西暦2000年(平成14年)前後の通信革命!!!
20世紀から21世紀にかけて、ものすごい通信革命が起きたんですよねぇ。1990年から1992年に青年海外協力隊員として暮らしたケニア西部のクゥイセロ村での生活は、電気ガス水道なしで、日本とのやりとりは片道1ヶ月かかる郵便が唯一の手段だった。どうしても日本に電話をしたい場合は、50キロメートル離れたキスムの町までいかなくてはいけなかったし、国際電話の通話料は10分も話せば月の生活費の半分が飛んでいった。
派遣前の3ヶ月の訓練期間に、パソコンを持ち込んだ同期隊員がいたという記憶はない。まだワードプロセッサーだって、個人で持っている人は少なかったはずだ。ポケットベルが急激に拡大して日本で利用者が最大になったのが1996年だそうだ。ぼくは、使ったことは一度もない。結局、2年間のあいだに数回出した活動報告書は、すべて手書きだった。あれは今でも、どこかに保存されているのだろうか。
それから、10年もしないうちの1999年あたりには、フィリピンでも携帯電話が使われていたし、フィリピン南部のダバオ市で働いていたぼくは、ODA実施機関との連絡にインターネットのメールを使いはじめた。手書きの報告書なんて、もうありえなかった(悪字のぼくには、嬉しいばかり)。アマゾンで本の購入をするようになったのも、そのころのことなんじゃないかな。
そして、2012年末に20年ぶりに仕事で訪れたアフリカのルワンダでは、ほとんどどこからでも携帯電話で日本とつながることが可能になっていたし、インターネット経由なら料金もそれほどかからない。なんてこった。これを革命といわずして、なんと呼ぶ!世界は劇的に“近く”なってしまった。
現在、滞留中の東京で同居する甥っ子(今月22歳)の生活からスマートフォンは欠かせない。「生きる」ための情報はすべてスマートフォンの画面から得ているといって過言ではないと、横で見ていて思う。もちろん悪いことじゃない。でも、彼を30年前のクィセロ村に放り込んで見たいという、意地悪な誘惑からなかなかぼくは自由になれない。携帯がまったく使えないたった数十年前の世界で、彼はどんな生き方ができるだろうか。ワクワク、ワクワク、妄想して楽しんでいる。イヤなオジキだ。
というわけで、Googleマップでクゥイセロ村を俯瞰することが自分の机の上でも可能になった。ルワンダでは、ほとんどどこからでも携帯電話で日本が呼び出せた。間違いなく、今ならクィセロ村から携帯電話を使って日本に電話をしたりメッセージを送ることは可能だろう。そして、クィセロ村の多くの人たちも、スマートフォンではなくとも、日本ではガラケーといわれる旧式の携帯電話を使っているはずだ。きっともう何年も前に電気も通っているんじゃないだろうか。
今、Googleマップで見るクゥイセロ村は、村の中心部の建物はかなり多くなったようだ。けれど、村をぎっしりと畑が囲んでいて、その中に点々と家が建っているという様子に大きな変化は起こっていないようにも見える。週末になると、サッカーの試合が行われたり、たまに夜に映画上映車がやってきて映画の上映に多くの人が集まった広場もそのままだ。
街灯なんてものはないだろうから、クゥイセロ村の新月の夜は、当時とそれほど変わりなく、今でも真っ暗かもしれないなぁ。

始めてクゥイセロで暮らし始めたころは、闇夜になると手を引いてもらわないと村の酒場から自分の家まで帰れなかった。それが慣れてくると、なんとなくの感覚でひとりでも帰るようになる。大事なのは、地面のわずかな傾斜だ。道の真ん中を歩いているのか、端のほうなのか、それは足の裏でわかる。恐る恐るは、やがて確信となって、ぼくを自宅の青いドアへ導いてくれるようになった。
星あかりというのは本当にあった。あれは、星が見えなくなる影がポイントだ。家や木があれば、その部分の星空が隠れる。それが見当となって道がわかる。月あかりは、単純に猛烈に力の弱い太陽、ってことで、それでもしっかり足元を照らした。満月であれば、庭で本が読めた。本当ですよ。
闇夜のクゥイセロを通過していったモノ
あれは、けっして月夜ではなかったと思う。時間は夕闇どっぷりくれて数時間後だから、20時か21時くらいだったろうか。ぼくは何をしていたのだろう。その時間ならば、ランプの下で食べる夕ご飯は終わっていて、翌日の授業の準備をしていたのだろうか。
ふと気がつくと、なんか音がする。
夜になると、ときどき遠くからざわざわとした雰囲気や、歌声が聞こえるときがあった。それらはだいたいお葬式だった。お葬式の夜、家族たちは家に入らない。家の外で死者を弔い、歌を捧げる。そんな音が真夜中を過ぎても聞こえることがたまにあった。
でも、そのときの音はそれとはまったく違った。ガンガンとものを叩くような音、奇声を上げているような音。ぼくは扉をあけて外に出てみた。ぼくの家の扉は北向きだった。その音は左手、つまり西、あるいは南西、のほうから聞こえる。と思うと、同様の音が近くの家でも始まった。家中の壁を叩くような音、フライパンを叩くような音、女性の奇声。家中のみんなが一生懸命音を発している感じ。それが右手のクゥイセロ村の中に入っていって、そっちの方からも音が上がり始めた。
ガンガンガンガン、カンカンカンカン、ハラララララララ、フルルルルルルル、ドンドンドン……
やがて左手、西、あるいは南西か、から聞こえていた音は治まり、騒音は右手、東方からだけ聞こえるようになる。そして近所の騒ぎが止まり、音はだんだん右手遠くに去っていく。
ぼくは、あっけに取らてて暗闇のなか扉の前にたたずんでいたはずだ。
想像はすぐについた。悪霊祓いに違いない。悪霊は西の家で追われ、東、東へと逃げていく。やってきた悪霊が自分の家で立ち止まらないように、東隣の家でも大騒ぎをする。悪霊は仕方ないから、また次の東隣の家に向かう。そこでも騒音が始まる。そうやって、どの家でも、悪霊を追い払っていくに違いない。
でも、いったいどこで最初の音が生まれたんだろう、そして、音はどこまでつながっていくのだろう?理屈でいえば、音は同心円状に広がっていったはずだ。どこに中心はあるのか?
クゥイセロの西には丘陵地の畑地がつづきやがてウガンダにつながり、南西には数十キロいけばビクトリア湖が広がっている。東も当分は畑の中に点々と家が立つ丘陵地だ。場所によっては、音を引き継ぐ家のないような物理的空間もあるだろう。悪霊たちはそんな空間でようやく一息つくのだろう。
あの音は、東にすすめばいつか首都ナイロビにも届くだろうか?途中、大地溝帯があるからなあ。あそこを音が超えるのは、ちょっと難しそうだ。伝達者が過疎すぎる。いつか音は闇夜に消えていくのだろう。
ならば、中心地はどこだろう?見当もつかない。その中心地から、西に向かう音もあったんだろうか?それはいまごろ、どこを旅していくのだろう?赤道をこえ、国境をこえ、伝わっていく同心円の音の波。
あの波は、暗闇じゃないと伝わらない。きっと月夜じゃ明るすぎ。テレビの音が、車の音が、街の音が騒がしい場所では伝わらない。
翌日、同僚たちに理由を聞いた。やはり悪霊除けだということはわかったけれど、誰もそれがどこで始まるのかは知らなかった。それが今度いつあるのかも、知る人はいなかった。
そういえば、ぼくはただ聞いているだけで、何も音をださなかった。悪霊のいくつかは、ぼくの小さな家に留まった可能性はあった。でも、その後、ぼくの家で悪霊がいたずらしたようなことに、特に覚えはない。留まった家の異邦人に、あっちが戸惑ったのかもしれないなぁ。ぼくが彼らが発する言語を理解できなかった可能性もあるしなぁ。もしそうなら、彼らに悪いことをしちゃったなぁ。
忘れられない、思い出だ。2年間の暮らしの中で、起こったのはあの一晩、それっきりだった。
あの同心円の広がりは、今でもたまに起こるのだろうか。電気や携帯電話の普及が、あの音を前世紀の遺物としてしまっていないだろうか。なんか少し、心配だ。


















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