンをはめるという動作は、とても時間のかかることだった。そして、その施設では“訓練”の名のもとにその脱衣着衣を中西さん自身が介助無しで行うことが毎朝強要されたのです。中西さんは毎朝のボタン着脱に2時間がかかったという。
「自分のことはちゃんと自分でするしなくちゃね!」と担当の介護士が20歳を超えたばかりの中西青年に諭すように言う。そして2時間かけてようやくシャツを着る。「ほーら、やればできたじゃない」と幼児を誉めるように言う介護士。そして……。「じゃぁもう一回やってみよう」、そういうと介護士はせっかくはめたボタンをあっという間に外してしまうと、さぁもう一度、今度はもっと早くやりなさい、と言ったのだというのです。
もし介護士が手伝ってくれれば5分で済むボタンの付け外し。それだけで過ぎていく2時間、さらに繰り返される“訓練”。(ボタン無しの服を着ればいい、という選択肢があるこの世の中で、中西さんが体験したような一種の虐待、今では完全になくなっているだろうか? ちょっと心配な気持ちになる……)
中西青年の絶望を想像すると、私自身の指先も、そして心も、冷え冷えとしていくではないですか。「こんなことをするために生きているんじゃない!」中西青年は心から思った。そして、それが彼の自立生活運動の原点だったのです。
中西さんが切り開いた障害者の自立生活という考え方を学んだ青年たち(障害者)がカンボジアにもいます!
そう、中西さんは重度の身体障害を持つ人たちの自立生活運動の先駆者なのです。彼が仲間らと1986年に立ち上げた自立生活センター・ヒューマンケア協会こそが、日本初の自立生活支援機関でした。
彼らの運動は、もともとは米国の障害者たちが切り開いたものでした。中西さんたちはそんな運動が米国にあることを知り、米国まで出かけて自分たちでそれを学んだ。そして、自分たちの自立のために、日本で組織作りからやったのです。
特筆すべきは、彼らは自治体を巻き込んでそれを実現していった。前例がないという行政の厚い壁をひとつひとつ乗り越えていったそのことが、今日の多くの障害者福祉につながっているのです。
中西さんたちが切り開いた日本での障害者自立運動は、今ではアジアを中心に世界各地の障害者に影響を与え続けています。
たとえばカンボジアでも、日本に研修に出かけ中西さんたちの薫陶を受けた障害者が何人もいる。カンボジアの社会状況を考えると、障害者の自立生活の実現は日本以上に厳しいことが多いのですけれど、少ないながら自立生活を目指し実施する障害者がいるのです。
中西さんの教え子は、カンボジアだけではなく、まさに世界中に広がっています(蛇足ですけれど、私の知るところでは、中西さんのように日本から海外に出かけて学ぶ障害者、さらには海外から日本に来て学ぶ障害者の支援では、ミスタードーナッツを営業していることで知られる株式会社ダスキンによる「公益財団法人 ダスキン愛の輪基金」がとっても重要な役割を果たしています)。
中西さんから直接指導を受けたあるカンボジアの車イス者は、中西さんが彼ら研修生を自宅に招いて歓待されたときのことを楽しそうに私に話してくれました。
「中西さんはとってもおっかなそうで、すっごく緊張しました。だから、せっかくの御馳走の味もよく覚えていないのです」
うんうん、たしかにぱっと見た感じ、中西さんはちょっと怖そうなおじいさんだものなぁ。そうかぁ、すっごく緊張したのかぁ、ふふふふ、わかるよぉ、その気持ち。
善意を身にまとった者の「よかれと思って」の怖さ
私には中西さんが語るボタン訓練の恨みが、とっても印象的なのです。そして、この話を聞いてすぐに思い出すことが私にはある。
大学を卒業後、私は高校野球の監督という“仕事”を選んだのです。けれども、東京都立の高校でのクラブ指導員に支払われたのは、月1万円の手当だけ。それじゃ食べていけない私は、小さな私塾でアルバイトもやっていました。そのときのこと。
中学3年生を指導していた際に、計算がとっても苦手なKという生徒と出会いました。私は彼に連日のように居残り学習を強いて、計算練習をさせたのです。今思えば、彼はおそらく数的処理に関して学習障害があったのだと思います。けれども、当時、たいした教育的知識・経験のない私は、熱意だけで、そしてよかれと思って、Kに基礎的な計算練習を強要したのです。通常授業が終わるのが午後9時。その後の居残りで、彼は連日、帰宅は午後11時になっていました。
居残り学習、私は無給です。でもそれも熱意で、むしろ良い行為だと私は信じていた。あーぁ、若いって怖いよ(えーと、ここはあくまで当社比、です)。K、本当にすまないことをしました。心から謝罪します。
このKへの間違った指導の過ちについて、その後、本格的に教育にかかわってから早い段階で私は気づいたはずです。ですから、中西さんのことを知る以前から、Kに計算練習を強いたことを思い出すたびに悔いていました。
でも、中西さんが語るボタン訓練は、嫌でも私にKのことを改めて思い出させたのです。中西さんにボタン訓練を強要した介護士、それが私でした。無知の善意が他者に災いをもたらす。やられた側、中西さんやK、にとっては大迷惑だ。でも、それをする介護者、私、は指導する側という権力の鎧で守られていた。しかも熱意の表れという極めて迷惑な正当化もなされていた。あー、ひどいよなぁ。本当にひどいよ。
心から悔います。そして、同じ間違いを繰り返さないと、誓う。いや、誓ったってダメなんだよね。だって私は知らないこといくらでもある。だから、やっぱり学び続けなければいけない。せめて学び続けると誓うことができるだけなんです。その学びすら、間違ったことを学んでしまう危険性もあるわけで。
でも、他者への敬い、そこがせめてあれば……。あのとき私はKを見下していたんだと思いますよ。「こんな簡単な計算もできない」と彼のことを軽く見ていた。だからあんな無意味で拷問のようなことをKに強いることができたのです(Kは、明るく愛嬌がある少年で、私が強いた延長時間が陰湿な雰囲気にならなかったのは、まったく彼の天真爛漫さによってのことでした)。そして、私の傲慢さは、今だってその根っこは私の中に巣食っているに違いないのです。そんな根っこからまた芽が出たりしないように、自分の“無知”と“善意”には常に厳しい視線を向けなければいけないと、いつも思うのです。
「精神の開放」
中西さんが障害者の自立生活を考えるうえで、常に大事にしていたのが「精神が解放される」ということでした。
それは、教育も同じ、って思う。生徒たちが、自らの「精神を解放する」。そのための安全で安心できる場所・場面が教育にはぜったい必要だと、これまで教育の隅っこにかかわってきたものとして、強く思うのです。
あぁ、「精神の開放」が大事ということに関しては、障害者も非障害者も違いはない。中西さんの教えは、誰にでも通用する汎用力があるモノなのだよ、と改めて思うのです。
中西さん、いや中西先輩、あなたの唱える価値観と切り開いてきた道を知り、さらにあなたの教え子にカンボジアで知り合う機会があったこと、私にはとっても幸運でした。中西先輩、ほんとうにどうもありがとうございました。

インターネットの画像検索で出てきた中西正司さんの近影

















今日配送になったiMacがネットで繋がり最初に読んだのがこの記事でした。村山さんが書かれた中西さんの”精神の解放”、私も村山さんのような事を若い時にいっぱいやっちまった気がします。心して残りの人生を生きたいと思います。
匿名様 いつも読んでいただきありがとうございます。
新しいiMac、最初に読んだのが私の記事であれば、そのiMac、最初に厄落としできてきっと末永く頑張ってくれるだろうと思います、多分、知らんけど。
無知と善意の……、はい、本当に怖いことです。昨夜寝ながら、そうか、ポルポト政権も無知と善意の極北の事例だったのだなと思い至りました。
政治や起業、最近は若い方がもてはやされる傾向が日本ではあるようにも感じますけれど、そこにちょっと怖さも感じます。まぁ、年を喰っているからといって、さて??とは自分を見ていて思いますけれども。とにかく、自分を疑う、まずそこからだろうなぁ。