黒板が歪んで見えるような気がした。思わず手を壁について身体を支えた。どうも真っ直ぐに立っていられない。理数科教師として青年海外協力隊に参加し、ケニアのクウィセロ中等学校での活動がもうすぐ1年になるころだった。クリスマス前の学期末試験を控えて、大事な授業の最中だったような記憶がある。
あまりに目眩がひどいので、午後は休んで自宅に戻ることにした。ところがその道筋をまっすぐに歩けない。船に乗って大波に揺られているような感覚が続いて、船酔い状態なんだ。もちろん吐き気もする。ようやくの思いで自宅に帰り着きベッドに倒れ込むと、天井がぐるぐるとまわった。
昼過ぎにクラッシャーという名の生徒が様子を見にやってきた。本名は別にあるはずなのだけれど、みんなが彼のことをクラッシャーと呼んだ。大きな体躯の最上級生で、たしかになんでもクラッシュ――ぶっ壊して――しまいそうないかつい顔つきをしていた。赴任した最初の日に、校長が「水運びとか、なんでもこの子に頼みなさい」と紹介してくれたのがクラッシャーだった。それ以来、彼はぼくの世話係として毎日学校が終わるとぼくの自宅に来て、掃除やら水運びやら手間仕事をやってくれた。さらには週末や休暇中の留守宅の管理も、彼に任せれば何の心配もいらなかった。
クラッシャーは、ぼくの様子をみると校長を呼びにいき、さて、どうやってぼくをキスムの病院まで運ぶかという話になる。船酔いがひどく他人の運転する車に乗りたくないぼくは――だって吐き気がひどくて車内でゲロしてしまうのは嫌だった――、結局無理を通して自分で50㏄のバイクにまたがって、トロトロとゆっくりキスムに向かった。途中のガソリンスタンドでは、バイクを停めるなり、スタンドの片隅で横にならせてもらった。子どもたちが不思議そうに集まってきたけれど、もうそんなこと知ったこっちゃない。ようやくキスムにたどりつくと、さらに夜行列車に担ぎ込まれた。翌朝、ようやくナイロビの病院になんとかたどり着いた。診断名は右耳の内耳炎。バイ菌が内耳に入って炎症を起こしていた。それで三半規管がやられたんだ。数週間、治療を受けながらナイロビで静養することになった。
ナイロビ滞在中、ボランティアを管理するナイロビ事務所の医務官のもとには、校長から何度かぼくの容態を尋ねる連絡が入った。携帯電話などない時代だ。医務官が「こんなに学校が心配してくれるなんて、そうそうはないんだよ」と誉めてくれた。とてもありがたいことだった。
年が明けてようやく体調が戻り、事務所からも許可が出てクウィセロにもどった。一ヶ月の不在中、クラッシャーはちゃんと自宅を守ってくれていた。
具合が悪くなったとき、学期末試験問題はすでに印刷して用意してあったけれど、手間のかかる採点がどうなったのかが、ぼくは気にかかっていた。けれど、帰ってみればすでに同僚が終わらせてくれていた。今振り返ると、この病気を境にしてぼくはクウィセロ中等学校の一員として、しっかりと腹がすわったように思う。本当に何ごとも〝塞翁が馬〟なんだ。
クラッシャーは、よくぼくの家で夕食をとっていった。校長が彼にぼくの世話を任せたのもなるほどと納得させるだけの人材で、怖い顔に似合わず、彼はとても繊細で気遣いができる青年で、いい話し相手でもあった。彼からは、ケニアについて多くを学んだ。
あるとき何かの話の流れの中で、彼にはすでに子どもがいることを知った。その子は母親のもとで元気に暮らしているという。ぼくはおおいにびっくりしたけれど、学校には子持ちの生徒は何人もいることをすぐに知ることになる。特に男子生徒には多かった。そしてそんな男子生徒の多くは、子どもは生みの親――つまりガールフレンド側――に任せっぱなしだった。一緒に住んでもいない。つまり恋愛に落ちて子どもができることと、扶養の責任や結婚とはかなり別の話なんだ。
ただ女性の場合、妊娠した後に学業を続けるのは大変そうだった。子どもを持っている数少ない女子生徒は、妊娠した段階でいったん学業を止め、出産後どうしても学業を続けたくて別の学校(それが彼女たちの場合はクウィセロ中等学校だった)に入学し直したんだ。そんな場合、日中、子どもの面倒をみるのはその女生徒の両親だったり、姉妹だったり、叔母だったり。子どもができて学業を諦める女子は、かなり多いのだろうと思う。それに対して、男子は産ませっぱなしでもたいした問題ではないような雰囲気があった。残念ながら、そんな風潮に甘えるかのように、女生徒をレイプする男性教師の例も少なくないのだと聞いた。
クラッシャーによれば、子どもができて結婚したくても、結納金が支払えなければ女性の親がそんなチンケな男が娘と結婚するのを認めないのだという。婿側が払うべき結納には牛何頭という基準があって、学生の分際でそれを負担できるわけがない。だから結果として〝産ませっぱなし〟になるのだという。でもそれはそれとして、求めあう男女を咎めるのは野暮なんだ。
なるほどなぁ。なんとなく男性側に都合がいいような気もする。けれど、妊娠は女性にとって自分の〝生産性〟を証明する〝誇り〟でもあり、父親の知れない子どもが差別されることもないと聞くと、むしろ男は〝種〟と〝財力〟として存在するだけの、道具みたいなものという気もした。
ジェンダー(社会的性差)を学び、それが指摘する歴史的な〝社会による女性の搾取〟が現代に及ぼし続けている不公平の是正を訴える価値観に、ぼくは強い共感を覚えるけれど、それが世界の隅々まで拡散するにはまだ何世代もかかるだろう。そして拡散後に再構成される新たな性差も、様々な社会が持つそれぞれの文脈によって、多様な姿を見せるだろう。社会に完成形はないのだなぁとつくづく思う。
ところで、クラッシャーは元気だろうか。もしかして、彼なら経済的な成功を得て、今頃は複数の妻を娶っているような気もする(クウィセロに多く暮らしていたルヒアの人たちの社会は、多くはクリスチャンで、さらに一夫多妻制だった)。チビクラッシャーたちに囲まれた彼の笑顔を想像すると、なんかとても楽しい気持ちになる。今、彼に会ったら、きっと泣くな、ぼくは。

















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