援助現場で見た“ズレ”問題   顕微鏡に「顕微鏡」とラベルして展示されている状況で、身もだえる、ということ

フィリピン ダバオ郊外の中等学校 木陰で過ごす生徒たち

中等部部長の日本での短期研修の成果

 フィリピン南端、ミンダナオ島最大の都市ダバオ市の地方教育事務所でODA理数科教育支援プロジェクトの一員として働いていたときのこと(このときのプロジェクトでは、ダバオ以外に、中部パナイ島のイロイロ市、北部ルソン島南部のレがスビー市の地方教育事務所にひとりずつ日本からのプロジェクトメンバーが派遣されていた)。プロジェクトは基礎教育、つまり初等教育と中等教育を対象にしていたけれど、ダバオでは、ぼくは主に中等部の理数科指導員と一緒に働くことが多かった。
 その理由は、小学校教員がひとりで全教科を担当するのに対して、中等教育では理数科はそれぞれ専門の教員が教えていて、それなりに専門性が明確だったことがひとつだった。(当時のフィリピンは初等教育6年、中等教育4年、その後は高等教育だった。つまり、日本では中学校と高校で6年かかる中等教育が4年間となっていた。現在では中等教育が伸びているはずだ。)

 そのダバオ地方教育事務所の中等教育部部長ミセスバルデラマが、日本での2週間ほどの短期研修に参加する機会があった。日本でのプログラムは、小学校中学校での特に理数科教育に焦点をあてた学校視察が主だったようだ。
 このような研修では、研修終了時に「今回の研修で学んだことを、自分の職場に戻ってからどう活用するか」という将来計画を作成させることが多い。このときもそうだった。
 ミセスバルデラマは、「日本で見た学校でのプログラムを、自分が管轄する地域の中学校に普及する」という将来計画を作成し、研修の最後にプレゼンテーションしてきた高揚した気持ちを維持してダバオに帰ってきた。

 彼女の計画にはふたつのプログラムが記載されていた。ひとつはサイエンスガーデン、もうひとつはサイエンスフェスティバルだった。

 サイエンスガーデンは、おそらく視察先の学校でのビオトープに影響を受けたのだろう。
 “ビオトープ(Biotope)”とは人工的に作られた“さまざまな生き物が共生できる場所”のことで、19世紀後半から20世紀初頭に活躍したドイツの生物学者エルンストヘッケルが提唱したのがはじまりといわれ、ギリシャ語の「bio(ビオ:命)」と「topos(トポス:場所)」との造語だ。ドイツでは工業化などによる環境問題が深刻化した1970年代頃から、失われた生態系を復元し、その地域に棲んでいた生物が生息できるような、生態系環境の保全を意識した地域づくりの一環としてビオトープがつくられるようになった。日本では1990年代に、それまで学校の回りに広がっていた田園が宅地化で消えようとしていたとき、せめて学校内に田園の自然環境を残そうという運動として広がった。ぼくがダバオで働いていたのは1990年代が終わるころだから、ちょうど日本でビオトープが普及したころと重なる。ミセスバルデラマは、そんな日本の最先端のビオトープを視察したのに違いなかった。

 サイエンスフェスティバルの起源はなんだろう?この投稿をするにあたって、少し調べてみたけれど、起源となるとよくわかない。とにかく、サイエンスフェスティバル、あるいはサイエンスフェスという催しは、インターネットで調べてみると、日本中の自治体で、あるいは各高校や大学、ときには自治体の科学博物館、教育系大学、そんな場所でさまざまな形で開催されている。
 実施方法は多種あれど、その主旨は、体験型理科学習を通じて子どもたちの科学への興味と理解を促進するということだ。学校の理科クラブなどがそれぞれの研究発表を持ち寄るようなこともあれば、教育系大学の学生が、地元の小中高校生を招いてそれぞれが開発した理科教材を使った特別授業を実施するようなスタイルもある。 
 ミセスバルデラマが日本でどんなタイプのサイエンスフェスを視察したのか、今のぼくはもう思い出せないのだけれど、とにかく彼女はいたく感激して、それをダバオ周辺地域の中等学校に広めようと考えたんだ。

 なにかの機会に校長たちが招集されミーティングがもたれ、ミセスバルデラマが激を飛ばした。
 やがて、「準備ができました!」という学校が表れ、張り切るミセスバルデラマを先頭に教育地方事務所の中等部スタッフが視察にでかけた。もちろんぼくもどんなものが出てくるか楽しみに同行した。

白煙をくゆらせる火山模型、そして顕微鏡には触らないで!

 訪ねた学校には校庭の一部に、かなりの面積をとって“サイエンスガーデン”が作られていた。その端には小さな池と岩造りの1メートルほどの壁が設置してあり、裏手の電源スイッチを入れると、その岩造りの壁の上部から水が滝となって流れ落ち、池に注いだ。池の中には金魚が泳いでいる。池の回りにはさまざまな植物が植えられ、それぞれにはきちんと名札が立てられている。中には薬草として有用なものもあるようで、それらの説明書きもそえてある。
 さらにそんな庭園の片隅にはコンクリート造りの円錐状の塊がある。火山だ。いや、火山の模型だ。環太平洋火山帯の円弧の一部に含まれるフィリピン諸島には火山も多い。ルソン島の首都マニラの北西部にあるピナツボ山の1991年の大噴火は20世紀最大規模級で、1993年夏の冷害による日本での米不足の原因になったともいわれている。
 ピナツボ山は山景に特徴的なものがあまりなく、遠景からは目立たない。フィリピンの人たちにとっては、ピナツボ火山よりも同じくルソン島の南部ビコール地方にあるマヨン火山のほうがよく知られているかもしれない。マヨン火山は富士山をすっきりしたような美しい山景で、活動期には夜になると頂上の噴火口の中で赤く煮えたぎるマグマが夜空を赤く焦がし、そこから流れ出る赤い溶岩がヌラヌラ・チラチラとまるで夜空の中を流れる様子が観察できる。

マヨン火山, 屋外, 山の無料の写真素材 (pexels.com)


 ぼくが見た、そのサイエンスガーデンの火山模型もマヨン山のような形をしていた。ぼくたちが近づくと、その火山模型から白っぽい煙が緩やかに立ち上った。模型の中は空洞になっていて、その一端が外にむけて開放されている。その空洞の中でゴミを燃やすと、山頂から煙が立ち上る仕掛けになっているんだ。おぉ、ディズニーランド的な人工世界だ。

 さらに校舎の中では小さな“サイエンスフィエスティバル”が開催されていた。号令がかかってから短い期間で準備したのだから、生徒による理科研究の発表があるわけでもない。理科の教科書にある窒素循環や炭素循環、あるいは光合成の明反応と暗反応(カルビン回路)などの図案を模造紙に大きくコピーしたものや、学校にあった理科資機材の展示が主だ。つまり、ビーカーや試験管がきちんと“試験管”“ビーカー”と名札づけされたものや、青透明な結晶が美しい硫酸銅がはいっているであろう“硫酸銅のプラスティック製の薬瓶、そして主役級なあつかいで陳列されている2台の“顕微鏡”のわきには、ご丁寧に『Do not touch!』と赤字で書かれた札も置いてある。

 フィリピンの中等学校には、だいたい数台の顕微鏡はあった。しかし、その多くがメンテナンスがきちんとされていない。まず多いのが対物レンズや接眼レンズの汚れだ。中にはレンズにが(かびが生えてしまったものもよくあった。あと多いのが、対物レンズを上下する鏡筒(真ん中の円柱部分)についている調整ネジが緩んでしまったもの。調整ネジが緩んでいると、焦点を合わせても、ネジから手を話すと鏡筒がゆっくりと下がっていき、つまり対物レンズも下がっていき、すぐに像がぼやけてしまう。観察しながらスケッチするのは不可能だ。

ジョンの地味ー!!!な、活動

 ちょっと話は飛ぶけれど。
 当時、顕微鏡修理道具が一式とkure556スプレー(潤滑剤)はぼくの車には常備されていたけれど、なかにはぼくの手に負えないものもあった。そんなときは、ダバオにある私立大学アテネオ=デ=ダバオにあった理科教育センターの片隅にひっそりと座っていたミスタージョンのところに持ち込んだものだった。
 ジョンは英国人の元理科教師で、引退後にフィリピンの人と結婚し、彼女の生地であるダバオに移り住んでいた。そして、こっそりとひとりボランティアで、その理科教育センターに机をもらい、実費のみで理科教材の修理を引き受けていたんだ。彼の活動は、はたから見ていてじれったくなるほど地味だった。校長研修が開かれると知ると、そこに静かに現れ、プログラムの最後に、もし修理したい理科教材があれば持ってきてほしいと、まるでケンローチ監督の映画に出てくる人たちが話すような訛りの強いイングリッシュで告げるだけなんだ。それでも、長くやっていればそこそこ修理の依頼はあったようで、関係者は地味なジョンの活動にそれなりの敬意は払っているようだった。
 理科教育センターというのは、やはり全国に何か所か設置されていたもので、でもそれは科学技術省の管轄だった。ぼくが働く教育事務所は教育省下。縦割り組織というのは官僚制が持つ避けようのない特性で、フィリピンもやはりそうだった。教員研修などの機会にジョンに登場してもらおうと提案しても、ミセスバルデラマなどはなかなかいい顔をしてくれなかった。
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あんたの言いたいことはわかる、でもまだ始まったばかりだから

 さて、今日の主旨は、サイエンスガーデンと、サイエンスフェスティバルだった。

 顕微鏡の展示を前にして、ぼくが身悶えしているのを同僚の理科指導員ミラは感づいたのだろう。さらに、帰りのバスの中で、物言いたくてぼくの口はきっとずいぶんと尖っていたのだろうと思う。ミラがぼくに向かって言うのだ。

「ムラ、あんたの言いたいことはわかる。でも、私たちにとってはまだ始まったばかりなんだから。だから、長い目で見なくちゃいけないよ」

 彼女の「私たち」には、ぼくは含まれていないようだった。彼女たちにとっては、まだ始まったばかりなんだから、もう始まってずいぶんと時間の経つところからやってきたぼくは、そりゃいろいろ言いたいことはあるだろうけれど、そこは我慢して欲しい、ミラがぼくに伝えたかったのはそういうことだと思う。

 もしかして、これだけでは通じないケースもあるかもしれないので、念のためにぼくの身悶えの理由を簡単に書いておく。
 顕微鏡があるならば、なぜそこで何か、たとえば植物細胞でも、プランクトンでも、その場で顕微鏡をのぞいて観察させないんだ!ということです。サイエンスガーデンで池を作ったのなら、水そこに溜まった落ち葉でも、泥でもすくってみれば、なにかおもしろいものが見られるかもしれない。花壇でさいている花から花粉をとってきてもいい。
 とにかく、顕微鏡はそれを使って小さな世界への扉をあけるから顕微鏡なんだ。“顕微鏡”とラベルをはって、そこに置かれていても、それは顕微鏡じゃない。それは科学じゃない。
 そんなわけで、ぼくは腸捻転になっても仕方がないぐらい身悶えしたわけだ。歯ぎしりもあったかもしれない。

 あれから20年が経った。あのとき、身悶えしていたぼくは30代後半だった。今、50代後半となり、妙な達観に逃げ込もうとしている。ぼくより二回りほど年上だったミラは、今70代。FBで見る柔らかな笑顔は、皺は深くなったけれど、今も変わらない。引退して、今から3年前には日本にも観光でやってきたけれど、ぼくとは1日のすれ違いで会えなかった。今でも残念だ。ミセスバルデラマは、もう80歳ぐらいだろうか。どんなロラ(おばあちゃん)になっているだろう。そしてジョン。生きていれば90歳ぐらいだろう。まさかまだ理科教育センターには座っていないと思うけれど、元気だといいな。

元ダバオ教育事務所中等部理科指導員 ミラグロスフランシスコ(通称 ミラ)
口やかましい日本からの腰掛け応援団員の指導官も担当


 何よりも気になるのは、あのサイエンスガーデンだ。ぼくが視察した学校以外でも、いくつかの学校がサイエンスガーデンを作った。20年経って、それらはどうなっているだろう。そこで理科観察を指導できる理科教員は育っているだろうか。とても気になる。

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