写真家/ジャーナリストの石川文洋さんが亡くなった、というニュースを読みました。88歳。
文洋さんを始めて読んだのは、中学3年のころか、高校に入ってからか。私が高校生のときに買った朝日新聞社発行の高校野球選手権(夏の甲子園)の写真誌の写真のキャプションに「石川文洋」とあって、えー、あの文洋さんがどうして甲子園で写真とっているの~!と思った覚えがあります。ということは、そのときはすでに文洋さんのベトナム戦争当時の写真を意識して読んでいたはずなのだなぁ(あのとき、文洋さんは朝日新聞社の記者でしたから、甲子園で写真も撮っていたのでした)。
文洋さんとは数回直接お会いしたことがあります。もちろん文洋さんは覚えているはずもありません。下の写真は1986(昭和61)年に朝日新聞社の朝日文庫から出た『戦場カメラマン』の初版の奥表紙です。この本、厚い文庫本で、値段は1600円。まだ大学生でお金のない時代でしたけれど、きっと迷わず買ったのではないか。
サインをもらった日付は1990(平成2)年2月11日。このとき、法政大学多摩キャンパスで開かれた一泊二日の公開ゼミナールのような催しでの講師が文洋さんで、私はそこで文洋さんのお話を聞いたのです。話の詳細は覚えていませんけれど、朴訥とした文洋さんの雰囲気はとても印象に強く残っているのです。このとき高校野球監督だった私は、同じ年の9月に青年海外協力隊に参加し、年末には東アフリカのケニアに理数科教師として派遣されたのでした。

文洋さん、なんか暖かい感じの方です。写真以上に、彼の書く文章に、そのお人柄は強くにじみ出ていたように感じます。ベトナム関連の著作以外でも、その後も彼の本が出版されれば、私はそのほぼすべてを購入して読んでいるのではないか。心筋梗塞で一度死にかけた後も、日本列島を北海道から沖縄まで2度縦走したり、四国のお遍路を歩いたり、そんなことを書いた著作も印象深いのです。彼は、こつこつ歩いて自分の眼で見て撮ることがとても似合うカメラマンでした。
彼が撮り本多勝一が書いたベトナム戦争の報告を貪るように読んだのは高校生の頃。ベトナム戦争は1975年4月に南ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)に反政府/北ベトナム側が入ったことで(一応の)終了をみています(一応とカギカッコつきにしたのは、たとえばその後のカンボジアのポルポト時代の恐怖政治と虐殺があり、そのポルポト政権とベトナムとの戦争があり、さらに中国がベトナムに攻め込んだり、またベトナムからのボートピープル難民問題が起こったりと、ベトナム戦争の波及は長く続いたことによります)。私が高校に入学したのは1980年4月です。5年以上前の報道を、なぜあんなに夢中になって読んだのか? その理由は自分でもわかりません。なんだったのだろうな、あれは。まぁ、もう45年以上前、もうすぐ半世紀前のこと、理由なんかわかんないのが当たり前。どうでもいいことでもあるのです。
私が高校に入る1年と少し前、1979年1月にカンボジアのポルポト政権がベトナム軍の侵攻/進行で首都プノンペンから西部のタイ国境に撤退しました。そして、このときのカンボジアでの大きな政変を前後して「果たして本当にポルポト政権のカンボジアで大虐殺が起こっているのか/いたのか?」が議論されていたのです。
ポルポト政権はほぼ鎖国状態で、わずかに許された東西冷戦の東側の東ヨーロッパ国の報道機関ですら、カンボジア国内を自由に動けなかった。ですから、4年弱のポルポト政権内で何が起こっていたのか、世界はまったく知ることができなかったのです。そのポルポト政権が倒れた。カンボジアではいったい何が起こっていたのか?
けれども当時15歳の私は、そんな論争が起こっていたことも知らなかった。ポルポト時代のカンボジア大虐殺を知るのも、上記の論争のことも、知ったのは高校も後半になってからではなかったか。
つまり数年経ってから知ることになるのですけれど、文洋さんはポルポト政権が陥落した一カ月後の1979年2月にはプノンペンに取材に入っていたのです。そして、自らの取材経験から「大虐殺はあった」と言い切った。世界のジャーナリストの中でも、それをもっとも早く断言した一人でした。このとき文洋さんは、「もし大虐殺がベトナム側の作り事/やらせだとしたら、それを真実だと報道した自分は二度と報道にたずさわる仕事はしない」とまで書き切っている(上記の『戦場カメラマン』802ページ)。
「虐殺はなかった、あれはベトナム側の捏造だ」とした勢力に対して、現場に足を運んび自分で調べ聞き見た文洋さんが持つ圧倒的な力を、若い私は強烈に実感したのです。魅力があった。もちろん、現場に足を運ぶだけではダメなのです。そこでの取材にどれだけの説得力を持たせるのか。そして、その説得力の対象は、まず一義的には自分自身(このケースであれば、文洋さん自身)なのだ。自分自身に対して嘘偽りない説得力が持てれば、それは他者に伝えるときのエネルギーになる。作り事/まやかし事では、そこまで確固で真摯としたエネルギーを持ちえない。そんなことを、僕は文洋さんから学んだのです。大事なのは他者からの評価ではなく、まず自分自身の眼、自己評価だ。そんなことを文洋さんは教えてくれた。
そして、僕は、巡り巡って2002年からカンボジアに腰を据えて仕事をすることになったのです。その直前、僕は記憶にある限り人生で唯一の積極的求職活動をしています。カンボジアでの仕事の可能性があると知り、そのリーダー的な役割をしている方(大学教授)に「どうして私をカンボジアのプロジェクトに送らないのですか?」という主旨のお便りを書いて直接に送り付けたのです。もちろん、それがカンボジアだったからです。ぜひ、行きたかった。そして、その手紙が功を奏して、僕はカンボジアで働くことになったのです。
あの手紙を書いた背景の、最も源流までたどっていけば、それは僕が高校時代にむさぼり読んだ文洋さんたちジャーナリストのベトナム戦争周辺に関する著作があります。それが結果として、僕の20年を超えるカンボジアとのお付き合いにつながっている。
文洋さんは、その後も機会を作ってはお仲間たちと旧サイゴン(ホーチミン市)やアンコールワットを訪問していました。ある日プノンペンの街中の食堂で、ビールを傾ける文洋さんとすれ違わないかなぁ、そんなことを私は夢想したこともあります。もしも文洋さんをプノンペンでお見掛けしたら、たとえ失礼だろうとしても、ぜひ一声お声をおかけして、お礼申し上げたいなぁ。そんな気持ちを持ち続けていたのです。
今日、文洋さんの訃報を目にし、本棚の中から彼の著作を取り出してパラパラ捲りました。サインをもらった『戦場カメラマン』は、他の本と比較してもその背表紙がすっかり日焼けして古びています。この本は、これまであっちこっち僕と一緒に旅してきたのです。そして、なんとか迷子にならずに、今もプノンペンの自宅の本棚の中で輝いている。いやいや、ほんとうにお疲れさん。文洋さんも、お疲れさま。そして、あなたのせいで今ここプノンペンで暮らしている奴が一人いますって伝えたかったなぁ。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
さて、本多さんは元気かなぁ。彼は文洋さんよりも少し年上だったはず……。元気ならいいけどなぁ。


















人は誰も同じような軌跡をたどるのかも知れませんが、短い文章に接する限り石川文洋さんの晩年は表情ばかりでなく表現もやわらかくなったように思いました。
国内的にも、国際的にも”力が正義だ”という風が強く吹き荒れるときに大事な人がまた逝ってしまった。淋しい。
「表現もやわらかくなった」と書かれたのは、文洋さんの若いころの表現はやっぱりそれなりに苛烈だったという印象を持たれておられたのかしら?
彼はとても正直でした。素直、朴訥。それは若いころから一貫していたように私は感じています。そして、国という単位での争いによって一般市民が辛酸をなめることに関しては、強く憤り続けていた。この点に関しては、晩年も苛烈に怒っていたとも感じます。
大事な人たちが亡くなっていく。さびしい。まったくその通りでありますね。でも仕方がないことでもある。バトンを繋がなくてはと、心から思います。
村山哲也