彼は2000年にやってきました
いろいろ偉そうなことを言ったりやったりしていますが、でもね、私は毒親なのです。
子どもがひとりいます。彼は2000年に生まれましたから、今年2024年には24歳。私は60歳、つまり干支は同じ辰年なのです。彼の母親も私と同い年ですから、彼が生まれた際、私の父が「龍三(りゅうぞう)という名前が良いんじゃないか」と提案してきて、私は即却下したことを楽しく思い出します。龍三(りゅうぞう)はないですよねぇ、これから21世紀を迎えるその時代に、りゅうぞう、は。 あ、ごめん、龍三さん、ごめんなさい。
いや、私は、男の子でも女の子でも通用する名前がいいなと思っていたのです。龍三、女の子にはさすがに無理でしょう? だから却下だったのです。ご理解くださいませ。
で、夏草という名前を発見したのです。これはよい、ぞ、と自画自賛。画数判断?運勢判断? そんなもん、知らんがな(この段階で毒親であるという説もありました)。で、誕生したのは医学的性別では男性でした。彼の性的嗜好は、さて、どうなのかしら。まだ実証確認を私はする機会がありません。彼はしているでしょうけれど。
生後半年でフィリピンの仕事を終えて帰国した翌日から、子育てモードにはいりました
彼が生まれたときは、私は働いていたフィリピンダバオからさらっと帰国はしました。午後8時あたりに成田空港に到着して、病院にたどりついたのは夜中でしたけれど、病院の配慮でちらっとだけ赤ん坊と面会できました。彼は出産時の格闘で頭に擦り傷があったりして、頭蓋骨もどこか歪んでいるようで、あら、これ大丈夫なのかしらと少々心配になったものです。
ダバオにはほぼとんぼ返りして。彼が生後半年たったころ、フィリピンでの仕事が終わって私は帰国しました。その翌日から彼の母親は仕事が始まって、つまり私は育児モードに入ったのです。
よ~く覚えているのは、抱っこして哺乳瓶でミルクを与えたときのこと。気持ちよさそうに飲むのですけれど、私が声をかけると泣き出すのです。「よーしよし」とか言っても、うるさい、せっかくミルク飲んでるときに邪魔するな!とでも言うように、泣くの。
生まれてからの半年間、男性の声をほとんど聞いたことがなかったからなんでしょうね。こっちも負けてなるモノかと、声かけを繰り返しました。おかげで数日で慣れてくれた。笑顔はまだ見せないものの、こっちが声掛けしてもあっちは黙って泣かずにミルクを飲んでくれた。
それから1ヵ月半ぐらいして、彼は近所の保育園での零歳児保育が始まりました。朝、私が保育園に連れていく。夕方、私が保育園に迎えに行く。たま~に、母親が送り迎えに行くことはある。そうすると「お父さんは偉いですねぇ」というようなことが母親の耳に入る。
「どうして父親が送り迎えすると、偉いですねぇ、という声が上がるのか? 母親が送り迎えするのと、何が違うのか? だから男はつけあがる!!」
いや、つけあがってるつもりはないのだけれど。
とにかく、1年半、そんな生活をつづけました。そして、私はまた長期でカンボジアの仕事に出かけ、日本での彼と母親は母子家庭に戻りました。
彼はカンボジアにはたまーにやってきました。やがて多少は物心がついたころ、彼にとって父親の職業は「カンボジアで車の運転手」でした。きっと私が何をやっているのかは、正確にはあまりわかってないまま成長しちゃったと思います。
小学校4年生のときには、ひとりでカンボジアにやってきました。もちろん、空港の送り迎えは日本では母親、カンボジアでは父親がやるわけです。飛行機会社の多くは、児童がひとりで旅行するのをサポートする制度があります。それを使ったわけです。でも、きっと彼には大冒険だったでしょう。
私は年に数回日本に帰り、数週間いてまたいなくなる父親でした。狭い家に、大きな身体大きな声の男性が定期的にやってきてはいなくなる。テレビ番組『ダーウィンが来た』で、オスの虎がメス虎をたま~に訪ねるという習性があることを特集したのを見て、彼は「家と同じだ」と言ったそうです。
やがて、私と彼の母親は、いろいろと対立することになりました(彼の誕生以前から対立はあったのでした)。最近彼が彼の祖母(私の母)のところで語ったことによると、父親と母親が仲が悪いのはごく普通のことで、他所の家庭もそういうものだ、と彼は思っていたそうです。両親の口論とか、それが普通だと。この世に仲良し夫婦がいることなんか、知らんかったと。
彼にももちろんずるいところがあった。母親が彼のことで相談に私に国際電話してくる。つまりは彼の悪いところをレポートするのです。「じゃ、ぼくが直接夏草と話をするから、電話をかわって」と私が言うわけ。けれども、母親が呼んでも、彼はけっして電話に出ない。切なかったなぁ。
私は、途上国の教育支援の仕事をぜったいに続けるつもりでした。日本で後方支援をする仕事ももちろんあったわけですけれど、私はなんとしても現場で仕事をしたかった。いくら家族のためであろうとも、そこは譲らない、と心に決めていました。その理由は、まぁ、ここではおいておきましょう。
ですから、夏草の母親がピンチのときにも、海外での仕事から撤退するという選択をしませんでした。また、彼らを海外に呼び寄せるという選択もしなかった。一度だけ、夏草をカンボジアでしばらく預かるという話はあったのです。飛行機のチケットもとって、彼の小学校の先生たちにも協力をお願いし、半年ほど欠席になることも承諾してもらっていた。けれども、フライト予定日の2日前に母親が決心を翻して、彼のカンボジア長期滞在は結局なされませんでした。あのとき彼がカンボジアにやってきたらどうなっていただろうと、今でもときどき妄想します。
彼が生まれたとき、私たちは夫婦別姓でした。事実婚というスタイルだったのです。事実婚の場合、子どもの親権は母親にあります(父親に親権を持たす方法もないわけではないのですけれど、その場合は母親が親権を持てません。注:最近、共同親権が日本でも認められる法律が通ったと聞いています。詳細はよくしらないのですが。ですから事実婚でも共同親権が持てるようになったのかもしれません)。
あるとき夏草の様子が心配で、小学校にカンボジアから電話をかけました。それまでも何回か学校とは電話連絡を取っていたのです。ところが、そのときは「親権のない方にお子さんの情報を伝えるわけにはいかないのです」と言われたのです。
そして、私は母親の許可なく、夏草と連絡を取ることができなくなりました。そして、彼女と私は、すでに壊れていた事実婚を自然解消することになったのです(注:これはもちろん私からの一方的なストーリーで、彼女には彼女のストーリーがあるはずです)。
中学・高校とまったく交流なしでした
彼は、お父さんとは会ってはいけない、と思っていたそうです。
私がルワンダで交通事故にあい、脊髄損傷で日本に運ばれたのは2014年ですから、彼は中学生です。一度だけ、母親に連れられて病院に見舞いに来てくれました。けれども、5分経ったら母親が帰ろうと言い出して。驚く彼に、私は、まぁお母さんの言うとおりに今はしなさい、とベッドの上から伝えたのでした。彼は振り返って手を振ってくれた。
彼が高校生のころ、私は家庭裁判所に面会交流に関して民事裁判の申請をしました。それもなかなか上手く進まなかったとき、調停員にこう言われたのです。
「高校生にもなれば、会いたければ会いに来ますよ」
なるほど、もっともだ。
私は裁判を取り下げました。
そして、彼のしらないところで、私はカンボジアでまた性懲りもなく結婚しました。カンボジアの彼女は、私の大怪我をきっかけにプノンペンでの仕事を辞めて、日本に来てくれた。
あるとき、ひょんなことで高校生の彼が当時私たちが暮らしていた北浦和の賃貸マンションを訪ねてきました。初めて継母に出会って、さて彼はどう思ったのかな。一晩泊まって、翌日、迎えにきた母親に連れられて帰っていきました。
その後、高校を卒業し、浪人した彼は、やはりいろいろあって浅草の私のマンションに転がり込んできました。私たち夫婦は一ヵ月後にいよいよプノンペンに本格的に戻る予定で、北浦和の賃貸は引き払っていたのです。北浦和を去る前に、悩んだすえに、東京に滞在できる場所を作っておこうとなんとか用意したのが浅草の隠れ家(マンションの一室)でした。私たちが留守のあいだは、妹の長男、つまり私の甥っ子(大学生)が念願の独り暮らしをするということで留守番役が決まっていて、すでに三人で暮らしていた。そこに夏草が飛び込んできたのです。幸い、甥っ子と夏草は、子ども時代にけっこう交流があり、仲が良かった。何年振りかの親交復活でした。そして、一ヵ月後に私たち夫婦は予定通りカンボジアに飛びました。浅草での若者ふたりの共同生活はその後半年続き、やがて夏草は地方の大学に進学していったのです。
今も彼は元気でやっています。ごくごくたまに連絡は取りあっています。正月になると、私の母(彼の祖母)を訪ねてお年玉もらうことも忘れずにやってくれています。祖母孝行はありがたい。
トラウマ(?)
父親の不在、がどれだけ幼い子に影響を与えるのか。一言で一般論は語れたとしても、内実はケースバイケース、一言では語れないことばかりなのだと想像します。
夏草の場合はどうなのか?
両親がいつも仲が悪いのが普通だと思った幼少時代を送ったとして、それがトラウマにはなっていないだろうか?
母親との母子家庭の中で、彼はどうしたって母親に支配されたし、そして反発もしてときには暴れたこともあったらしい。母親を叩いたこともあった(許せ、ブログで書くのは家族間のルール違反かもしれないけれど、これを書くことは私の毒親ぶりを晒すことが目的だから勘弁してください)。共依存のような心理状態もあっただろう。
そういう嫌な思い出は、マグマのように彼の心の奥底に眠ってはいないか? そして、それが将来、彼が愛する家庭を持ったときに、噴き出してきたりすることはないか?
彼の自立は、順調なのだろうか?
彼は外面はいいらしい。私も、わりといい。私の父(彼の祖父)は、めちゃくちゃよかった(小学生のころ、父の職場を初めて訪ねて、とっても明るい社交的な父を目にして、私はびっくりしちゃったもん)。
そして彼はかっこつけだ。私も、私の父(彼の祖父)もそうだった。
だから、彼は彼の父親である私に、格好悪い情報は伝えたくないだろうと想像します。あのとき、頑として電話に出なかったころと同じように、情けない話を私の耳には入れたくないと思っているだろう。だから余計に父親(私)は心配する。
もちろん、彼のトラウマ、DVの経験、などが彼の自立の障害になっていたとすれば、その一因は私にある。私と彼の母親に責任がある。
そして、責任の取りようは、ない。やり直しは効かない。
祈るしかない。彼の平安を。
大学進学時、彼に伝えたこと3つ。
その壱
「いやもいやよも好きのうち」という考えは一切捨ててください いやと言われたらやめよ。
その弐
もし幸せにもそういう機会があるときには、避妊はしっかりしてください。
その参
町金融からお金をかりないこと。どうしても金が必要なら相談にのるから。
覚えて守っていてくれているといいけれど。もちろん、この3つだけで人生の平安が訪れるわけではない。そして、平安が人生第一に求めるものなのかどうかも、実はよーく考えたほうがいいのかもしれない。
子どものトラウマの本を読む。なるほど、と思いながら読む。親としての自分のことを振り返って、あぁこれ当てはまるんじゃないか、なんて思いながらページをめくる。先日もあるインターネットでの勉強会で、トラウマがテーマになった。自分のトラウマよりも、私が傷つけた人たちのトラウマが気になった(ちなみに、私が傷つけてきた人たちは、君一人にとどまらない。君のお母さんもそのひとりだし、まだ他にもいる…)。
甥っ子は言ってくれる。「夏草はけっこう哲也さんの影響を受けてると思いますよ」(甥っ子は叔父である私を哲也さんと呼ぶのです)。うーん、影響には良い影響と悪い影響があるからなぁ。安心はできません。
こうやってジクジク考えたりしているのは、実はトラウマは私のほうにあるのか? ま、それならいいのだけれど。
この秋、私は上京する予定があります。そして、日本滞在中に、私は数日の旅を予定していて、彼にレンタカーのドライバーを頼んでいるのです。さて、どうなるのか。楽しみではあるわけですけど、さて、さて。
蛇足: 海外支援に携わる中で、子育て問題はわりと大きな課題です
以下、蛇足を簡単に。
海外支援を志す私よりも若い方と出会うことがあります。もちろん、男性も女性もいる。年齢も様々です。海外支援の思いを実現しつつ、あなたの人生に幸多かれと思う。
働いてきた中で、もちろん多くの仲間、同僚と知り合いました。男性がいて、女性がいる。家庭を持っている人もいる、いない人もいる。お子さんがいる人もいる、いない人もいる。私のように離婚経験がある人もいる、ない人もいる、これからするかもしれない人もいた、かもしれない。
やっぱり、自分とパートナーとの問題はさておき、子どもってのは大きな課題です。多くの事例は、中学校や高校ぐらいの年になると、その両親のどちらかが日本にお子さんたちと帰る。任国/任地に日本人学校があっても、中学校までですから。あるいは両親ともに子どもと帰る。あるいは、子どもだけ帰ることもある。私のように、最初っから単身赴任を繰り返す事例もある。中には、親だけ帰って、子どもはインターナショナルスクールで海外で勉強を続ける、なんてケースも知っています。
最後のケースはね、お金が必要です。親が高い学費を負担できるだけの財力があるから、それができた。
そんなお金をもらいながら海外支援をするためには、その職場はやはり限られる。いわゆる国連関係とかかなぁ。NGO/NPOでそんなお金をねん出するだけの給与をもらうのは無理でしょう?知らんけど。 最近は、JICAでも職員や専門家の家族連れ海外滞在中の子どもの学費支援額は減っていると聞いたことがあります。もちろん、途上国の公立学校で学ぶという手もある。これは一番お金はかからない。そして、それを選択している人ももちろんいる。何人もいるよ。
そして、両親が分かれてしまい、海外支援を続ける母親と海外で過ごすお子さんもいた。同じ状況で、父親と過ごすお子さんだっていた。つまりさ、なんでもあり。子どもはみんな、それぞれしぶとく生きてくれてたように思うのです。
どうしたって、いろんなケースがある。ちょっとしんどいことになっている親子、そして夫婦だっている。
人生をかけて海外支援をするならば、そういう課題が出てくることからは避けられない。私は毒親だけど、それはある意味海外支援に向かって特攻してきたから。そういう人生もある。ほめられるわけでもないし、もちろん勧めるわけでもないです。
で、あなたはどうする。
どうぞ頑張って。もしパートナーさんがいるなら、よく話し合って。あとはやってみるしかない。そして、また考えるしかない。そして、子どもは子どもの意見がある。
健闘を祈ります。なにがあっても、でも、そして、人生は続くよ。

















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