途上国目線で見た、日本の学校、あるある不思議。  超多忙な学校現場を救う方法はあるのか? それは次世代の子どもたちを救うことでもあるんじゃないかな。

1991年、ケニア・クウィセロ中学校の教室で。途上国での教育支援にかかわった私の原点です。

朝から夕まで、日本ではそんなに長く学校にいるの???!!!

 1995(平成7)年に、パラグアイを訪ねたことがあった。アルゼンチンとの国境を流れるパラナ川を渡ってたどりついたピラールという南部の町に滞在中に、町に一校ある公立高校を訪問した。そこで対面した生徒のひとりが日本の高校生活について質問があったので、私自身の高校時代について話をした。

「朝は早いときは午前7時ごろに登校して、まず野球部の朝練習に参加しました。8時過ぎから午前中に4コマ、昼はお弁当を食べて午後にも2コマ。午後3時に授業が終わると、そのあと午後6時過ぎまでまた野球部に練習でした」(高校野球の強豪校からすれば、これでも少ない練習時間なのですけれど、公立校としてはこれが精一杯だったのです)

 私の話を聞いたパラグアイの高校生たちの第一声は、「そんな長い時間学校にいるなんて、信じられなーい!」でした。その高校は2部制で、彼らは、ほとんどの日は、午前か午後かの半日しか学校にいません。お昼も自宅に帰って食べる(あるいはお昼を食べてから登校する)。日本の高校のような長時間のクラブ活動もありません。だから、朝から夕方遅くまでずっと学校で過ごす日本の一般的な高校生活スタイルがとても奇異に感じられたようなのです。

 ピラールの町に滞在中、郊外にある小学校を訪ねたこともありました。街道に面した場所にポツンと小さな校舎が1つだけある小学校には、学校からの景色では確認できませんけれど、やはり一軒一軒がポツンポツンと離れて存在している農家から、子どもたちが徒歩で、あるいは馬に乗って通ってきていました。私がその学校に到着したのは、ちょうど授業が終わったところで、学校から四方八方に散り散りになって帰宅する子どもたちの姿が街道から見えました。
 先生は学校に隣接した家で家族連れで暮らしています。確か教室も二つだけの小さな学校で、子どもたちは複式学級(多学年がひとつの教室で学ぶスタイル)で学んでいるのでした。すでに鍵をかけた戸をあけて見せてくれた教室には、10組ほどの机と椅子が並んでいました。教卓には先生用の机と椅子、さらにオルガンも並んでいました。職員室などもちろんありません。

 きっと一昔前の日本にも、こんな山の学校があったのだろうなぁと思いながら、見学させてもらった覚えがあります。

ネックレスやピアス・イヤリング当たり前じゃないのは、日本だけ

 途上国の学校教育の質向上を支援するという仕事がら、これまで多くの国の学校を訪問してきました。パラグアイだけではなく、ケニア、タイ、ネパール、スリランカ、フィリピン、ベトナム、カンボジア、フィジー、ヨルダン、ルワンダ……。そうやって途上国の学校から見ると、日本の学校ならでは光景に気がつくことがあります。

 まず気づくのは、ほとんどの国で女生徒は貴金属を身につけていることです。特に金のネックレスやピアス/イヤリングは、むしろつけているケースのほうが多い場所もあるように思います。日本の学校では、逆に貴金属を身に着けた女生徒は見かけることはまずありません。日本では、禁止されているからです。さて、それなら、なぜ禁止されているのだろう。
 「失くなったら困る」「持てないものがやっかむ」「勉強には必要ない」、想像するにそんな理由でしょうか?ならば途上国の学校で、もし持ってきた貴金属が失くなったらどうなるのでしょう? まず、多くの途上国では学校で着替えるということはありません。体育があっても、制服のままやることが多いのです。あるいは、体育という科目が未整備の国も少なくありません。だから「失くす」というのは、「落とす」可能性が高いのです。もし落として失くしたら、それは失くした者の責任となるのだと思われます。学校の管理責任が問われるケースは、ほとんどないんじゃないかな。
 「やっかみ」という問題はどうでしょう? 貧富の差というのは、たしかに悲しい現実です。でも学校の中だけ見せかけの平等を形作っても、この格差の問題が解決するわけでもない。場合によっては、文房具の有無、教科書の有無すら教室内では顕在化します。だから、ことさら見せかけの平等にこだわらない社会が多いんじゃないかと感じます。もしあの娘のイヤリングがとってもお洒落で高価だとしても、仕方がないと考えるのだろうと思います。もちろん、日本のように教育現場に格差を持ち込まないようにする対応が悪いわけでもないのでしょう。けれど、それでも格差は隠し通せないのも現実ではないんじゃないかな。
 「勉強に必要ない」、だけどそれがどうした?と考えることもできます。大人の職場では、仕事の内容に関係なくても、必要がなくても、アクセサリーを身につける人は普通にいる。お化粧だって、そう。「勉強に必要ない」から身につけてはいけないと、特に考える必要もない。お化粧だって特に問題なし。そんな価値観が普通であれば、ことさら貴金属の着用を禁止する必要もないのです。

先生と生徒が一緒に帰宅する姿が見られないのも、日本だけ?

 さらにいつも違いを感じるのは、登下校時です。多くの国では、生徒と先生は、ほぼ同じ時間に登校し、そして下校します。日本では、多くの場合、先生は生徒よりも早く登校し、そして生徒よりも遅く下校するはずです。生徒が帰った学校で、先生が長く残って仕事をするというのは、日本の学校独特の光景です。日本でなら、今の時期、夕闇沈んだ時間になっても学校の職員室には煌々と灯が灯っていますよね。ああいう景色は、途上国ではまず見ることはありません。多くの学校で、生徒と先生は並んで学校を後にするのです。

 最近、朝日新聞のインターネットページで『いま先生は』という全5回の連載記事が掲載されました。タイトルを列挙すると、第一回『11時間休憩なし、ぶっつけ授業も 夕暮れの職員室で思う理想と現実』、第二回『ぬぐえぬ疑問、とまらない涙 事務作業にコロナ…追い詰められる教員』、第三回『何でも対応…「私たちはコンビニ」 気持ちの糸が切れた保護者の一言』、第四回『授業を工夫したら「隣のクラスと差がつく」 熱血教員は学校を去った』、第五回『際限なく仕事が広がる学校現場 専門家が指摘するいくつもの「不備」、と続きます。

 端的に書けば、先生たちは忙しすぎ、ということです。中には、読んでいて胸が痛くなるような内容もふくまれます。授業の準備に割く時間がない。精神的にも追い詰められている先生たち。保護者からは便利屋かのようにあつかわれたり。授業の工夫を評価してもらえず、やりがいを感じられない職場。
 友人にも教員がいます。彼女がときどきつぶやくSNSからも、日本の学校の先生方が、ものすごい多忙なのが伝わってきます。しかも、中にはどうも本質的ではないことに消耗させられている感じがする。時間ばかりかかるデータ入力など、アシスタントでもいれば先生が自ら行う必要もないんじゃないかと感じます。でも、そんな余裕のある人員配置はなされていない。

 おそらく昨年から続く新型コロナ禍で、また仕事が増えているんじゃないか。そして、そうやって増えた仕事は、新型コロナ禍が収束に向かっても簡単には減らない、なくならない。日本での教員経験の長い方と働いた経験のあるカンボジアのある人が、その日本の方の仕事ぶりを「仕事を増やしても、その分、他の仕事を減らすことをしない」と表現していたことを思い出します。それが日本の教員のスタイル?常識?

 さらに、悲しいのは、上記の連載第五回です。文部科学相の諮問機関の重職を歴任したとある大学の名誉教授が日本の教員の多忙を分析しているのですけれど、つまり、それが問題だと認識されているのにほとんどまったく何も変わっていないということなのです。もちろん、それには、それなり、あれなり、たくさん理由はあるようです。でも、結局、根本的な解決策が見いだせない。そして何も変わらない。

 学校教育というのは、すべての国家で、もっとも大きな公的サービス部門です。教師というのは、もっとも大きな公務員集団なのです。しかも、都市から地方、僻地まで、全国津々浦々に広がる組織です。だからなのか、硬直して変化を起こしにくいシステム、体制のように思える。旧態依然で、大きな改革が進まない組織。それが学校教育システムなんじゃないでしょうか。まるで大きくなりすぎた身体を持て余して絶滅を待つ恐竜のような組織、それが現代の公教育制度なのではないでしょうか?

本格的な学校教育制度の解体の提言!!!

 経済協力開発機構(OECD)が2018(平成30)年度に実施した国際教員指導環境調査(TALIS)では、日本の教員が仕事をしている時間は小学校が週54・4時間、中学校は56・0時間で、いずれも参加した先進国で最長だったそうです。おそらくこの時間数以上に働いている先生が多いはずです。特に最近は個人データ管理上の問題から、自宅で仕事をすることが難しくなっていて、だから週末祝日も職場に出る教員が増えていると聞きます。そして、多くの場合、その週末祝日の勤労時間が、このような調査には含まれていないからです。

 この調査からわかるように、途上国目線だけでなく、他の先進国と比較しても日本の先生の勤務時間は長い。そして、それでも多くの先生が、学校の根幹である授業の準備時間が足りないと嘆いている。これはいったいどういうことなのでしょう。

 途上国で先生の応援をする際によく問題になるのは、この授業準備にかける時間についての考え方の違いです。たとえば、私が支援する理科教育では、予備実験という言葉があります。授業で生徒に実験をさせる前には、必ずしなければいけないと新米教員が教えられるのが予備実験です。
 実験器具が予定通りのきちんと働くのか確かめる。時間だって、指導書に書いてあるとおりに進むとは限らないわけで、そこもしっかり自分でやってみて確認する。1時間の授業であれば、倍の2時間は授業準備にかかるものです(それでも同じ学年のクラスをいくつも持っていれば、この効率は上がるわけですけれど)。けれど、多くの途上国では予備実験を取り入れようとしても難しい。だって、先生たちは生徒と一緒に登校し、下校するのですから。そして、これは小学校の場合です。中学や高校になれば、自分の授業をするときだけ学校に行くというケースも多いのです。さらに、多くの先生が同じ学年を何年も続けて教えます。ですから、毎年教える内容は同じ。自分のノートに一度授業案を作ってしまえば、もうあとは何年も同じ授業案を使いまわしするのです。それが普通になれば、それこそ本当に授業の時間しか働かなくてもOKになります。宿題の採点なども、授業中に行ってしまうのです。
 それに対して一般的に日本の先生の授業準備への意識は高い。理科であれば、予備実験をしなければいけないという意識も高いのが「一般的」でした(予備実験の習慣がない途上国の先生に、実験器具を送ったり、リサイクル教材での実験を指導しても、なかなかうまく浸透しないという話もしたいのですけれど、またそれは別の話)。でも、先の新聞記事などを読むと、もしかしたら日本でも最近は少し状況が変わっているのかもしれません。意識は高くても、でもやる時間がない、のかもしれない。そして、それが普通になりつつあるのかもしれません。

 海外から日本に「先生の仕事環境を改善するアドバイザー」が派遣されるのを検討しなくちゃいけないんじゃないかな。もはや、そういう日本への援助が必要なレベルじゃないですかね?つまり、日本だけで、今の日本の先生の働き方改革を実施するのは無理なんじゃないだろうか。
 これ、学校だけの問題じゃないと思います。社会の問題。社会がこの異常な状況を放置している、あるいは増長しているんじゃないかな。多くの人たちは、学校に、先生に期待しすぎだと私は思っています。

 思い切って学校教育は本格的に解体していいんじゃないだろうか? 学校に通ってまで実施したほうがいいのは、もはやある種の集団コミュニケーションのトレーニングだけ、それでいいんじゃないでしょうか? 集団コミュニケーションの経験、たとえば喧嘩する体験とか、こればかりは、自宅だけで練習するのはむずかしい。学校は、リクリエーションの場、遊びの場、として生き残りを図ればいい。この中には、生徒たち自身の調べ学習なども含みます。もちろん、集団活動が難しい生徒への配慮は必要として、ね。

 勉強? それはむしろ個々のアレンジを可能にするのが理想と思います。たとえば次のようなアイデアはどうでしょう。
 文科省はカリキュラムに則った標準授業をすべての児童を対象にオンライン配信します。各地域は、この授業の補修を独自に展開する。さらに、個々の先生たちが各自で授業展開してもよい。これは学校の教室を使ってもいいし、オンラインでも可能。生徒はこれらの授業に選択的に参加して、単位を取得していく。
 小学校の中学年までに、このシステムの使い方を十分に指導すれば、親の助けがそれほどなくても子どもたち自身でカリキュラムに沿って自分のコースを作ることは可能になると思います。もちろん、生徒へのアドバイスを行うコンシェルジュ(総合案内人)は充実させなくてはいけません。
 つまり、子どもたちは自分の学びを自分でデザインする能力をまず身につける必要があり、小学生学年の前半では、この能力開発を中心に行います。この段階では、学校に登校する必要もあるでしょう。でも、中学レベルでは、学校は集団レクリエーションのプログラムに参加するために行く場所です(学校の教室で行われる授業を選択すれば、その授業のために学校を使うのは可能です)。それ以外の勉強は、基本的にインターネットを通じて自宅等、好きな場所から参加すればいい。必要単位を取得すれば、当然飛び級も可能ですし、数年延長しての進級・卒業もOK。小学校は6年、中学校は3年という枠は取っ払ってしまう。

 学校というのは、歴史的に見ても、どうしたって「選択機能」の役割を持っています。勉強のできる子はいい大学に進み、その中から優秀な公務員(この方々は、その社会の大事な財産です)になる人たちも生産する。そういう面は、どんな公教育制度を構築してもけっしてなくならないと思います。そして、そういう機能を公教育が果たすのは、私たちの社会が安定して回っていくためには必要でもある。
 ですから、新しい教育システムでも、エリートコースというのはどうしたって生まれるでしょう。それはそれでいい。でも、それ以外の選択も充実させたいわけです。そこに需要があれば、それに応えようとする先生はきっといて、そのための授業展開が可能になり、そして、それを選択する生徒たちが生まれる。自分で求めるのであれば、勉強もスポーツもというアレンジももちろん可能ですし、勉強重視でも、スポーツ重視でも、どっちも可能とすればいい。 
 どうでしょう、こういうスタイル。技術的にはもはや十分可能だと思うんですよね。

 実際には、現在の学校システムの解体にはものすごいエネルギーが必要なのは間違いないです。それに対応する現場も大変だとは思います。でも、そうしないでボチボチの変化でお茶を濁しても、学校教育で先生が疲労していく現状を根本的に変えることはむずかしいと思うんだけれどなぁ。
 ガラガラポンッって、思い切ってやってみませんかねぇ。大事なポイントは、子どもが自分たちで自分の学びをデザインするってところだと思うんですけどね。そして、親が子どもに無関心であろうと、それでも子どもが自分で自分の学びを作れるように公は支援する。もちろん、子ども以前に、親が我が子の教育をデザインしちゃうケースもなくならないでしょう。それはそれで、まぁ仕方がない面もあると思うし。
 障害者の学びはどうするか。これも基本的には同じです。車イス者である子どもは、おそらくスポーツエキスパート養成のコースは選ばない。そのかわり、障害者スポーツの選択はなくちゃいけない。知的障害や精神障害向けの選択肢も、もちろん準備されなくちゃいけないのは当然です。そして、当事者やその支援者が授業を展開することも可能にすれば、民間が提供する授業の中に、当事者のニーズにあったコンテンツを提供する人たちが出てくるはず。極論をいえば、障害のある我が子だけのための教育コースを提供する親が出てきてもいい。そして、それに対して、公はきちんと資金を提供するシステムを作る。

 これ、無理なのかなぁ。できないのかなぁ。そんな大改革は無理とすれば、それは人間社会のシステムがもはや制度疲労を起こしているってことになっちゃうんじゃないかなぁ。まずは、どんどん例外を認めることです。例外から始めて、どんどん参入者を増やす。ぜひ取り組んで欲しいです。それとも、現行学校教育制度の勝者である文科省の役人には難しいのだろうか、勝者である自分を生み出した現行学校教育制度の抜本的改革は? どうですか、文科省の皆様???

3件のコメント

 むむむ、一気に飛びますねえ。一年生が夢と希望をもってランドセルしょって入学ってところをまずなくす、、ちょっとまってと言いたくなるけど、そこが古いのかなあ。みんなで音読とか、九九の唱和とかはしない、実験観察も実物じゃなくてオンライン?調理実習、はんだ付けも希望者のみ? 跳び箱、逆上がりのハードルがないのは学校嫌いが減ってよいか、、?
 日本の先生がとても忙しいのは、学級定員が多いのが一番の問題かなと思います。少し前に、幼稚園バスで亡くなった子供のことが話題になりました。途上国の学校ではおそらく「なになにちゃん休みね」くらいで欠席の扱いは終わると思いますが、日本だったら無断で休んでいたら家に電話して安全確認が当たり前ですから、通園バスに取り残された子に気づかなかった大人が罰せられることになります。まず、そのような安全確認の徹底が求められているにしては学級定員が多い。自治体の予算で補われているところもありますが、まだ40人学級が当たり前で、小学校がやっとあと5年くらいで全部35人学級になるのでしたっけ。25人くらいにしてほしいなあ。
 安全確認の面からも、予備実験は必須、、と思ってやってきましたし、内容だって予備実験すれば向上します。たとえば中3の花粉の発芽の観察、指導書通りにやったつもりでも、花粉つけずぎたらぐじゃぐじゃでわけわからなくなるし、買ってきた寒天粉末の個性?によっても、出る出ないは違うし、でも、「このぐらいね」と自信もって花粉落とすところを見せて、それでその通りほんとに顕微鏡で花粉から芽が出るのを見られた子供は、映像でそこを見た子より、ちょっとびっくり度というか、驚きが違うし、自然の不思議により感動してくれるのかな、、と思います。だから、予備実験の時間を取るには、教員の持ち時間数を減らす、つまり教員の定員を増やす、小学校なら専科の先生に習う時間を増やす、要するに税金を教員の人件費にもっと投入して!ということではないでしょうか、、。 

教員をしていた経験からですが。「忙しい」と教員を追いつめているのは、一番は一日が24時間であることを忘れ、5時までの仕事と割り切れないことです。私は、緊急の事はない限り、5時に学校を出ました。5時までしか、給料をもらってませんもん。同僚からは、「嫌味」をいやっというほど言われましたが、「じゃぁ、その分の給料ください」と返しました。会社だったら残業手当が出ますよね。なんで、教員だけがブラックと言われるほど学校に残らなければならないのか、不思議です。教員だって労働者です。
ただ、「まだ40人学級が当たり前」とありますが、41人になると20人+21人になりますので、(一部の極端に児童が増えた地域を除いて)全国的に見ると、35人以下が多いと思いますので、当たり前だとは思いませんけど、いかがでしょうか?

「途上国目線から」とのこと。ここ数年、開発国での教育支援について発言を求められるたびに「開発国支援をしていて、そこから何を日本へ還流するかを考える視点が必要だと思います」と答えています。今年、SNE学会の学会誌と立命館大学の論集にそれを書かせていただきました。もともとは、カンボジアで医療支援をしていた方のご意見です。この視点がない限り、いつまでも、一方向の「限りない」支援になると考えます。

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