生徒中心の授業の普及と、現場での難しさ 2

グループワークをする小学生たち カンボジア

(この投稿は、一昨日10月8日「生徒中心の授業の普及と、現場での難しさ 1」https://incessant-crossingborder.com/%e9%80%94%e4%b8%8a%e5%9b%bd%e3%80%81%e6%95%99%e8%82%b2%e3%80%81%e7%94%9f%e5%be%92%e4%b8%ad%e5%bf%83%e3%81%ae%e6%8e%88%e6%a5%ad%e3%80%81developing-country-education-learner-centeredに続くものです。先の投稿を読んでいただくと、より内容が伝わると思います。)

 10月8日に投稿した「生徒中心の授業の普及と、現場での難しさ 1」では、海外での授業の質改善に向けての取り組みの中で、従来の教える側中心の授業ではなくて、学ぶ側中心の授業が目指されている、ということを書いた。
 そして、ある「生徒中心授業研修」での一場面を疑似体験してもらった。

 どうだろう。模範授業は「良い授業」だったろうか。2桁の数字の掛け算という新しい技術・知識を、生徒たちはグループワークを通して自分たちで教科書を読んで、与えられた課題の答えを導き出した。先生は、知識を教えるのではなく、生徒自身の学びを促す“ファシリテーター”に徹していた。

 けれど、けれど、だ。ぼくたちは、グループの中のよくできる生徒がペンを持って解答を書くシーンを見た。そのとき、残る7人はそれを見ていた。もしその7人に授業後に同じ課題をだしたら、その生徒たちはきちんと解答できるだろうか?

 授業の限られた時間の使い方もどうだったろう。同じ発表が6回繰り返されるのを、ぼくたちは見た。それは退屈だったんじゃないだろうか。あの時間を、個々の演習に使っていたら、授業はより効果的だったんじゃないか。

 グループワークの中身はどうだったろうか。生徒たちは教科書を共に読んだ。なにか話し合っているようでもあった。でも、そのことと、ひとりの生徒が正しい解答を模造紙に書いたこととは、なにかつながりが合ったのだろうか。生徒たちは、自ら参加して、課題を解いたのだろうか。

 おそらく、模範授業のツッコミどころは満載だ。でも、ぼくが途上国で見たいくつかの「生徒中心の授業」を学ぶ現職教員研修では、みなさんに仮想体験してもらったような授業が実際に行われていた。たまたまではないだろうと思う。よくあるケースなんじゃないかと、ぼくは感じている。
 研修に参加した先生の中には「生徒中心の授業は、先生がやることが少なくなって、楽チンだ」というコメントを残す人もいた。本来は、生徒中心の授業はその準備、仕込みが、従来の教員中心の授業よりもよっぽど大変になるはずなんだけれど。

 どうしてこういうことが起こってしまったのだろうか?何がおかしいのだろう? 

ある国際的な活動を繰り広げるNPO主催の教育支援関連の勉強会 ルワンダ
(この写真をここで選ぶ筆者にも、きっと何かの偏見があることにご注意ください。)

 先日の投稿では、次のような質問もした。「学習者中心の授業を経験してない者が、学習者中心の授業を行うことは可能だろうか?」

 答えは、「可能」だ、でなければならないはずだ。だってそうでなければ、新しいやり方は永遠に始まらないことになる。それでも、いったいどうやって従来の教師中心の授業に代わって、学習者中心の授業が展開されるようになってきたのか。

 学ぶ側からの視点の重要さが強調されたり、知識の詰め込み型の教育が問題視されるのは、なにも最近の話ではない。児童の自由な発展を保護し、支援することをうったえたルソーの『エミール』が世に出たのは1762年だそうだし、デューイの影響を受けて米国で「児童中心学校(child-centered school)」がいくつも設立されたのは20世紀初頭だ。「教科書を教える」のではなく、「教科書で教える」というような言い方もかなり以前からされてきたはずだ。
 10月8日の投稿で「教師中心の授業」の一例として回想したS先生の授業でも、S先生は単に知識を伝えるだけではなく「なぜ某国での紛争は起こるのか」といったような“学習者自身に考えさせる”質問もしていた。つまり、実は教師中心か、生徒中心かは、白か黒かと単純に分けられるものではなく、その境界はグラデーションに富んでいて、さまざまな濃淡があることがわかる。

 国際協力の場では「参加型開発」が好まれる。「魚をあげるのではなく、魚の釣り方を伝える」というよく使われるたとえでもわかるように、援助する側は、支援される側の取り組みを重要視する意識が強い。そんなことも教育援助で盛んに「生徒中心の授業」が強調される背景にあるんじゃないかと、ぼくはすこし疑っている。
 生徒中心の授業という考え方は、長く存在するし、その取り組みはいろんなやり方で今でも続いているけれど(たとえば、日本で導入され失敗に終わったとされる総合学習にも、生徒中心の哲学は大きな影響をあたえていたはずだ)、なかなか決定打がでていない状況もある。それでも、開発支援と生徒中心型授業とは、とりあえずは相性がいい。開発協力の“専門家”が、取り入れると安心しやすい。

 でも、たとえば「グループワーク」というスタイルが、生徒中心授業の手法として紹介されると、まるでグループワークそのものが生徒中心の象徴になっていく。生徒自身が考える、という掛け声は、「先生はファシリテーターに徹する」とことを求めることになる。

 もしかしたら、社会の「子ども」や「児童」の捉え方にも背景があるかもしれない。西洋的な「子どもの発達」感を持たない教師が、スタイルだけ「生徒中心」を取り入れても、なにか大事な「精神」みたなものが上滑りしていく。「はい、これがリンゴです」と手渡したリンゴは、外から見れば確かに赤いリンゴだけれど、中身は空洞だったというような。もちろんリンゴを手渡した側にだます気はない。けれど、空洞なリンゴを手渡された側の戸惑いは大きい。教育支援の現場で、そんなことを何度も思った。

 “生徒中心主義”を装うことだけを伝達するのであればそれほど難しくはないのかもしれないけれど、それがしっかり身につき、血肉となっていくのは簡単ではない。そして、生徒中心の考え方が伝達された先で、それが血肉になっていくことを望むべきだろうか? それは西洋の価値観文化観を優れているとする西洋中心主義につながるだろうか、つながらないだろうか? もしもつながっていたとして、それは批判されることだろうか?
 あなたはどう思うだろう。

 20世紀後半に日本で育ったぼくは、生徒中心の考え方が好きだ。生徒に考えさせる授業をもっと導入したいと思いながら、途上国の教育質改善に関わってきた。でも、それには工夫が必要だ。あの模範授業につながった現職教員研修を他山の石として学ばなければいけないと、強く思っていたし、思っている。

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