戦争を知らない子どもたち? 戦争を伝えない大人たち? 戦争はずーっとあったのに。ずーっとあり続けているのに。

映画『鬼が来た』のポスター。ぼくがこの映画を海外で見ていると思う。もしかしたら、香港で、かも。

戦争体験って?

 「ぼくには戦争体験はないけれど」というフレーズをある記事で見つけました。私よりは少し若い世代の日本の方が書いた文章みたい。

 さて、戦争体験って、どうなると体験でしょうか? 

 響き渡るマシンガンの音の中、逃げ惑う? 近くに落ちた爆弾の地響きを身をすくめて感じる? あるいは、直接武器を取って、操って、戦う? 戦争に向かう軍艦や戦闘機に給油する? 戦場から運び込まれてくる負傷者を治療する? 戦場から運び込まれてくる負傷者にレンズを向ける? 戦場で怪我をした負傷者を運ぶ救急車を運転する? 突然ドアが叩かれて、踏み込んできた人たちに父がどこかへ連れ去られる? 学校が戦争のせいで閉まる? 昨日まで食べていたオレンジが市場から消える? 配給の米をもらうための列に並んだことがある? 出兵する兵士を送る人たちの列をアパートの窓から見下ろしたことがある? 戦死した兵士の葬列のざわめきを道の片隅で見送った? 慰安袋を国のために戦う兵士に送った? 都会から疎開してきた同級生をいじめたことがある? 疎開先で地元の子どもたちに虐められた? 戦士が履くための靴を作っていた? 戦士が撃つであろうマシンガンの弾丸を磨く? 母が撃たれた? この足の傷跡を見てくれ? この勲章を見てくれ? 止まらぬ手の震え?  

 広島や長崎に原爆が落とされた1945(昭和20)年から8年前の1937(昭和12年)の7月7日七夕まつりの日、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍との間で突発的な銃撃戦があり日中戦争が宣戦布告ないままに始まった。その5ヶ月後の12月7日、職業野球日本シリーズは東京後楽園で第6戦が行われ、阪神タイガースが読売ジャイアンツを倒し、4勝2敗で日本一の座につく。その6日後、12月13日には中国の首都南京市城内全域が日本軍によって陥落し、12月17日には日本軍による南京入場式が敢行されている。この南京陥落の報を受けて、それを祝う提灯行列が日本各地で催され、「日本勝った日本勝った、また勝った♪ 支那のチャンコロまた負けた♪」(教科書ではわからない本当の歴史 アジア太平洋戦争の真実 南京陥落を祝う提灯(ちょうちん)行列 (fc2.com))と人々は歌ったそうだ。
 さて、1937年12月、日本一を喜んだ阪神タイガースファンは、同時に戦争も体験していのだろうか? 両チームの選手たちはどうだろう? 南京陥落を喜び、歌いながら提灯を掲げて歩いた人たちは戦争を体験したのだろうか?
 もちろん、彼らはこのとき戦場体験はしていない人がほとんどだったろう(阪神タイガースの4番打者景浦将や読売ジャイアンツのエース沢村栄治はその後に徴兵され、景浦はフィリピンで、沢村は屋久島沖で、戦死している。景浦は享年29才、沢村は24才)。それでも日本軍の戦勝にわきかえった経験は、戦争体験と呼んでも間違いではないようにぼくは思う。後楽園球場に集ったタイガースファンは、その日の勝敗に一喜一憂しつつ「南京、どないなっとりまっかな?」ぐらいの話題はきっとみんな口にしただろう。兄弟や知り合いが出征していた人も後楽園のスタンドには何人もいただろう。そして、同じ12月7日、上海から南京に向かう道の上で、あるいは南京城内外で、中国の人が殺され犯されていた。もちろん、命を落とした日本軍人もいただろう。
 そんなふうに、戦争は戦場だけの出来事ではないと思うから。

戦争を知らない子どもたち、のままで居続けるのは怠慢? 

 『戦争を知らない子供たち』北山修作詞、杉田二郎作曲、1970(昭和45)年に発表された歌、知らない方はこちら→(杉田二郎 戦争を知らない子供たち 歌詞&動画視聴 – 歌ネット (uta-net.com))。ぼくは6才で、その後も含めて、この歌は何度も聞いている。そして、漠然とだけれど自分もこの歌詞にある「戦争を知らない子供たち」のひとりだと思っていた。1970年はベトナム戦争が激しいときで、連日、新聞にはベトナム戦争関連のニュースがどこかには載っていたはずだ。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)というグループが日本にあって、米軍の脱走兵を保護してスウェーデンなどの中立国に亡命する手引をしていたような時代だ。ベトナム戦争の報道写真も多く出版されていた。

 その後、ぼくは高校生のころ、ベトナム戦争と再遭遇する。すでに1975(昭和50)年にベトナム戦争は集結し、南北ベトナムが統一された後のことだ。本多勝一の『戦場の村』を読み、石川文洋や沢田教一、大石芳野、中村梧郎らの撮った写真を見、文章を読み、開高健の『輝ける闇』のページをめくった。一ノ瀬泰造のことも知り、彼が消えたアンコールワットを思った。

 ベトナム戦争で開けた世の中は、実は当時も戦争だらけだった。レバノン内戦(1970~1990)、ナミビア独立戦争(1975~1989)、アンゴラ内戦(1975~2002)、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979~1989)、カンボジアのポルポト時代(1975~1979)とその後の内戦(1979~1998)、中越戦争(1979)、ニカラグア内戦(1979~1990)、エルサルバドル内戦(1980~1992)、イラン・イラク戦争(1980~1988)、フォークランド紛争(1982)、スリランカ内戦(1982~2009)、他にもまだ有るけれど、書ききれない。
 1990年代に入ってソビエト連邦が崩壊して東西冷戦が終わっても戦争は終わらない。ユーゴスラビア紛争(1991~2000)、エリトリア独立戦争(エチオピア内戦 1991)、ソマリア内戦(1991~今も)、ルワンダ大虐殺(1994)、イエメン内戦(1991~今も)、チェチェン第一次戦争(1994~1996)、コンゴ戦争(アフリカ大戦、1996~2002)、東ティモール独立紛争(1999~2002)…、他にもあるけれど、書ききれない。
 2000年以降も戦争は続く。(以下、この段落は略)。

 ぼくよりも12才年上の写真家の長倉洋海が伝えてくれた写真で、その後もぼくはエルサルバドルやアフガニスタン、コソボなど戦争とその背後の人たちの生活を見続けてきた。さらには、映画がある。今思い出すいくつかだけ書いてみる(年数は、製作年、あるいは公開年)。
 ユーゴスラビア内戦を描いた『アンダーグラウンド』(1995)、『ビフォザレイン』(1994)、『ブコバルに手紙は届かない』(1994)、『ノーマンズランド』(2001)、ルワンダなら『ホテルルワンダ』(2004)と『シューティングドッグス(邦題ルワンダの涙)』(2005)、カンボジアなら『キリングフィールド』(1984)、『地雷を踏んだらサヨウナラ』(1999)、最近ならアンジェリーナジェリーが監督して話題になった『最初に父が殺された』(2017)、さらにベトナム戦争の『プラトーン』(1986)、『グットモーニングベトナム』(1988)。アフガニスタン戦争なら『アメリカンスナイパー』(2014)、イラク戦争なら『ルートアイリッシュ』(2010)などなど、などなど、などなど。
 戦争映画なら、題材が古いものもいくらでもある。日中太平洋戦争、第2次世界大戦を描いた映画なら数知れない。その中でも『硫黄島からの手紙』(2006)、『プライベートライアン』(1998)、『シンドラーのリスト』(1993)、『戦場のピアニスト』(2003)、『ライフイズビューティフル』(1997)、『火垂るの墓』(1988)、『鬼が来た!』(2000)、『蟻の兵隊』(2006)、『ゆきゆきて、神軍』(1987)、『この世界の片隅に』(2016)……………。さらには、アイルランド紛争を描いた『麦の穂をゆらす風』(2006)、パレスチナ紛争を描いた『パラダイスナウ』(2005)、スペイン内戦『蝶の舌』(1999)、『大地と自由』(1995)、エルサルバドル内戦の『サルバドル/遥かなる日々』(1986)……。

 きっと書き忘れた映画もありますし、見損ねているすごい映画も数知れずのはず。

 とにかく書きたいのは、そう、どんだけ映画を見ても、写真を見ても、本を読んでも「戦場体験」をしたことにはならない。けれども、戦場体験がないからと云って、かんたんに「ぼくは戦争を知らない」とも言えないんじゃないだろうか? ぼくが読んだ本も、見た写真も映画も、みんな単なる幻ではない。『プライベートライアン』や『シンドラーのリスト』を見た後で、「あれはちょっとした作り物だったね」と言えたら、スピルバーグは映画チケット代ぐらいは返してくれるだろう。さもなければ、烈火のごとく怒るかだ。

 今日もパレスチナのガザ地区ではイスラエルからの爆弾が落ちていて、イスラエルにはガザ地区からの(小さな)ロケット砲が打ち込まれ、TOKYO 2021オリンピックの閉会式があった8月8日の新聞には米軍撤退後のアフガニスタンでタリバン勢力がいくつかの州都を占領したという記事が載る(オリンピック中の紛争休戦という文句の虚しさよ)。確かに、そういう戦場にぼくはいるわけではありません。でも、だから「戦争を知らない」というのは、もう怠慢でしかないんじゃないだろうか? 特にインターネットがこれだけ発達して、小さなスマートフォンでも映像が撮れ、そんな映像が世界中で見られる時代に、「戦争を知らない」って、やっぱりあり得ない。そこそこインターネットにアプローチする技術があって、機材があって、大人であれば、戦争とまったくかすらないってことはないんじゃないのかな。そりゃ、『宇宙戦艦ヤマト』や『ガンダム』(古いか!今なら『鬼滅の刃』か、『るろうに剣心』か?)を見て戦争を知っていると言われたら、それはそれで困るような気はするけれど。

 じゃ、まだ大人にならない子どもたちは? でも子どもたちも、ずっと子どもじゃない。いつかは大人になる。
 だから大人の知らないところで、彼らはエッチ映画も見れば、そしてやっぱり戦争映画も見たりするんじゃないかな。そして、あとはそんなエッチや戦争を、どうやって自分の中に取り込んでいくかなんじゃないでしょうか? 違うかな? 

知らぬ存ぜぬは許しません

 確かに、戦争って一種の刺激物で。辛いものに中毒性があるように、戦争のような刺激物に惹かれてしまうような時期ってあるのかも知れない。たとえば、ぼくが高校生のころ、ベトナム戦争に興味を持ち、戦場カメラマンの撮る写真に惹かれていたのは、そういう面もきっとあった。『ゆきゆきて、神軍』に震えたのは、戦争現場、殺戮の現場の生き残りである奥崎謙三(この映画はパプアニューギニアの数少ない日本軍生き残り奥崎氏をめぐるドキュメンタリー)の訳のわからない情念が、通常の世界に生きている者にとっては見てはいけない種類のモノだったからだと今は思う。つまりは「怖いもの見たさ」だった。

 けして数は多くはないけれど、今の時代にも日本に生まれてなぜか傭兵(お金で雇われて戦争をする戦闘プロフェッショナル)になってしまったような人もいるらしい。きっと彼らも、最初は怖いものみたさで始まった、危険という刺激物の中毒患者だろう。最初の小さな一歩は、きっと高校生のころのぼくとそれほど大きな変わりはなかったんじゃないだろうか。

 だから、戦争を知るっていうのは、きっと劇薬でもある。下手をすれば、戦争を止められない世界に対して無気力になってしまう人もいるだろう。そして、より激辛・極辛を求めて傭兵になってしまうような馬鹿者もいる。でも、大多数の人たちは、そして子どもたちも、戦争を知れば「これは何かがおかしい」と思うんじゃないだろうか? 「こんなことは無駄である」と多くの人は思ってくれると、ぼくはまだ信じている。100%がそう思ってくれるのではないことは仕方ない。多様性を大事にするのが今の世の中だしね。でも、大多数の人にとって、戦争のバカバカしさ、けれどもそれが続いているより一層のバカバカしさを知ることは、この世界を理解し、そして今とは違う未来を作るためには、無駄ではないはずだ。

 そして戦争を知るためには、けして戦場に立つ必要はない。できるだけ実情に近い情報を得て、読んで、見て、聞いて、その上で精一杯の想像力を発揮すれば、戦争を知ることは、すくなくとも「知らない」と云わずにすむ程度に知ることは、可能だとぼくは思う。もちろん、それを嘲笑う人もいるだろう。特に傭兵になりそこねたような人は、「戦争に行ったこともないくせに!」と嗤うだろう。でもね、行ったら終わりなんだよ。帰ってこれないかもしれないんだから。人を殺しちゃうかもしれないんだから。だから、戦争に行かずに、でも戦争を知ったほうがいいとぼくは思うのです。
 少なくとも、「戦争に行かずに、戦争を知る」技術を持っている人が、それをしないのは、やっぱり怠慢じゃないかなぁ。だって、どうやら世界はいつでも戦時中なんだから。

 そういえば、『ゆきゆきて、神軍』のキャッチコピーは、「知らぬ存ぜぬは許しません」だった。なるほどなぁ。そうだよなぁ。そう言いたくなる気持ち、わかるなぁ。

2件のコメント

『ゆきゆきて、神軍』。懐かしいですね。横井庄一氏がその数年前に発見されたりして、まだまだ「戦争」が近くにありました。この当時だと、敗戦だって30年くらいまえのことですものね。1976年に出版された奥崎氏の「宇宙人の聖書!?」を生協で注文したら,20冊ほど送ってきたのよ、と生協のおばちゃんに言われたのを思い出しました。

間々田和彦様

いつもコメントありがとうございます。
『ゆきゆきて、神軍』インパクト強かったですね。私は渋谷の小さな映画館で見たような記憶があります。そして、その小さな映画館はほぼ満席だったことも、覚えています。
「宇宙人の聖書!!?」までは手が出てなかったなぁ。当時のぼくは、奥崎謙三よりも、むしろ映画を撮った原一男さんのほうに興味がありました。そして、ドキュメンタリーという手法に引かれていったのでした。

今は、改めて「殺した人たち」のその後の生き方を考えます。その気持を、想像して、身震いします。

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです