「突然のご連絡失礼します…」
あれ、この方誰かしら?という差出名のメールが届きました。読み始めて、「今日はエイプリルフールではないよな」と自分で自分に確認を入れてしまう、そんな内容のお便りだったのです。本当に驚きました。以下、全文です。
村山哲也さま
突然のご連絡失礼します、荒木香帆と申します。
学部を卒業して大学院に入ったものの、1年間休学し、次の4月から専攻を変えて大学院に入り直す者です。私がこれまで読んだ本の中で、1番心に残っているものが『超えてみようよ!境界線』です。たまたま今日ブログを拝見し、これは是非お礼を申し上げたいと思いご連絡しました。
私がこの本を読んだのは大学2年生のころです。コロナのため大学に通えず、地元の図書館で本を見つけました。大興奮で本の内容を家族に話したことを覚えています。
境界線について、海外に出たことがなくても共感できることばかりで、私が境界線を引いていたからしんどかったのかもしれないという人間関係を思い出したりしました。でも、村山さんは、境界をつくることを否定せず、でも消えることもあるよ、と伝えてくださったことに、勇気や希望が持てました。
感想を言葉にすると、漏れてしまうことが多そうでもったいないのですが、私はこの本を読んで何かとても大きな希望が持てました。
それから2年後、私はボルネオ島の児童養護施設で1か月過ごしました。1か月間で地域の人に戦争体験を聞いたり、博物館で日本兵の服や拳銃が飾られているのをみたとき、「日本人である私」を強く意識しました。
日本兵が侵攻してきたとき村人はジャングルに身を潜めていたんだよ、と聞いた夜、丘の上で寝転がって星空をみたときに、かつては憎しみ殺し合った場に自分が存在していることに、言葉にできない感情を持ちました。地域の人と関わる中で、「日本人である私」を超えた私にできることを模索することもできるのではないかと感じました。
無国籍の人々(不法移民)が隠れて生活している場にも行きました。
皮膚病がありケガをしているのに血を流したままの子どもたちが声をかけてくれました。親には警察が来たら逃げなさいと言われているのに、「将来は悪い人を捕まえるために警察になるんだ」と話していました。また、「僕には夢があるけれど学校に行っていないから叶わないことは知っているんだ」と話してくれた子どももいました。
私はその言葉をどう受け止めていいのか分かりませんでした。話をしたら、国籍関係なく、今を生きている人間同士なのに、「日本に帰ったら大学で学べる自分」がいることも、彼らが地域内で差別されていることにもすごくモヤモヤしました。
日本に帰り、境界線を越えてみようと、いろいろな学部の授業を受けました。高等部を卒業した障害のある人が大学で学ぶ機会をつくろうという活動にも約1年間参加させていただきました。その繋がりで、先生のフィールド調査について行き、重度知的障害を持つお子さんがいるお母さんへインタビューを行いました。境界線を越えるたびに、これまでの自分(持っていた価値観)が崩れ去り再構築する過程を経験しました。
「日本にも困っている人がいるのに」「ただの学生なのに」「あなたがやっていることはたいしたことじゃない」「まず経験を積むべき」などといろんな言葉を投げかけられ、迷いに迷いつつも、4月からは専攻が教育から開発、地域研究に変わります。大学2年の頃に本を読んだことがきっかけで、多くの人に出会えたことに感謝します。まだまだ知らないことやできないことばかりで、もっと経験を積んだときに村山さんの伝えたかったことについてさらに考えが深まるときが来ると思います。専攻を変えるという選択が合っていたかは分かりませんが、これから出会う人たち、見れる景色、学べること感じることがたくさんあると信じて進んでいきたいと思います。
自分の話がかなり長くなってしまい申し訳ありません。村山さんの本にもらった勇気と希望がここに繋がったということをお伝えしようとするととても長くなってしまいました。
コロナで大学で学ぶ意味を見失っていた時でもあり、村山さんの語り方もすごくあたたかくて面白くて、勝手に本の中には仲間がいると感じていました。1冊の本の中で、すごくワクワクしたり考え込んだり自分を見つめたり、世界と自分の心の中を旅しているような感覚で、読み終えた時には新しい自分がいるような気持になりました。さまざまな経験や感じたことを本にしてくださり本当にありがとうございました。
村山さんのご健康とご活躍を心よりお祈りしています。
返信お気になさらないでください。
荒木香帆
もう、デへへへで、ございます。読者からのポジティブなコメントほど、本を作ってよかったと思わせてくれるものはありません。
荒木香帆さん、メールをくださってありがとうございます。本当に嬉しいです。
荒木香帆さんに『超えてみようよ、境界線』が届くまで その1
2014年8月末、ルワンダで地方での校長先生向け研修プログラムを終了して首都キガリに向かう車がスリップ事故で谷に転落してしまい。5歳7歳のふたりの幼女を含む7人が乗っていました。助手席に座っていた私以外は、みなルワンダの方々です。そのうち一人、幼女たちのお母さんである校長先生がなくなりました。おそらく頚椎挫傷でほぼ即死だったようです。生存者の中では、私が一番重症でした。脊椎は上から頚椎、胸椎、腰椎と3つのパートに分かれて、私は胸椎の6番目を脱臼骨折による脊髄損傷を受傷したのです。〈事故の詳細は以下で〉
ルワンダ ニャングウェ国立公園内で起きた事故 – 越境、ひっきりなし
私の入院暮らしは、11ヶ月続きました【ワンダの病院(3日間)→ ケニア・ナイロビの病院(手術込みで3週間弱)→ 東京 病院A (1ヵ月 傷口が膿んで縫い直し)→ 東京 病院B (3か月 リハビリテーション開始)→ 埼玉県所沢市 国立リハビリテーション病院(6か月 褥瘡治療 社会復帰リハビリ)】 ベッドの上で、さて、これからどうするべ、と考えました。
尻軽を売り物に途上国の教育支援にかかわっていた事故前の私でしたから、車イス者となっってしまった以上、これまでと同じような働き方に復帰するのは無理だと判断しました。
私の事故は幸いにも労働災害と認められ労災保険の支給対象となったことで、お金の心配はあまりありませんでした。だから、まぁ無職でもいいわけだけれど。もちろん食い扶持を心配しないでいいのは、精神的には楽です。けれども、まだ生きているのだから。収入の有無にかかわらず、何をするのか、やりたいのか? 幸運にも私はやりたいことを収入を気にせずに選択できる特権を手にいれたわけです。さて、どうする?
途上国の教育支援をやってきたという経験は活かしたいと思いました。なら何をする?
本を作ってみようとベッドの上で考えました。できればカンボジアの先生や若者たちに読んでもらえるような理科や科学の本。教科書ではなく、そうだなぁ、日本でいえば講談社のブルーバックスのような科学を楽しく学ぶような、ちょっと専門的なことも書いてあるような本。
もちろんそんな本はクメール語(カンボジア語)で書かれた本に違いありません。
私は、クメール語で書く能力はまったくない。けれども、最初っからカンボジアの人たち向けに文章を(日本語か英語でなら)綴ることはできる。
それは欧米や日本やで、それぞれの社会の読者向けに書かれたモノを原本にしてクメール語へ翻訳した読み物とは、やっぱり何か違うモノになるはずだ、と確かに思うのです。最初からカンボジアの読者を対象として書かれた理科本こそが、私の作りたい本なのです。
そして、クメール語という世界的にはニッチなところでなら、私にも食い込める余地があるのではないかとも考えました。クメール語オリジナルの本は、小説やビジネス本、啓蒙本が主で、理科エッセイみたいなものは翻訳本ばかり。競争相手は、まだそれほど多くないぞと。
けれども。
私は本を書いたこともなければ、作ったこともない。本を作るという作業全般に対して、もう少し経験や知識があったほうがいいようにも思いました。
それなら、まず日本で本を作ってみよう。車イスでの生活に慣れていかなくてはいけない私は、どうやらしばらくは日本で暮らすことになる。ならばその時間を、本づくりの経験蓄積につかえばいい。
さて、では何を書くか。自分のこととは無関係な対象を選んで、無から取材して書くことを目指そうと思いました。自分のことならいつでも書ける、と思ったのです。だから、最初はちょっと高いハードルを設定しようとしたのかな? 知らんけど。
荒木香帆さんに『超えてみようよ、境界線』が届くまで その2
退院後、私はテーマを決めてゆるゆると取材を始めました。人と会って話を聞き、資料を探してあちこちに出かけ、ついにはカンボジアでの取材旅行も敢行しました。そして、3年かけた2018年ごろ、ようやく「本」の第一稿ができあがりました。私はそれを出版会社が主催するノンフィクション賞に応募するつもりでした。へへへ、これはけっこういい線いくんじゃないかしら。
ところが、応募に向けて何度も構成を練り直し、校正も自分でして、さて応募期限直前となったところで、繰り返して取材をしてきた方から「本にするのはやめて欲しい」という申し入れがあったのです。え~~、それは大ショック!!もっと早く言ってよ!と思いました。すでに半年ほど前に、「こんな感じでノンフィクション賞に応募しようと思います」とその方には原稿を渡していたのです。けれども、それに対してのリアクションがないままだった。そのことは気にはなっていましたけれども、私も放りっぱなしにしていました。少々楽観的過ぎたのだなぁ。
会いたいといわれ、「すいません」と頭を下げられれば、もうそれは仕方のないことでした。もしその方が権力者であれば、「本にしないで」という申し出を無視するという判断もあったのかもしれません。けれどもその人は市井の人でした。無理を通すのは書く側の横暴だろうと思った。また、その方に忖度して内容を書き替えるという選択を私はしたくなかった。つまりその「本」は、あきらめるしかなかったのです。
「本」を断念するのは、とても辛い経験でした。でも、いいこともありました。それは、私がまず書きたかったのが《越境》についてなんだと「本」ができ上っていく中で気がつくことができたことです。
そして、《越境》というテーマで、今度は自分の経験を書き出してみたのです。こちらは取材しなくていいから、最初に書いた「本」よりはよっぽど楽に書けたようにも思います。
自分の子ども(当時二十歳近く)が高校生だったらという設定にして、彼に向かって書くというスタイルで、いくつかの文章を書き、それを束ねていきました。
そして、それらの文章を一冊の本の形にまとめ、自分で勝手に100冊ほど印刷して2020年3月ごろに、事故で心配をかけた方々、お世話になった方々に郵送したのです。その中の気の利くお一人が、その本を彼女の知り合いである本物の編集者に紹介してくれたのでした。編集者から「本にしたいから」と連絡があったのが2020年4月ごろだったかなぁ。そして、そこから『超えてみようよ!境界線』というタイトルの本ができあがっていったのです。
『超えてみようよ!境界線』が出た2021年1月は、日本だけでなく世界中がコロナ禍で大変なことになっていました。通常なら行われる宣伝活動は、一切できませんでした。ひっそりひっそりとした発売となったのです。正確にはよくわからないのですけれど、出版されたのは2000冊程度だったと思います。本を出してくれたかもがわ出版という会社は、図書館系に強いということを編集者さんから聞きました。2000冊のうち、半数前後が全国の図書館に散っていったようです。
そしてその1冊が、荒木香帆さんの手に届いたのでした。

『超えてみようよ!境界線 アフリカ・アジア、そして車イスで考えた援助すること・されること』
《以下は、本の発売直前に書いた2021年1月当時のブログです》
『超えてみようよ!境界線』いよいよ発売間近です。1月21日販売開始 – 越境、ひっきりなし
形にするって、大事だなぁ
とにかくさ、
「私がこれまで読んだ本の中で、1番心に残っているものが『超えてみようよ!境界線』です」
ですから。
これ読んで、狂喜乱舞しなかったら私、筆者じゃないよね。本をつくって、本当に良かったなぁって思うのです。形にするって、大事だなぁと改めて痛感する。
さて。次だよね、次。どうしようかなぁ。いくつか選択肢はあるのですけれど、どの道も遠路茫々に思えて。私、4月には61歳……、いったいどれだけ残り時間があるのだろう?
どっちにしたって、いろいろやりかけで終わるのはもうわかりきったこと、仕方のないこと。それにしたって、もう少しエンジン吹かして道を急いだほうがいいんじゃないか? でもさ、私、ご存知のように筋金入りの怠け者なんですよ。その怠け者が、下半身麻痺とか背中の疼痛からくる睡眠障害とか、とにかく言い訳盛りだくさん手に入れちゃってるもんだからさぁ。
そんな日々に、荒木香帆さんからのお便りは喝を入れてくれているわけです。うん、荒木香帆さん、本当にありがとうございます。お礼をささげるとともに、あなたの今日・明日・明後日・それ以降に心からエールを送ります。
フレーフレー荒木香帆!チョットズツススメ荒木香帆!イエ――――――――ィ だいじょうぶだいじょうぶ、なんとでもなるさぁ

















素晴らしいですね。村山さんの本が荒木さんの人生の道しるべになったんですね❤️
どちらかというと村山さんという人は紙派の人ではないように思いますが、『超えてみようよ、境界線』という本はやっぱり紙の本になることがよかったと思います。こだわりのない、力みのないタイトルですが一読して、自分の生活の中で《そうか、なるほど分かった、超えてみよう!》とサッと体が動くような感じになれる本ではなく、読みながら考えさせら、また読み進む本だと思うからです。紙の本でよかった。
私はこの本を読んでから自分の小さな生活の中で『超えてみようよ、境界線』の精神が生かされているように思われます。
しかし、この人がどこで、あれだけ豊富な読書量を積んでこられたのか不思議でなりません。