今回の東京滞在では、どういう風向きでそうなったのか、映画館に何度も足を運ぶことになってしまっています。これだけの密度で映画鑑賞するのは、久しぶりだなぁ。そんな映画鑑賞の備忘録、全部一遍に記したら、あまり評判の良くない長文底なし沼になってしまいますので、ちょびっとずつ。
『急に具合が悪くなる』(現代のパリと京都山間の村、@TOHOシネマズ 錦糸町オリナス)

胸の前で両腕で腕組みすることに対して、私は普段からかなり意識しています。1997~8年ごろに知人と「腕組する心理」について話し合った記憶があるので、もう30年近く意識し続けていることになります。
自分が腕組みしているのに気が付くと、意識的にそれをほどくようにする気持ちが働きます。つまり「胸をひらこう、胸襟をひらこう」ということです。きっと本かなんかで、腕組みしている人は守りに入っている、みたいなことを読んだのだろうな。そして、腕組みしている自分を客観視するようなことが癖になったのだろうと思います。
この自己観察の注意点は、他者観察には使わない、ということだろうと意識しています。腕組みしている人を見て、「あぁ、あの人は今、自分を守りたい気分になっているんだなぁ」という風には簡単に判断してはいけない、みたいに自分に言い聞かせているのです。それでも、例えば会議などでずっと腕組みしている人がいれば、それはどうしても気になります。どうやったら、その人の胸を開いてもらうか……、そんな風に思ってしまうこともあるのも正直なところです。
さて。『急に具合が悪くなる』、2019年に出版された原作を私は2020年には購入しています。しばらく積んであったのを読んだのはいつだったのか。原作は哲学者と文化人類学者による往復書簡です。今、その読書を思い出しても、何がそこに記されていたのか、私はほとんど思い出せません。ただ、哲学者が不治の病であり、死の直前まで入魂の文章を書き送り、人類学者はそれに圧倒されつつ必死に応えようとする。往復書簡は、哲学者の死によって終わりを迎えた。そんなプロットだけが記憶に残っているのです。
高名なカンヌ映画祭で主演女優賞を獲得したことで話題になっている同名タイトルのこの映画の存在を知ったとき浮かんだのは、あの往復書簡を映画にする? いったいどうやって? というちょっと戸惑うような気分でした。『急に具合が悪くなる』というタイトルは、偶然一致するというものじゃないだろう。しかも、映画はパリを舞台にしたお話だというじゃないですか。う~ん、あの原作は、どんな映画になっているのだろうか? それが知りたくて、ふと調べてみたら浅草からバス一本で行ける錦糸町の映画館で上映している。そうか、じゃ、行ってみるか。急遽、予定に組み込み出かけたのです。
良い映画を観ていると、最初の30分、いや15分で、「あぁ、これはどうやら当たりだなぁ」ということが分かります。もちろん、私にとっての当たりです。この映画は、その「良い映画」予感はわりと早くやって来たように感じました。3時間を超える映画と聞いていたので、はずれたらそれなりに辛いわけです。「良い映画である信号」をキャッチできたときには、ホッとしました。もちろん、あくまで私の感覚で、普遍的なことを書いているのではありません。
たとえば、この映画も、おそらく私からそれほど遠くないところに座っていた殿方にとっては、もしかして退屈に感じられたのではないか? ときどき伝わってくる、身体の動きや息遣いなどから、その御仁が何か集中力を欠いておられるような雰囲気が伝わってきたのです。エンドロールが流れたとたんに彼は席を立って出て行きました。もしかして、トイレが近かったのかしら? それでも中座できないほど、ストーリーに向き合っていたという可能性もあるしなぁ。ま、それはさておき。
観ていて早くから感じていたのは、映画に直接かかわっている人たちにとって、この映画は「嫉妬」の対象になるのだろうなぁということでした。あぁ、あの原作をこのように料理する、それはやはり才能輝く手法だと思われたのです。それは映画作成関係者にとっては、くそおぉやられたぁ!、であろうと。
20代ぐらいのころ、もし人生の方向をもう一度選べるとしたら、映画監督を目指してみたいとちらりと思ったことが私にはあります。今であれば、あまりに多くの映画が作られていて、その過剰さに尻込みしてしまうわけですけれど。ですから、『急に具合が悪くなる』に私が嫉妬心を燃やしたということはありません。けれども、才気煥発に触れることはとても心地良い。
良い映画に欠かせないのは、どうしたってシナリオだと私は思います。シナリオが悪ければ、監督や役者がどう足掻いても、シナリオの不備は補えない。というわけで、とにかくこれ、シナリオが素晴らしい。そして、だからこそなのでしょうけれど、演出も役者たちも、素晴らしい。
途中、私は数度、腕が組みたくなりました。後半の一度、気がついた時にはすでに腕を胸の前で組んでいました。あぁ、俺は今ちょっとビビッているのだ、と思った。そっと腕をほどき、深呼吸をしました。それは、映画をあの暗闇、劇場で鑑賞するという醍醐味でもありました。自室でパソコンの画面でする映画鑑賞ではけして辿り着けない、映画と自分との対話、それが確かにあったのです。単に観るにとどまらず、自分自身の身体も何かを経験した、あるいは、傾聴した、そんな気分で映画館を出たのです。印象深い、映画でした。おススメします。
『手に魂を込め、歩いてみれば』(2024~25年のガザ、@ポレポレ東中野)
しょっぱなに追記1:これを書いている6月30日時点の情報として。この映画『手に魂を込め、歩いてみれば』は7月に入っても、しばらくはポレポレ東中野で12時から上映が続いています。お時間があれば、ぜひ足を運んでファトマと会ってくださいませ。

鑑賞中、「あ、これは『急に具合が悪くなる』を観ていたときの体感と似ている」と思ったのでした。どちらも、ふたりの女性の対話で、画面はすすんで行きます。そして、どちらも「死」が濃厚に漂い、実際に最後にはふたりのうちの一人が死ぬ(『手に魂を込め歩いてみれば』では、殺される、とやはり表記したいわけですけれど……、実際に殺されたし……)。
この映画、このブログの昨年12月5日の以下の投稿で触れています。
この投稿の最後に私は書いています。
『『手に魂を込め、歩いてみれば』、ご縁があったらぜひ見てください。これを書いている私は、まだ観れていません。でも、そのうちに必ず観るでしょう。きっとみます』
はい、私はファトマと会うことをずーっと待ち焦がれていたのです。けれども、すでにこの映画の上映は終わっている。そんなときに、ポレポレ東中野で再上映されると知って。
そりゃ観に行かないわけには、いきません。たとえ、ポレポレ東中野が急坂を下ったところにある、つまり車イス者にとっては映画鑑賞後の急坂登りという超難関が控えているとしても、です。
ファトマ、2024年で25歳?24歳?の彼女の、その笑顔がとにかく胸を打つのです。
自らはガザに入ることができない映画監督が、偶然ファトマとインターネット電話の映像越しに知り合う。イラン生まれであるこの監督は、イラン政権に反対したことで亡命を余儀なくされた人。現在はパリを拠点とし、ファトマとのやり取りは、ご自身の映画の上映会のために訪問するあるときはギリシャから、あるときはカナダから、あるときはイタリアから……。生まれてからずっとガザを一歩も出られないままのファトマと、故郷イランには帰れないけれど世界の各地を飛び回る監督との対比、暗明、皮肉。ファトマの「行ってみたいなぁ」の必死さ。
監督が携帯電話でファトマを呼び出す。発信音が鳴る。ファトマは出てくれるのか? 数回の発信音後、ファトマの顔が携帯の画面に映る。「How are you? (お元気ですか?)」と言うときのファトマは、いつも笑顔だ。監督の「そっちはどう?」という問いに「昨夜も近くで爆撃があり、人が死んだ」と答えるときでさえも、ファトマは笑っている。不謹慎? それどころじゃない。ファトマの笑顔の、悲しそうなことったら、ない。電話のたびに、だんだんとやせ細っていく彼女の笑顔。チョコレートの一片を渇望する、ファトマ。
誰が読むかもしれぬ開かれたブログという場で、人の容姿について書くのは失礼だし、ルール違反だ。外見で他者を評価するのはルッキズムと呼ばれる破廉恥な行為だと思っています。そして、だからルール違反だけれど、でも書かせてください。ファトマは、美しい。健康そうな白い歯が印象的で、とても魅力がある。彼女だからこそ、この映画は存在し、多くの人々に高く評価されたのは、疑いないことだ。
彼女の大輪の明るさと、21世紀の今、ジェノサイトが進行しているガザとの摩訶不思議な共存。その不自然さ、居心地の悪さ。
もちろん、彼女の顔が曇る場面は何度もあります。特に、彼女がつぶやくように訴える「最近、ぼんやりしている。集中できない」という言葉が胸を打つ。東京の地でこの映画を観ても、彼女はすでにこの世界に存在しない。まがりなりにも、イスラエルとハマースが停戦するのは、2025年4月16日にファトマが殺されてから、まだ8カ月も先なのです。殺されることがなく、生き続けていれば、そしてそうだったらどんなに良かっただろうと思うけれど、彼女の“ぼんやり”はきっとますます酷くなっていっただろう。そのことを思うと、申し訳なくてたまらない。
それに、停戦とは「殺戮のスピードが落ちただけ」という現実が停戦後の今も続いている。停戦後のジェノサイトは今も終わっていない。イスラエル国家が、その国家の在り様を根本的に変換しない限り、今後も長い年月、パレスチナに対するジェノサイドは続く。何千・何万というファトマが、今もガザで、ヨルダン川西岸で殺され続けていく。
どうするんだよ、俺たちは?! これからも、止められないのかい?! イスラエルからの武器を輸入するのかい?!
この映画、邦題は『手に魂を込め、歩いてみれば』。原題?の英語では『Put your soul on your hand and walk』です。直訳すれば、あなたの魂をあなたの手にのせて歩け、となる。映画のタイトルですから、命令形をそのまま受け取る必要はないだろう。
けれども、邦題と英題から受ける印象はかなり違う。邦題だと、手に魂を込めて歩いているのは、ファトマ自身だと感じる。ファトマが、彼女自身の魂を彼女自身の手に込めてガザを歩いている、写真を撮っている(彼女は写真家なのです)という感じ。
けれども英題では、二度繰り返される“your” が効いている。実際に、この言葉はファトマが携帯を通して対話者の監督に語る言葉なのです。私にはその場面は「I put your soul on my hand and walk together(私はあなたの魂を手に握って、あなたと一緒にガザの町を歩いているのよ)」と語ったように感じられたのです。
つまり、put your soul on your hand なのか、put your soul on my hand なのか? どっちにしても、手の中に込められている魂はファトマのものではなく、対話者である映画監督の、あるいはもしかして私自身のもの。そうか、俺の魂もファトマに連れられてガザを歩いていたんだ。そんな風にも思える気がする。
『急に具合が悪くなる』のところで、良い映画は、良いシナリオ、みたいなことを書きました。でも、『手に魂を込めて、歩いてみれば』にはシナリオらしいシナリオはない。良いも悪いもない。そういう領域にある映画ではない。ファトマの笑顔は、そういう語りを受け付けない。もっと切実で、直截で、精巧で素敵なガラスのリンゴが落ちて砕けるのを静かに見ているような。…あなたにも観て欲しい。ファトマと会ってみて欲しい。心からそう思う。
きっと私は、ファトマに恋してしまったのだ、と思う。彼女のことを愛おしい、と思う気持ちが止まらない。

追記2(蛇足):この映画を観た日、映画の後にパレスチナ子どものキャンペーン・エルサレム事務所代表である手島正之さんと、この映画の配給会社であるユナイテッドピープル代表の関根健次さんが短時間でしたけれど、舞台に上がり語ってくれました(撮影OKとのことでしたので上の写真がそのときの様子、ブレブレですいません)。
関根さんからの情報では、2025年4月16日にファトマの家族が爆撃を受けた際(彼女の9人の家族が共に殺されたと、Wikipediaには記載がありました)、母親だけは大怪我を負いつつ助け出されたのだそうです。また、ファトマの兄のひとりが(理由は語られませんでしたけれど)大きな障害を得ていて、彼とその付き添いでもう一人の兄が、爆撃を受ける前にエジプトの首都カイロの病院に搬送されていたのだそうです。つまり、ファトマの母と兄ふたりは生存している。回復の途上にある母は、カイロへの出国を希望しているけれど、未だにガザから出ることはできていないとのことです。
私は「ファトマを殺すことを狙って4月16日の爆撃は行われたのではないか」ということも関根さんに尋ねてみました。彼によれば、映画監督氏は「ファトマの名前を表に出したことがそれまでなかった」ことを理由に、その可能性を否定しているそうです。またイスラエル軍は、その建物にハマースの人員がいたから攻撃した、ということ以上の情報を出していないとのこと。
以下は、私個人の感覚。イスラエル軍当局にとっては、都合の悪い人物はすべてハマースの人員です。ですから、イスラエル軍が運用する敵発見し殺しの優先順位を決めるAIシステムが、ファトマを「ハマースの広報員」と評価したとしてもまったく不思議はないだろう。またガザからのインターネット通話はすべてAIが盗聴していたとすれば、監督がファトマの名前を公表していなくとも、ファトマを特定することはAIには可能だったのではないか。つまり、「ファトマと彼女の家族は、この映画が存在してしまったことで、狙われ殺された」という私の疑念は、そのままです。映画監督が、映画が理由でファトマが殺されたことを、否定したい気持ちは痛いほどよく理解できますけれど。
また軍当局は、単にAIが敵と見なした対象への爆撃を、OKしただけ。だからこの件を尋ねても「建物内にハマースの人員がいた」以上の理解もないし、回答がそれに終始するのも当然だろうと感じます。彼らは、AIをプログラムし、そのAIの言うままに殺戮を実行していると私は理解しています。そこには、人としての叡知も情も、これっぽっちも存在しない。人はすでに機械化されつつある。それが良くわかる事象です。辛く悲しく滑稽で馬鹿馬鹿しいことです。俺も、そんな人類のひとりであることから逃れられない、ような気もする。私自身が機械化しているということではなく、そのことと無関係に生きているわけではない、という意味で。いや、もしかしたら、自らの機械化に気づけていないだけなのかもしれないではないですか?
追記3:ポレポレ東中野を後にし、急坂を登っていたら「押しましょうか」の一声をかけてくれた方がいました。東中野駅の入口まで、押してもらいました。本当に助かった。世の中、まだまだ捨てたもんじゃないよねぇ。
追記4:この日、偶然ですが同じく東中野駅近くで、友人が能を舞いました。観に行きたかった。けれど、会場は古い建物で、バリアフリー化されていない。階段があり、車イスでの鑑賞は無理、と問い合わせた会場から回答されました。まぁそういうことは、よくあります。よくよく、あります。同じ世界に住んでいるわけではないので、覚悟しています。でもね、彼女の晴れ姿、共有できたら楽しかったのだけれどな。残念です。でも、ファトマに会えたから、ね。

















私は高齢(言い訳の一つかもしれない)で何もできないが、せめて意識的に抗って機械化され尽くされずにできるだけ人間でいたい。
匿名様
はい、抗し続けましょう。ぜったいに、嫌だし、ダメだと信じます。
村山哲也