自分で考えて取り入れてきた価値観
参加型開発を唱えたのは、ぼくにとってはロバートチェンバースだ。彼の思想を日本の開発関係者に広げたのは野田直人さんたちぼくより少し上の世代の人たち。その思いに触れたのは、ぼくがフィリピンのミンダナオ島ダバオで働いていたときだったはずだ。
それまでの国際開発の有り様を「開発様(開発コンサルタント)が降りてくる」かのように辛辣に表現したチェンバースの参加型開発の哲学を知ってしまえば、もう引き返すことは絶対にできない、とぼくは思った。チェンバースによれば、それまでの開発は、「開発ストーリー」という教科書を持って現れる先進国出身の開発専門家による押し付けでしかなかった。なるほど、そのとおりだ、とぼくは思ったんだ。「飢えた人がいたときに、魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」という考え方だって、上から目線の専門家気分丸出しの教えだと思った。
ならば、どうするか?
同じころ、複雑系の考え方にも出会った。ぼくにとって複雑系とは「物事をコントロールしようとしてもあんまり意味はない」という啓示だった。コントロールしようと努力することにエネルギーを使うぐらいならば、もっと他のことにエネルギーを使ったほうがいいと、とっても強く思った。おそらくぼくはフィリピンでの仕事に行き詰まりを感じていることがあったのだと思う。複雑系の考え方は、その行き詰まりに対する視点の角度を変えてくれたのだろうし、また参加型開発の考え方は、やはりその行き詰まった状況(というかぼくのモヤモヤした気分)に、新しい風を吹き込んでくれたのだと思う。参加型開発も、複雑系も、とても素直にぼくの心に染み込んできた感じを、今でもよく思い出す。(複雑系との出会いについては、以下のブログで書いています。)
コントロールしない – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
フェミニズムについては、フィリピンで働く前にすでにいくつかの書物を手に取っていたと思う。中でも忘れられないのは『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(ちくま文庫 2004)、タレントの遥洋子さんの名著だ(この本との出会いの衝撃についても、以下のブログで書いています)。その後も、上野さんの著作を始めとして、フェミニズムの本を手にすることは多かった。
ぼくにとって、フェミニズムはけして女性解放だけの思想ではなかった。「長男ならば、親の面倒を見るべきだ」(あまりそうボク自身の親から言われた覚えはないけれど)とか、「男が家族を養うのは当たり前だ」とか、そういう男性ならば当然果たすべきだという社会的役割分担からの開放にもつながる考え方が、とても心地よかった。
ぼくの両親はけして保守頑迷というタイプではなかったけれど、やはり時代に学んだ男尊女卑の価値観を持って生きていたし、それをぼくと妹ふたりにも当然、意識的にあるいは無自覚的に日々の暮らしの中で伝えていた。たとえば、ぼくは食後の洗い物という仕事を強要されたことはなかったし、妹たちは当然のように強要されていた。洗濯物をたたむのだって、妹たちは命じられていたけれど、ぼくはやったことはなかった。
それが「変だ」と気がついたのは20歳ごろだったと思うけれど、その「変だ」という種が芽を出し丈夫な葉を茂らせてくれたのは、フェミニズムとの出会いだった。
『酒と泪と男と女』はもう歌えない…… – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
参加型開発、複雑系、フェミニズム。すべて一度知ってしまったら引き返すことはできない考え方だとぼくは思った。国際開発に従事する者として、参加型開発の考え方を知った後、自分の仕事の中身を顧みないでいられるなんて信じられないし、複雑系もフェミニズムも国際開発だけではなく、自分の生き方や価値観そのものを揺さぶらずに済ますなんて、考えられない大事な考え方だと思ったし、今もそう思っている。ぼくが大学での開発系のカリキュラムを組むなら、この3つは必修科目とするだろう(それも、どこかで以前に書いたかな)。
自分で判断してきたと思っていたことは、実はすべて外部からの影響を都合よく取り込んできた結果に過ぎなかった!!!???
ところで、ぼくは参加型開発も複雑系もフェミニズムも、自分の意志で自分の価値観に取り込んで仕事に活かしたり、日々の生活の肥料にしてきたと思っている、というか、思っていた。つまり、そういう価値観は、ぼく自身が自己で判断して、自分で決定して、決めてきたということです。もちろん、自分自身で辿り着いたものではなく、あくまで他者の考え方から学んだことではなるのだけれど、それを良い考え方だ、もっともな思想だと判断して、自分の中に取り込むことをしたのは、ぼく自身で考えてのことだと思ってきた。
そういう価値観のことだけではない。ぼくが国際開発を仕事にしようと思ったのはぼく自身がそう考えたからであり、当然、自己決定したのだと思ってきた。つまり、ぼくは自分の職業を自由に選択してきた。職業だけではない。どう生きるかを、ぼく自身が判断し、自由に決めてきたと思ってきた。「自由」というのは、ぼくにとってとても大切な価値だ。他者から「ああしろ、こうしろ、こうあるべきだ」と言われて自分の進路や価値観を決めてきたのではなく、自分で決める。それは現代を生きる者として、当然の権利だと信じてきたし、自分の周りの人もそうであって欲しいと思ってきた。「君の好きなように生きよ」と息子にも伝えたいし、一時期は「stand alone(一人で立て)」つまり自立・自律せよ、が自分のテーマのように思っていたし、無遠慮に他者にすら「一人で立て!」と語ったりしていた。その背景には、人はナニモノからも自由であるべき、という価値観があった。(障害者となった今となっては、「stand alone(一人で立て)」というのは狭い世界で生きていた物を知らない傲慢さゆえの思いだったと、思い出しては赤面しているけれど。ただ、それでも自由であれ、というのは揺るぎない価値観のつもりだった。)
と、ここまでが本稿の長ーい前置きなのです。
今、小坂井敏晶さんという方が書かれた『社会心理学講義 〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩選書 2013)という本を精読している。小坂井さんは、フランスで教鞭をとる社会心理学者で、1956(昭和31)年生まれの方だ。彼の本には、越境というテーマを強く意識し始めた数年前に手に取る機会があって、とても刺激を受け、その後も少しずつ読んでいる。そして、今回、彼自身がとても力を入れて書かれたと想像する大著に、いよいよ挑んだということなのです。
この本から学ぶことは多々あるのですけれど、今回は個人の自由意志というところに焦点をあてます。小坂井さんは多くの心理学者の過去の実験を紹介しています。その中でもレオンフェスティンガーという20世紀の米国の心理学者が打ち立てた「認知的不協和の理論」は特に重要です。この場では「認知的不協和の理論」の詳細は省きます。とにかく、心理学の上ではとても重要な論考で、強い説得力をもった説なのだということだけここでは書いておきます。
その上で、小坂井は以下のように書きます。
意志が行動を決めると我々は感じますが、実は因果関係が逆です。外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に合致する意志が形成される。そのため意志と行動の隔たりに我々は気づかない。つまり人間は合理的動物ではなく、合理化する動物である。これがフェスティンガーの答えです。(上記の『社会心理学講義』 162ページ)
この謎(村山注 フェスティンガーの理論をめぐる夥しい実証研究において、「したくない行為を自由意志の下に行う事例が多数みられる」こと)はしかし簡単に解ける。実は被験者は自由意志によって行為するのではありません。ミルグラムやリベットの研究が如実に示すように人間は自由な存在ではない。自由であると錯覚するだけです。自らが主体的に選択したと思っても、我々は知らず知らずのうちに外界からの情報に影響を受けて判断や行動をしている。(上記の『社会心理学講義』 193ページ)
ミルグラムの研究とは、ある環境下では多くの人が他者に拷問に類することをたとえ嫌々ながらでもしてしまうことを実証した有名な実験です。リベットの研究とは、手を動かすなどの行為に対して脳が「手を動かす」と意識する以前に、すでに無意識の領域で手を動かすことを決定していることを示唆したやはり有名な実験です。
ミルグラムの研究によれば、人間は権威の前では自分の意志に逆らって他者に痛みをもたらすことができる存在だし、リベットの研究によれば、自分で判断して実行したという行為も実は無意識で判断しているのであり、その無意識に対して「自分で判断した」という意識が後付けされていることを示しています。つまり、人は権威(外部)や無意識によってコントロールされているのであって、けして個々の自由意志で物事を判断しているわけではない。そしてフェスティンガーの認知不協和の理論も、それを支持する結果だというのです。
さらに、個人主義者ほど、外部からの意見に影響を受けやすいのだということも小坂井は書いています。
この理論(村山注 認知不協和理論)を推し進めると、個人主義者ほど簡単に意見を曲げやすいという、常識とは反対の結論が導き出されます。他人の意見に流されず、自分の頭で考えて判断・行動し、自らの行為に対して責任を持つ。そんな自律的人間像が近代社会の理想です。しかし心理機構の原理からして、そんな人間は実際にはありえない。したがって個人主義的とは、外部情報に依存しても、その事実に無自覚だという意味にすぎません。んならかの行為を行った後で、「何故このような行動をとったのか」と自問する時に、個人主義者ほど自らの心の内部に原因があったのだろうと内省し、自らの行動に強い責任を感じやすい。そのため行動と意識との間の矛盾を緩和しようと自らの意見を無意識に変更する。こうして個人主義者こそ、強制された行為を自己正当化しやすい。(上記の『社会心理学講義』 194ページ)
つまり、ぼくのような「わがまま者、自分勝手(母がぼくを称して使う言葉)」で、つまりより個人主義的性格を持つ者こそが、外部からの影響をより多く取り入れて物事を判断しているというのです。
それを受けて、ぼくなりに仮設を立ててみました。
ぼくが海外、特にアフリカに将来の進路という文脈込みで興味を持ったのは中学生のころです。その前、ぼくは有名進学中学校を受験して失敗しています。つまり、受験競争に参入して、そのメインストリームから弾かれた。そのことが背景にあって、現実逃避としてアフリカが意識された可能性は否定できません。さらに、アフリカに興味が向くきっかけとして、ドリトル先生や、野口英世、シュバイツァーがいます。どれも、進んだ世界の住人である勇者が遅れた世界を救いにいくお話です。受験戦争から離脱したぼくは、しかし勇者として劣った人たちを救いにいくという物語に自分を投影することで、自己崩壊を防いだのではないだろうか。
さらに、ぼくは進学公立高校に進みましたけれど、すぐに成績でトップクラスを維持する(中学校まではそれが可能だった)ことから離脱します。言い訳としては野球がありました。けれど、野球で勝負するならば、野球の強い高校を選べばいいのに、ぼくは野球では弱小だった進学校に進むことは良しとしました。つまり、ぼくは野球でも最初から逃げの一手を用意していたのです。確かに野球には熱中しました。けれども、俯瞰的に見れば、進学競争からも野球の競争からも、ぼくはすでに積極的に離脱しています。中途半端です。本気で勝負にいって負けるのが嫌だったのです(実は、中学受験に失敗したことがトラウマになっている?なっていた?のかもしれません)。それでも、勇者として弱者を救うストーリーは保持し続けました。そのことが、ぼくの中途半端さを隠蔽することになったのでしょう。
つまり、ぼくは途上国の開発支援という仕事を自分の強い意志で追い求めたように見えて、実は単に現実逃避の結果でしかなかったのです。しかも自分の優越感は維持できる、都合のいい選択でした。
しかしやがて、「勇者が弱者を救済する」という物語そのものに破綻が生まれる。ぼく自身の力の限界もありましたし、開発を侵略や植民地主義の文脈で語れなくなっての試行錯誤の時代を経て、たとえばパウロフレイレの『抑圧者の教育』といった開発される側からの思想の広がりが一般化していたという背景もあった。そんなときに出てきた「参加型開発」や、ものごとはコントロールできないという「複雑系」の考え方は、ぼくにはとても都合のいい〈エクスキューズ〉だったのです。渡りに船、というやつです。
フェミニズムもそうです。海外に仕事を求めることで、長男としての責任を果たせないという無意識の負担を軽くするには、フェミニズムの考え方はぼくにはとても都合がいいものでした。子どものころは皿洗いもしなかったくせに(長男としての恩恵に預かっておいて)、大人になると「親の世話をするのに、長男もへったくれも関係ない」と言い出して長男の立場を放棄するのです。なんと強烈なご都合主義でありましょうか。フェミニズムが正しいから共感したのではなくて、あくまでそれがぼくには都合がいいから共感したのだ。けれど、それではあまりに虫が良すぎるので、ぼくの意識の中ではフェミニズムの思想を良しとし共感しているのだという後付の理屈が創作されたのです。俺ってより進歩的なやつという優越感にも浸れるわけで、一石二鳥でした。
なるほど、そういう仮設を立てると、いろいろとそうなのだなぁと納得できたりもするのです。ぼくはぼくの自由意志でぼくになったつもりでいたけれど、どうやらそうでもないらしい。
参加型開発も、複雑系も、フェミニズムも、それが社会的により正しいから共感し実践しようとしたのではなくて、あくまで都合よく流行に乗って自分の不甲斐なさを隠蔽するために賛同したに過ぎない。途上国の開発支援を仕事にしたのだって、長期に渡る多くの中途半端さを隠蔽するための方策に過ぎなかったのです。負けない勝負を選んできただけだった。ふーむ、なんてこった。(というところで、今回はいったんオシマイにいたします。続きはまた。)

















自分はどうだったのかなぁ?と考えながらおります。
セタリンが同級生というだけで、ほとんど、何も考えずにカンボジアと関わり始め、現在に至ります。障害児教育には35年関わっておりましたので、支援される側が支援をどのようにとらえているのかを常に当事者と直接に話しながら活動しております。私は幸いだったのは、最初であったのが中学生高校生(もちろん、同僚には視覚障害者はたくさんおりましたが)だったので、彼らの成長とともに、障害のある人へのかかわり方について自分へ問いかけることが多かったことです。多くの仕事をともにさせていただきました。点字の国家公務員試験や地方公務員試験の実施、弱視の各種試験への配慮、今なお、続く盲導犬使用でのトラブル是正等、本当に幸いでした。当事者と話しながら、これは本当に必要なのか、この波及効果はどうなのか、障害者ゆえの「甘え」とみられているのではないかなどなど、飲みながら侃々諤々の議論を戦わしたのが懐かしいです。彼らから私へ厳しい意見もたくさんありました。それをもとに議論することもたびたびでした。
私は彼らとのかかわり方をベースにしてカンボジアで活動しています。
雑駁な感想ですが。
間々田和彦様
いつもコメントありがとうございます。また、AEON2で間々田さんたちと出会ったよぉと妻から聞きました。お元気そうで何よりです。
こうして自分の歩みをある程度客観的に見ることができるのも、そこそこ年齢を重ねてしまったからかなぁと苦笑するのでありました。自分が、自分ひとりで自分になれたわけではないことは、日々、常に感じます。歴史と社会からは絶対に自由ではありえない。そして周りの人たちからも影響を受けつつ、今の自分が出来上がっていると。それを、改めて確認しただけです。さて、では自分が大事にしてきた「自由」とはなんなのか。もう少し考えているところです。
ところで、別件。友人から、間々田さん、もしかして以前に麻布大学で授業を持っていたのではないかという問い合わせをもらいました。彼は麻布大の出身で間々田さんの授業を受けたのではなかったかというのでした。同性で障害者教育をされている同世代の方がおられる可能性は高くないので、おそらく間々田さんご本人ではないかしらと私は勝手に想像しています。
友人はカンボジアで働いていた時間が長く、パートナーもカンボジアの女性です。今は日本で働いていますけれど、きっとそのうちプノンペンにも遊びに来るでしょう。その際には、またご紹介しますね。と、もうほとんど彼の問い合わせは間々田さんのことだと思いこんで書いております。
ではでは、またまた。
村山哲也
村山さん、お返事ありがとうございます。
村山さんの御友人の件、世間は狭いですね! 麻布大学は、今年で22年目。夏の集中講義です! 教職課程の「特別支援教育論(以前は特殊教育学)」です。去年と今年は、対面講義ができないので、後期に週一、オンラインで担当しています。カンボジアへおいでの折は、是非、ご紹介ください。
ちなみに、同姓で障害児教育の研究者はおりません(たぶん。会ったことがないので)! 研究者:農業経済ですと、間々田がおりますが、息子です。化学にも間々田がおりますが、甥です。
間々田和彦様
やっぱり、でしたか。しかも現在も継続中とのこと、いやいやすごいすごい。
しかも、息子様とか甥っ子殿とか、なんかすごいファミリーじゃないですか。
件の彼が麻布大学生だったのは、間々田さんが麻布大で教えた初期のころのことのはず。
とにかく彼が来カの際には、ぜひご紹介しますね。
村山哲也
お返事ありがとうございます。その彼と同じくらいに教えた学生とは、一人、二人今も付き合いがあります。ぜひお目にかかりたいですね。
ちなみに息子は愛媛大学農学部の准教授で、甥は昔の鉄道総研に勤務しています。