先生が知識を授ける場。それが旧来の学校での“授業”の役割だった。そこでは教える側が「主」であり、生徒の側は「従」であるかのような関係が生まれる。
ぼくが思い出すのは、たとえば高校の地理の授業。S先生がその日の学習内容をいろんな事例を交えながら「教えて」くれる。その話、エピソードひとつひとつはとても面白い。キーワードは黒板にも示される。主要ワードたちが矢印で結ばれ、ぼくたちはそれをノートに書き取る。
ときどき「どうしてだと思う?」という質問が先生から生徒に投げかけられる。知識として知っていれば答えられるし、知らなければ、なんとか想像することになる。例えば、サバナ気候にある某国で起こっている内戦について。なぜ内戦が起こるのか?「水」なのか、「石油」なのか、「宗教」なのか。ぼくたちの回答に、先生はうなずいたり、首をかしげたりする。やがて先生が語りだす。「だって、そりゃそうでしょう。そんなの当たり前じゃないですか……」、圧倒的な知識量情報量が動員され、多くの場合、ぼくたちは彼の説に圧倒される。授業が終わるころ、ぼくたちは小一時間前には知らなかった知識を得て、世界は少し拡張したような気がする。
それが今は、“授業”とは、「生徒中心の学習の場」であるべきとされる。そして、教育者から学習者へ知識を伝達するというトップダウン的な教育方法ではなく、学習者自らが主体として知識や技術を獲得するスタイルが、より求められている。たとえば、日本の文部科学省は、2017年に改訂した学習指導要領の中でアクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)を実現するための授業改善について触れている。Learner Centered (学習者中心)やChild Centered(子ども中心)に、Education(教育)、Approach(手法)やMethodology(方法)という単語がくっついた言葉は、ユニセフを始め途上国で教育支援を実施する組織の文章には目白押しだ。
さて、ここで質問。
「学習者中心の授業を経験してない者が、学習者中心の授業を行うことは可能だろうか?」
読者の皆さんはどう思われるだろうか?

中学校教員養成校で カンボジア
ちょっと読者に疑似体験をしてもらおうと思う。以下、あなたはオブザーバーとしてその場にいるとする。参与観察というスタイルだ。どうぞ想像力を働かせながら読んでください。
途上国の地方の学校で現職教員研修が開かれている。講師はその国の教育省スタッフで、彼/彼女は先進国の大学に留学した経験もあり、そこで学習者中心の教育についても学んだことがある。その際の教授の授業は、今から思えばちょっと教育者中心だったように思うけれど、でも知識としては理解した。その後、教育省で働きだして、ユニセフが支援する「LCM(Learner Centered Methodology)」の指導者研修を受けた。そのときのユニセフの専門家が、今日の現職教員研修の場でも後方に座っている。その女性/男性は講師よりも若いけれど、先進国の名門大学で修士までとった教育の専門家だ。この現職教員研修のプログラムは、その専門家と講師が一緒になってデザインした。
今日は、配布した資料をもとに、グループワークを研修参加者に体験してもらった。その後の質疑応答が続いている。
「グループから発表された内容が、間違っていたらどうするんですか?」研修者のひとりが手をあげて質問した。後方に座っている専門家が、その質問を聞いて大きくうなずいている。こちらの想定通りの、とてもいい質問だ。
「まず、すぐにその内容を否定するのはよくないです。各グループの発表が出終わったあとで、生徒たちどうして発表内容を比較し、より正しい内容を選ぶのがいいですね。」
質問をした現職教員はうなずきながら、それでも再度質問した。「それでも生徒たちが選んだ結論が、間違っていたらどうすればいいんですか?」
講師は少し困る。なんと回答すればいいだろうか?ちらっと後方に座っている専門家の顔を見る。その視線に気がついて、専門家が立ち上がって話しだした。
「多数の生徒が間違った内容を回答するようなことは、実際にはあまり起こりません。」彼女が言う。「みなさんが、カリキュラムや教科書に沿って、適切な資料を生徒に提供していれば、そういうことは少ないはずです。」「ですから、多数の生徒が間違った答えを導き出した場合には、みなさんが準備した資料があまりよくなかった可能性があります。」
参加者たちはそれぞれ身体を捻るようにして、後方から話す専門家を真剣に見つめる。
専門家が最後に付け加えた。「だから、生徒中心の授業のための資料作りは重要です。しっかりと準備するように心がけてください。」
数日後、研修の最後に、研修参加者の代表者が研修会場の学校の生徒に、実際に「生徒中心の学習」を取り入れた模範授業を行うことになる。
模範授業のトピックは、2桁の数同士の掛け算だ。先生はまずクラスの生徒を8人ごとの班に分けた。そして「38~40ページ、20分」と黒板に書くと、「教科書のこのページを読んで、グループで話し合ったあと、40ページの練習2の(1)と(2)の問題を解きなさい。その答えを、これから配る模造紙に書いて、グループ毎に発表してもらいます。」
生徒たちはさっそく手元の教科書を開く。教科書は生徒数には足りないので、8人で4~5冊ずつ配布されている。中には自分自身の教科書を持っている生徒も数人いる。だいたいそんな生徒は、成績もいい。
生徒たちはページをめくりながら、なにかしゃべっている。やがてグループの中の「できる生徒」が配布された黒マジックを手に取ると、40ページの練習問題の回答を模造紙に書き始める。模造紙を囲んで他の7人が、その手元を見つめている。
どうやらどのグループも解答が書けたようだ。先生は各グループの模造紙を、紙テープで貼っていく。黒板だけでは足りなくて、壁に直接貼り付けるグループもある。
「では一班から発表してください。」
同じ答えがグループの数だけ発表される。ここは実はけっこう退屈な時間だ。だって、どの班も、きちんとした解答が書かれているのだから、当然発表内容も同じになる。それが6回ほど繰り返される。
すべての班の発表が終わるころに、授業終了のチャイムが鳴った。最後の発表は、駆け足になる。それが終わると、先生が生徒を讃える。「正しいやり方を学んだ、貴方たち自身に拍手をしましょう。」生徒たちが笑顔で拍手をする。
疑似体験、終わり。さて、皆さんはこの風景を想像して、どんなふうに思われたでしょうか? 長くなりましたので、続きは後日、それほど間を空けずに書きます。
















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