越境は冒険でもある。
少し遠回りになるけれど、一葉の写真を紹介する。

1965年9月6日、アメリカ軍部隊はクィニョン北方のロックチュアン村に攻撃をかけた。砲火に包まれて戦場と化した村から、二組の母子が必死にアン河を渡る。1歳の赤ん坊グエン・チ・クエちゃんを抱えた若い農婦レ・チ・ダア(当時24歳、右)、そしてチャン・チ・バア(49歳、手前)と彼女の次男グエン・ゴク・アン君(12歳、左)と長女チ・チンちゃん(8歳、中央)だった。そんな彼女らをとらえた写真は、「安全への逃避」と題され、世界各地の新聞・雑誌に掲載された。そして、1966年度のピュリッツアー賞をはじめ、数々の写真賞を受賞し、ベトナム戦争の悲惨さを改めて訴えるものとなった。[1]
この写真を撮った沢田教一[2]は青森出身の報道写真家で、ベトナム戦争の取材で知られている。『安全への逃避』は、川を泳ぎわたって避難した母子を連続して二〇数カット撮ったうちの一枚だった。
『安全への逃避」を撮ってから5年後の1970年10月、沢田はカンボジアで亡くなっている。プノンペン南方での取材後、プノンペンに戻る途中の車が反政府勢力ポルポト派の兵士たちの襲撃を受け、一緒だった米国人ジャーナリストと共に撃ち殺されたんだ。ふたりは平服で武器ひとつ持ってはいなかった。車に乗った〝よそ者〟、殺される理由としてはそれでだけで十分だった。ベトナム戦争が終結まであと4年半、沢田は35歳だった。
ノンフィクション作家でもある冒険家の角幡唯介[4]は、10代のときにこの写真を見て強い印象を受けている。危険を顧みず戦場に身を置き続けて、ついには自らの命を散らしてしまった沢田の生き方を、角幡は表現者の〝宿命〟として理解しようとした。そして、沢田の伝記ともいえる『ライカでグッドバイ』の文庫本[5]に「表現することの狂気」と題した一文を寄せている。
多くの人は、ある一線、それも境界だ、を越えてはいかない。しかし表現者に限らずある種の人たち、沢田教一もそのひとり、は、角幡が「狂気」と表現したように、その〝一線〟を悠悠と、ときには嬉々として、あるいは渋々と、とにもかくにも超えていく。そして、その越境は、越境者を多くの人にとっては正気の沙汰とは思えない行動、まさに狂気、に導いていくことがある。
でも、境界を超えるとは、本来危険を伴う行為だった。皆それを無意識に理解しているからこそ、たとえ小さな越境でもそれは小さな冒険の始まりで、私たちにかすかな興奮をもたらすのだろう。
私が沢田教一を知ったのは1980年の16歳のころで、すでに沢田が死んで10年が経っていた。ベトナム戦争は北ベトナムが南ベトナムとの統一を果たして1975年に終結していたけれど、ベトナム戦争後にカンボジアを支配したポルポト政権による大虐殺の実態が、少しずつ明らかになってきたころのことだ。
ベトナム戦争当時、日本政府は米国の南ベトナム支援を世界でもっとも強力に応援していた。1972年に米国から返還された沖縄県に残された米軍基地からは、返還後も返還前と同様に大型爆撃機B52が飛び立ち、直接北ベトナムやカンボジアへ爆弾を落とした。一方、ベトナム戦争反戦運動は米国だけでなく世界中に広がり、日本でも沖縄米軍基地問題と抱き合わせで、根強い反戦運動が繰り広げられた。戦争終結後、そんな反戦運動はすでに下火になっていたけれど、多感なころを迎えていた私にとってベトナム戦争は依然としてもっとも身近な戦争だった。
遅ればせながらベトナム戦争と出会った私は、高校野球少年として汗臭い日々を過ごしながら、さらにそんな暑苦しい夏が終わって受験参考書を紐解くはずの日々が訪れても、戦場カメラマンや新聞記者らジャーナリストが残した写真集やルポルタージュを読み漁った。写真で知られていた人では前述の沢田教一に加えて石川文洋[6]や一ノ瀬泰造[7]、中村梧郎[8]、大石芳野[9]。記事や現地ルポなら新聞記者の本多勝一[10]、作家の開高健[11]。さらに時代を遡ってスペイン戦争や第二次世界大戦の写真で有名なロバートキャパ[12]。戦争という極限状況にも興味はあったけれど、境界を超えてそれに立ち会い記録を残す彼らの生き様に強く惹かれた。彼らが醸し出す〝此処でないどこか〟を追い求める姿勢に、私も憧れたんだ。
特に本多勝一からは大きな影響を受けた。彼から教わったことは数多いけれど、特に刺激を受けたのは探検や冒険についての著書だった。世界最高峰であるチョモランマ山[13](エベレスト)に挑み死んだ著名な登山家マロリー[14]の言葉として伝わる「そこに山があるから」[15]の〝山〟が、世間で認識されていたような一般名詞としての〝山〟ではけしてなく、世界最高峰かつ未踏峰であった〝チョモランマ〟だけを指していたことも本多の著書で知った。私にとって幸運だったのは、本多は大学時代に日本で初めての探検部を設立するほど〝パイオニアワーク(創造的探検)〟の探求が深かい人だったけれど、けして探検賛美主義者でもなければ単純な冒険至上主義者でもなく、人類史の中でのその負の側面の造詣にも深かったことだ。たとえば、探検の負の側面――コロンブスやマゼランによって〝発見〟された側から見れば、それはまぎれもない侵略だったこと――、そしてそんな侵略が現在進行形であることも彼から学んだ。おそらくそれが私にとっての〝境界〟と〝越境〟との初めての本格的な出会いだったんだ。私は冒険家や探検家になりたいと思ったことはなかったけれど、越境者となって此処でないどこかに行きたい、むしろ行かなれければいけないような気持ちをその後長く持ち続けることになった。
沢田の狂気を書いた角幡唯介は、彼自身の著書『新・冒険論』[16]の中で、冒険を「脱システムの行為」と定義している。角幡は、システムを「人間の行動を制御し、方向づける無数の体系」とする。たとえば社会の常識や決まりごとがシステムで、人はそのシステムに従って判断し行動している。その限りでシステム内のできごとは理解しやすいし、先も読める。そうした〝体系〟の外、混沌としたシステム外――そこでは予定調和的に先を読むわけにはいかない――に出ていくことが〝冒険〟だとするのだ。冒険者とは、脱システムして、システムの管理から解き放たれる人のことだ。そんな冒険者たちの社会性を角幡は次のように書く。
ここにいたって、冒険者の社会性は明らかになってくる。それはシステムの外側に飛び出し、独自の倫理を手に入れ、独自の言葉を語ることにより、システムの内側で自明のものとして通用している倫理をゆさぶる存在としての社会性である。[17]
冒険とはあくまで身体的に脱システムすることに限定した言葉であり、身体的という条件を取り払えば、脱システム的価値観は冒険の境界を飛び越えてどこまでも広がる。[18]
文化人類学者の村松圭一郎[19]は、『うしろめたさの人類学』の中で社会が構築される仕組みを次のように読み解いている。
ぼくらが何者であるかは他者との関係の中で決まる。身近な他者が何者なのかも、あなたがなにをどのように相手に投げかけるかによって変わる。あなたの行為によって相手は何者かになり、相手からの呼びかけや眼差しによって、あなたは何者かであることを強いられたり、何者になれたりする。
ぼくらは、強固なかたちで最初から「何者か」であるわけではない。ぼくらが他の人にいかに与え、受けとるのか。それによって生じる関係のなかから「わたし」や「わたしたち」が生まれ、「かれ」や「かれら」が生まれる。[20]
そして、自分と他者との関係性は、常に揺れ動き変化し続けていることを村松は指摘し、社会を構築し直すことの可能性を次のように書く。
ぼくらが動かし、動かされ、そのつどある「かたち」を浮かび上がらせている「関係としての社会」。とどまることなく、否応なしに、誰もがこの運動の連鎖のただなかにいるからこそ、ぼくらは、その社会を同じように動かし、ずらし、変えていく可能性に開かれている。[21]
角幡が書く〝脱システム〟と、村松の書く〝社会を動かし、ずらし、変えていく可能性〟とは、ほぼ同じことだろう。
冒険者が多数派の社会では、人が従うべき〝規範〟が規範として働きえない。もちろんそんな社会は存在できないから、つまり冒険者は多数派ではありえない。脱システムを企て、社会をずらしていける人は、多くはない。でも、冒険者をまったく欠いた社会は、マンネリ化がすすみ、その躍動性を失っていくはずだ。同じことの繰り返しばかりの毎日が、想像力と創造力を奪っていく。
〝ヒト〟とは、常に冒険者を抱える集団のことだ。そうでなければ〝ヒト〟がアフリカを出て、ベーリング海峡を越え、太平洋の島々にまでその活動の範囲を広げることはなかった。境界を越えていく好奇心こそが〝ヒト〟の繁栄をもたらした。
地球上から辺境の地が消え去った時代を迎え、おそらく人類史の中での社会的冒険の役割はこれから縮小していくか、あるいはその形態を大きく変えていくことだろう。でも、個人的冒険が滅びることはないはずだ。私が越境を自らに課した理由も、それが私にとっての通過儀礼だったのだと今になって改めてわかる。
[1] 5ページ 沢田サタ/著『沢田教一 ベトナム戦争』くれせんと 1989年
[2] 沢田教一 1936年青森県出身 UPI通信社カメラマンとしてベトナ戦争の写真を数多く撮る。1970年 カンボジアで取材中に撃たれて死亡
[3] ピュリッツァー賞 米国の報道や文学を対象とした賞で、2019年には21部門が設定されている。ピュリッツァー賞の応募条件は、その作品が米国で発行されている新聞・雑誌に掲載されたものであること。受賞者は米国人に限られているけれど、写真部門だけは国籍が問われることはない。
[4] 角幡唯介 1976年北海道出身。探検家。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』集英社 2010、『極夜行』文藝春秋社 2018 など著書多数。
[5] 青木冨貴子/著 『ライカでグッドバイ:カメラマン沢田教一が撃たれた日』ちくま文庫 2013
[6] 石川文洋 1938年沖縄県出身。26歳のとき世界一周無銭旅行に旅立ったのがきっかけで、1965~68年にサイゴン(現ホーチミン市)に滞在し、フリーのカメラマンとしてベトナム戦争の報道写真を多く撮る。その後、朝日新聞社カメラマンを経て、1984年から再度フリーに。『写真記録ベトナム戦争』すずさわ書店 1979、『戦場カメラマン』朝日文庫 1986、『日本縦断徒歩の旅 65歳の挑戦』岩波新書 2004、など著書多数。
[7] 一ノ瀬泰造 1947年佐賀県出身 フリーランスのカメラマンとしてベトナム戦争の写真を多数撮る。1973年 ポルポト派に占領されていたアンコールワットに単独で向かった後、消息不明となる。後年になってからアンコールワット潜入直後に処刑されていたことがわかり、1982年にアンコールワット近くで遺体が確認された。以下の写真集がある。『地雷を踏んだらサヨウナラ』講談社文庫 1985
[8] 中村梧郎 1940年長野県出身。報道写真家。1970年代にベトナム戦争で米軍に滞留散布された枯葉剤による越米双方の被害を精力的に取材した。著作に以下。『母は枯葉剤を浴びた』新潮文庫 1983
[9] 大石芳野 1944年東京都出身。報道写真家。『女の国になったカンボジア』潮出版社 1980、『カンボジア苦界転生』講談社 1993、『ベトナム凛と』講談社 2000、など著書多数。
[10] 本多勝一 1932年長野県出身。元朝日新聞記者、ジャーナリスト。『極限の民族』朝日新聞社 1967、『戦場の村 ベトナム戦争と民衆』朝日新聞社 1968、『中国の旅』朝日新聞社 1972、『検証・カンボジア大虐殺』朝日文庫 1989、『マゼランが来た』朝日新聞社 1989、『日本人の冒険と「創造的な登山」』山と溪谷社ヤマケイ文庫 2012など著書多数。
[11] 開高健 1930年大阪府出身。小説家、ノンフィクションライター。『ベトナム戦記』朝日新聞社 1965、『輝ける闇』新潮社 1968、『オーパ!』集英社、1978、など著書多数。1989年病死。
[12] ロバートキャパ 1913年ハンガリー出身。スペイン内戦、第二次世界大戦の写真で有名な戦争カメラマン。1954年、第一次インドシナ戦争時の北部ベトナムで仏軍に従軍中、地雷を踏んで死去。著作に以下。川沿浩史・他/訳『ちょっとピンぼけ』文春文庫 1979、沢木耕太郎/訳『ロバート・キャパ写真集』文藝春秋社 1988
[13] ヒマラヤ山脈にある標高8850メートルの世界最高峰。〝チョモランマ〟はチベット名。〝サガルマータ(ネパール名)〟、〝エレベスト(英名)〟もある。1953年、英国人エドモンドヒラリーとチベット人テンジンノルゲイが初登頂に成功した。
[14] ジョージマロリー 1886年英国出身。登山家。1924年、チョモランマ頂上アタック中に同行したアンドルーアーヴィンと共に行方不明となる。このときマロリーは登頂を果たした後に遭難したという説も根強い。もしその説が正しければ、彼が人類最初の世界最高峰登頂者となるけれども真相はわからないままだ。彼の遺体は、遭難から75年後の1999年にチョモランマ北壁で滑落した状態で見つかった。
[15]この逸話は、深田久弥が『山があるから』という本の後書きで日本に紹介したのが最初らしい(489ページ 『本多勝一集4 探検部の誕生』朝日新聞社1998)。「なぜエベレスト(チョモランマ)に登るんですか?」と尋ねられたマロリーが〝Because it is there〟と答えたのを、深田は「そこに山があるから」と訳した。これは明らかな誤訳だろう。なぜなら質問の趣旨から、〝Because it is there〟のitは、明らかに〝未踏だった世界最高峰チョモランマ〟だからだ。深田が「そこにエベレストがあるから」と訳していれば、はっきりとマロリーの意図が伝わったのに。一般名詞としての〝山〟と訳したのでは、マロリーの意図は正反対ほどにも変わって伝わってしまう。彼の「そこにそれ(未踏の世界最高峰)があるから」という言葉は、人類史における探検の本質を表現して秀逸だと私は思う。
[16] 角幡唯介/著 『新・冒険論』 インターナショナル新書 集英社 2018
[17] 207ページ 角幡唯介 前掲書 2018
[18] 212ページ 角幡唯介 前掲書 2018
[19] 村松圭一郎 1965年熊本県出身 文化人類学者
[20] 83ページ 村松圭一郎/著『うしろめたさの人類学』ミシマ社 2017
[21] 84ページ 村松圭一郎 前掲書 2017

















コメント、いただけたらとても嬉しいです