「君は、君の嫌いな自民党の外交のコマとなるのか?」
1990(平成2)年に、私が青年海外協力隊(現在ではJICA海外協力隊)、以下JOCV、に参加することを知った方から直接に伝えられた一言でした。その方は私のJOCV参加を止めようとして「君は、君の嫌いな自民党の外交のコマとなるのか?」と言ってくれたのです。長期で海外に行きたいのなら、欧米へ留学でもすればよい、その費用は出そう、とまで言ってくれました。けれどもね、やっぱりそういう問題ではなかった。勉強や研究がしたいわけではなかったのです。
彼が言ったことは、けして間違いではないと私は思っています。JOCVは日本政府の外交の道具として使われている面は確かにあります。小泉首相の時代だと思いますけれど、彼がベトナム訪問時に、JOCV派遣は日本政府からベトナム政府へのひとつのお土産として語られたこともあったはずです。
だから、日本国は日本国として私をコマとして使えばいい。俺はけっこう良いコマかもしれないぜ。けれども、オイラは都合の良いコマには留まらず、JOCVを利用して自分のやりたいことを目指すのだ。国家と個人とのGive & Take、国家殿、釣りはいらないよ。そんなふうに、鼻息荒かったんじゃないかなぁ。
そのJOCVという日本国ODAの中の小さな活動は1965(昭和40)年に始まり、今年で60周年を迎えます。2024年12月には累計派遣隊員数が約57,000人となったそうです。JOCVのOBである私は、この57,000人のひとりです。
JICA海外協力隊発足60周年記念事業 | JICA海外協力隊
JOCVという選択肢
中学生のころには、すでにJOCVは気になっていました。もしかしたら、登校時に使っていた西武新宿線の吊り広告でJOCVのことを初めてしったのかもしれません(中2になる春に父が転勤となり、それまで住んでいた東京都杉並区を離れました。私はワガママを言って、転勤先に家族と同行せず転校もせず、都内中野区の祖母のところから杉並区の中学校に越境通学したのです)。あるいは、校内に張ってあったJOCV募集のポスターか。
高校時代には、JOCVに行きたいことを友人たちにすでに公言していました。特にアフリカに行きたかった。問題は、どんな職種で参加するかでした
中学校時代には農業だと思っていました。エチオピアなどでの飢餓が問題になっていたころでした。新聞に載ったやせ細った母子の写真を見て、食料の作り方を伝えに行けばいいと思った。「釣った魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えることが大切だ」みたいなことを、浅い理解で偉そうに、ねぇ? とにかく、農学部進学だ、と思っていたのです。
けれども、一浪して大学に進むころには、アフリカの飢餓問題・食料不足は、農業技術や旱魃といった気候問題ではなく、むしろ政治や経済の問題だと理解し始めていました。それらの多くは植民地時代の負の遺産なのだと。
大学時代、水耕栽培で稲を育成して、その成長の生理的メカニズムを卒論のテーマにすえつつ、これでJOCVに行っても役に立たないという予感はビシビシ感じていました。せめて教員資格はとっておこうと、夏季や冬季休暇中の集中授業で理科教師資格に必要な単位をかき集めた。
卒業後には、単位履修だけして、農業高校で教える資格も取ろうとしました(確か、一つだけ単位が取り切れず、断念したはず)。
そして、数年後。27歳で理数科教師の職種でJOCVに参加し、ケニアの田舎の中等学校で2年間働き、29歳で帰ってきました。
あのころ今ほどは国際支援を実施しているNGO/NPOは多くはありませんでした。自分が海外で何ができるか、明確なイメージも私自身持てないままでした。そんな私には、とりあえず2年海外支援を経験できて、月9万円ほどの国内積立金(2年後に帰ってくれば200万円!)は魅力的に感じられたのです。今ならば、JOCV以外の選択肢も考えられたのでしょうけれど、当時の実力不足、知識も経験も不足の私には、「自民党のコマ」となってでもJOCVに参加するのが手っ取り早く思えたのでした。
ケニアのクウィセロからもらったもの
私の派遣先は、ケニア西部のクウィセロ中等学校(日本の中3から高校3年間の4年間にあたります)でした。1990年12月に首都ナイロビに到着し、しばらく語学研修がありましたから、クウィセロで働きだしたのは1991年1月だったでしょう。そして1992年11月いっぱい、そこで暮らし、教壇に立ったのです。
クウィセロ村には、電気水道はありませんでした。プロパンガスも普及していなかったので、湯を沸かしたり料理したりには、灯油コンロを使いました。夜は灯油ランプかロウソク、そして日本から持ち込んだ頭に取り付けることができる懐中電灯がひとつ。
電話は郵便局から交換手につないでもらうのが唯一の手段で、もちろんケニア国内にしかつなげない。しかも、ナイロビのJOCV事務所に電話しようとして交換手にお願いしても、一時間待ってもつながらない。
日本への国際電話をかけるには、バイクで1時間走った大きな町までいくしかありませんでした。しかも、国際電話は高額で、10分もつながれば、ひと月の半分の生活支給費が消えました。
ちょっと余談を。1992年末にケニアを離れてから20年後。2012年末に、ケニアのご近所であるルワンダで1年半ほど暮らしました。たった20年の違いですけれど、特に通信面での違いといったら、想像を絶するような感じでした。ルワンダ国内、ほぼどこからでも携帯電話で日本にだって通話が可能になっていました。インターネット環境が整っていれば、FacebookでのLineでも、ほぼ無料の感覚で通話もできてしまいます。しかも、顔を見て話せるビデオ通話も可能なのです。
その20年前には、クウィセロから日本に手紙(もちろんAir Mail)を送って片道ほぼ1ヵ月かかりました。2ヶ月前の手紙に返事をもらっても、さて、何を書いたかしら??って感じです。しかも、電気がないし、まだパソコンも普及していないのです。スマートフォンどころか、今でいうガラ携もない。隊員の一部に、太陽電池を使っての無線装置があてがわれていましたけれど、私にはそれもなかった。もちろん報告書も手書きでした。
20年の格差、いやー、本当にすごいことですよ!!西暦2000年あたりから始まった通信革命は、世界を変えちゃったのです。
閑話休題。
そんな不便なクウィセロで2年間過ごして。まずそのことが、その後、どこでもなんとかなるっていう心意気につながったのでした。だって、最初はすっごく寂しかったですよ。村でたったひとりの白い肌の人間で、日本語は日に30分のラジオジャパンで親しむだけ。それを耐えきった?という自信のようなもの。
さらに、2年間の長さが、体感できた。それも大きかったと思います。子ども時代ではなく、仕事としての2年間。あぁ、こんな感じという。その後の業務でこの感覚は大事だったと思います。
そして、なによりもケニアの人も日本の人も同じだ、変わらない、という実感がありました。JOCVの仲間たちには、文化的違いとか、言語とか、まぁいろいろ違いのほうに眼がいく人もいたようですけれど、私はケニアの人たちは「自分と同じ人間だ」と思った。まぁ、この感覚は、自分で無理やりそっちに持って行こうとした面もあったのだろうな。そう信じたいと、赴任前から思っていたはずです。ケニアの人たちに対して、自分(たち)との差違より共通項を探そうとしていたんじゃなかったか。そして、その思いは幸いに打ち砕かれることはなかった。
クウィセロ村の人たち、クウィセロ中学校の人たち、そして私も、喜怒哀楽があり、笑って泣いて……、情けがあって、思いやりがあって。
もちろん、ケニアと日本、違いはありました。
ひとつは医療環境。村で死んだ子どもは、どれだけの医療をうけることができたのか? 私がひどい内耳炎にかかったときは、ナイロビの私立病院でお金のことは気にせず治療を受けることができました。けれども……。
バイクで1時間かかる大きな町の市場で買ったニンジン、それをクウィセロ中学校の生徒の多くは知らなかった。確かに村では売っていない野菜でした。ニンジンが手に入る大きな町が面したあの大湖ビクトリアも多くの生徒は見たことがなかった。20歳近い生徒たちが暮らす世界は、少なくともその面積は狭いモノだったのです。
次のようなことも思い出します。学校の会計係が小さな不正を行って、自分のファミリーのお小遣いに使った。それを咎めた校長は、「一回は許そう」と言ってその会計係を警察に突き出すこともしなければ、首にもしませんでした。「会計係にもなって、ファミリーに得をさせないなんて、そっちのほうが男として格好悪い」というような考え方がある。だから、ある程度は仕方がない。そういうことだったのだろうと今の私は理解しています。
そんな違いは、でも、探せば日本社会にだってあるかもしれない。私が(今でも)どれだけ日本社会を知っているというのか? そもそも、日本人って何よ? 日本人でもSEIKOの腕時計も、Sonyのラジオも、Toyotaの車も、Hondaのバイクも、どれひとつ直せもしないわけで、さ。私は大人になるまでモンジャ焼き知らんかったし、さ。人をだましてズルして儲けようとしている人、日本にもあるし。もちろん、情けも寛容も、ある。クウィセロで悪さした会計の人やそれを一度は許した校長のような人、落語にも出てきそうだしなぁ。ふふふ、みーんな一生懸命生きているだけ。
みんな同じ人間、そういう実感、しかもかなり深い実感を、ケニアから、JOCVの体験からもらったものでした。それは今も忘れずに持ち続けています。大きな勇気になっています。
高く評価するわけにはいかない、もうひとつの成果
そして、もうひとつ。JOCV参加の最大の影響。それは、私が日本への社会復帰に完全に失敗?したことがありました。
私はJOCVに参加したことで、大事な人を不幸にしたのです。それは私自身の価値観に背くようなことでした。1992年末に帰国して、1993年のお正月を私は都内の小さなビジネスホテルでひとりで過ごしていました。自業自得ですけれど、正月三が日、居る場所がなかったからです。
アフリカに行って…と鼻息荒かった結果の、とても寂しく心細い29歳になる年の始まりでした。私にとってどん底の1993年。それは日本が記録的な冷夏に襲われタイ米が輸入された年でした。
そのときの私のワガママを母は今でも咎め詰ります。私はそれを黙って聞くしかありません。反論の余地がないからです。
そして、この超がつく負の経験が私になんとしても国際協力の分野で生きていこうと思わせたのです。撤退はしない。断固、やる。そうでもしないと、なんであのときああしたのか? 言い訳がたたないじゃないですか。 もう退路は断たれた。
そして、俯瞰して見学すると、それはやっぱりどこか馬鹿馬鹿しい意地みたいなものでしかない。アホ臭い。日中太平洋戦争に突っ込んでいった大日本帝国の特攻精神と、それほどの違いもないじゃないか。
さらに、それは実は、日本で働くことを回避する言い訳だったかもしれません。ケニアにいた際には「帰ったら、日本で教員でもやるのかなぁ」と思っていた。でも、もし日本で教員になっても、おそらく長続きはしなかったでしょう。だってさ、スカートの長さとか、髪型とか、イヤリングとか、そういう規則を信じることはもうできなかった。無理。
つまり、JOCV後の日本社会復帰がまったくイメージできなかったのです。だから、逃げた。世界の果てまででも、逃げるつもりだった。革命はそのためのジェットエンジン点火、だった。革命なんて、そういうバカバカしいエネルギーの発露なんてことが多いんじゃないのですかね??知らんけど。
でも、それは実際推進力になったのです。逃避願望は私の背中を押す風になった。それがJOCVの2年間の一番の成果としたら、やっぱり誰かを不幸にしてしまった成果を高く評価することはできません。ダメな事例だ。情けない。
スタートがこれだから、いつまでたっても終わらない。逃げ続けるしかない、そんなふうに思うこともある。今でも、あります。立ち止まることを許してくれない背中への圧力を、感じることがあるのです。
だから、私の国際協力は、世のため人のためにはなり得ない。つくづく自分勝手の結果です。やれやれ、と歩き続けているのです。
60周年おめでとう
始まって60周年、JOCVの活動を私は親近感を感じつつ、ひっそり応援しています。何かを伝える機会があれば、そのときはいつも「JOCVは始まりにすぎない」って伝えます。成果なんか気にせず、すべての感覚をおっぴろげて、感じよ。体感し、実感せよ。これまでの価値観を疑え。そんなことを伝えたいけれど、まぁ、老兵は多くを語らずがきっとよろしい。こんなことを書くと「村山が、語らずとか言ってるぜ!」って嗤い声もすぐに聞こえてくるような気もするけど。ハハハ、いいじゃないのよ。
そして、私がJOCVに参加した1990年から数えて、今年は35執念、いや35終年、いやいや35周年(変換機能って面白いですね、最初に「執念」がでたときはちょっとびっくりした)。振り返れば、あっという間でした。人生の革命につながってしまったJOCV参加を、悔いてはいません(……いないと思う)。ケニアでの2年は私の人生のなかで確かに起こった決定的なもの。でも、その前と後の風景が違い過ぎて、思い出すと今でもなにかの嘘みたいな気がする。騙されたんじゃないか?誰に?自分で自分を騙した? けっこう詐欺師の才能、あるのかなぁ。
さて、そうやって突っ込んでいった国際協力、いったい何ができたのか? う~ん。 いやいや、これからよ。と、まだやってます。チビチビですけど、まだ、やりまっせ。この逃げ馬のゴールは…、まぁあえて具体的に書くのは無粋です。
あぁ、なんかだっさいブログになっちまったなぁ。どうぞ見逃してくださいませね。
追記:クウィセロの夜、家のわきで仰向けに寝そべって空を見上げていると、暗い中微かに見える木の細い枝先を交差して星が確かに動いているのがわかりました。つまり空が確かにゆっくりとじわじわと回っている、つまり地球がかなりの高速度で自転しているのが感じられました。天動説と地動説がせめぎ合って波打っているのを、ぼくは見たのです。そして、自分の小ささと弱さも見えたのです。あれがJOCVに参加して、良かったことなのかもしれないなぁ。ま、どうでもいいことですけれど。


















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