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2021年4月から2年間、全国脊髄損傷者連合会が発行する会報誌「脊損ニュース」が『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで私が書いた連載を掲載していました(当ブログの2023年3月での投稿で読めます)。
そして、さらに2023年4月から2年間『続・世界は開いているから仕方がない』として連載は続きました。その連載24回がこの度終了しましたので、ブログで3回分ずつ掲載します。今回は2023年4月からの3回分です。
4月/第1回 脊損(胸椎6番)下半身完全麻痺・車イス者、今年で9年目です!
改めまして、こんにちは。村山哲也です、今年59歳になります。
2021年4月から脊損ニュース上で2年間『世界は開いているから仕方がない』を連載してきました。今月号からは『続…』として連載を続けます!どうぞよろしくお願いします。
まずは改めて自己紹介。
9年前(2014年8月)に、アフリカ中部の小国ルワンダで助手席に乗っていた車がスリップ事故を起こし谷に転落してしまいました。ルワンダは「千の丘の国」と呼ばれる、アップダウンの激しいところなのです。私はちょうど50歳でした。
事故は残念なことでしたけれど、事故直後から本当にたくさんの幸運があって、私は事故車から助け出されました。
夜を駆けて運ばれた首都の病院で「おそらくもう歩けないでしょう」と告げられました。その後、ケニアの首都ナイロビに運ばれ手術を受け、さらに日本に運ばれて1年ほど病院にいました。最後の半年間は、所沢の国立リハビリテーション病院で社会復帰のためのリハビリテーションを受けました。要は、排便排尿のトレーニングです。
2015年7月にようやく社会復帰し、車イス者として生活を始めたのでした。
なんでルワンダにいたのか? 私は20代後半から途上国の学校教育開発支援にかかわっていました。ルワンダでも、現職教員の研修プログラムをルワンダの教育省スタッフと一緒に運営していたのです。地方で開かれた研修に参加し、その帰り道に事故は起こったのでした。仕事中の事故だったので、労働災害と認定されました。というわけで、今は労災の障害年金で生活できています。先人の人たちが積み上げてきてくれた社会保障制度のおかげです。ありがたいことです。
ルワンダの前は、カンボジアで仕事をしていました。それが縁で、私の妻はカンボジアの方なのです。
事故で日本の病院に運ばれたとき、妻はカンボジアでの仕事を辞めて東京に来てくれました。社会復帰後数年は彼女と一緒にさいたま市で暮らしていましたけれど、その後、2019年からカンボジアの首都プノンペンに生活の拠点を移しました。
今は、主にプノンペン、ときどき東京、という感じで行ったり来たりして暮らしています。

ところで、この写真はサクランボの花です。この連載で掲載する花々の写真は、私の恩師である小野久先生が撮影したものです。小野先生は脊損者ではありませんけれど、頸椎ヘルニア等で苦労されています。それでも体調がいいと、ご自宅の多摩付近を歩いて野の草花にカメラを向けることを楽しんでおられるのです。
ということで、文章は拙いですけれど、写真には自信あり!!です。ぜひ皆様も、写真が伝える季節の香りを楽しんでくださいませ。
連載へのコメントは、脊損ニュース宛て、あるいは muraymuraymuray@gmail.com へぜひ。
では、来月からもどうぞよろしくお願いします。
5月/第2回 健常者世界から障害者世界への“旅”について 1
脊椎損傷による後遺症で障害を持たれている方のほとんどが、つまりは中途障害者でしょう。つまり、怪我をする前の健常者の時代があったはずです。
怪我の直前まで、“普通”の生活があった。週末にはゴルフやスキーを楽しんだし。自宅から職場まで車を運転したりバスや電車に乗ったり。あるいは、炊事洗濯掃除という家事一般を担っていた。
それが怪我した次の瞬間から、その一切の行為が難しくなってしまう。ショックですよねぇ。
脊損ニュースの連載ページを持つお仲間である若いお二人、現代のもののけ姫Macoこと渋谷真子さんはお茅葺職人の見習いとして藁ぶき屋根で作業していたし、車椅子単独世界一周トラベラーの三代達也さんはバイクをバリバリ乗り回していた。そして、ある日突然に思わぬ事故が起きた。そして “普通”が、手(足?)の届かぬものになる。(村山注 同じ脊損ニュースの紙上で、渋谷真子さんと三代達也が連載を持たれていました。お二人はYoutube等でも著名な脊髄損傷者の若者たちです。お名前で検索すればすぐに見つかるはず。)
「もう歩けないでしょう」と病院のベッドで告げられたとき、私はどこか知らない世界に連れていかれるような気分がしたものです。そして、「障害者の世界」は、それまで暮らしていた「健常者の世界」とはやっぱり違う世界だったのです。
世の中さまざまの設計は、そのほとんどすべてが健常者仕様でできています。そして、ようやく最近になって健常者仕様の傍らに、バリアフリーという名の障害者向け設備が用意されつつはある。
せいぜい半世紀前には、車イス者が公共交通を使うことだってすごい苦労が必要だった(そもそも車イス者が電車等に乗車するという発想だって、ほとんどなかった)ことを思えば、うん、良かった。それも障害者の先人たちが声をあげ、ときには批判を浴びることも厭わずに戦ってくれた成果なのです。
遅れてやってきた私は、その成果の恩恵にぬくぬくしている。ありがたいことこの上なしです。
でも、個人の心の準備って部分では、おそらく半世紀前も今も、それほどの違いはないでしょう。突然の事故、そして告知に、私たちは、そして家族の面々もすっかりうろたえ戸惑う。
障害が残るとはどういうことなのか? これまでの“普通”とどれだけ違うの? 生活はどうなるの? 社会復帰の道筋は? 生活費は? 学校や仕事は続けられるのか? 将来の進路は?
病院側だって、いつだってちゃんとした情報を持っているとは限らない。油断していると、提供されるリハビリテーションだってそれほど専門性は高くない。自治体によっても、障害者支援の充実度はけして一律ではないらしいし。
一口に「障害の受容」とは言いますけれど、障害者の世界の入り口でその受容に寄り添ってくれる人や情報に出会えるかどうかは、運と縁もからむのです。皆様の場合はどうだったのでしょうか?
それでも、私たちも、ご家族も、少しずつ前に進む。イライラしたり、メソメソしたりしながらも、今日が終わって明日がくる。そこには人それぞれの悲喜こもごもがあるでしょうし、あったでしょう。そして、これからも喜怒哀楽の交錯する日々が続く。
まぁしゃーない、って思えていますか? あるいは健常者世界への憧憬に、今も苦しんでおられるってこともあるよね? あなたの日常、気持ちの調子はどうですか? 外は春爛漫だけれどねぇ。
写真:ノビル(野蒜)の花

6月/第3回 健常者世界から障害者世界への“旅”について 2
健常者世界から、障害者世界への旅。自分のことを少し書きます。
事故翌日に「もう歩けないでしょう」と伝えられた際、私はわりと冷静にそれを受け取りました。連載仲間の渋谷真子さんもそうだったようですね。
私の場合、歩ける歩けない以前に、事故直後は寝返りも打てず、ルワンダの病院でさてこの後どうするの?ここで手術?それともよその国に搬送?という火急の事態のほうが大変で。と言っても私はすべてを周りの人たちに委ねて寝たきりだったわけですけれど。
その後、ケニアのナイロビまで(救急飛行機で2時間弱)運ばれ、そこで手術を受けました。その2週間後には、今度は普通の飛行機で日本に飛びました(運ばれました、が正確かな?)。
それから数か月、普通のリハビリテーションを専門にする東京都内の病院に入ったのです。そこはどちらかといえば高齢者が多かった。若い療法士さんたちが対応してくれましたけれど、彼らも脊損者の社会復帰に向けてのリハビリ支援の経験はなかった(高齢者の場合、現状維持というか、これ以上悪くしないことを目的としたリハビリが中心だったようです)。彼らは一生懸命勉強しながらやってはくれました。
ある日、見舞いに来てくれた先輩(医療関係者)が「村山君、ここに居てはダメだよ。専門の病院に早く転院したほうがいい」と強く勧めてくれたのです。埼玉県所沢市にある国立リハビリテーション病院(以下、国リハ)を紹介してくれたのも、その先輩でした。すぐにそちらに連絡を取り、転院したのです。
国リハに行ったら、リハビリの内容がガラッと変わりました。しかも、国リハは週末はリハビリプログラムは休日。それまでいた病院では、お正月でもリハビリは休みなしでした。おそらく保険の点数を上げることが、私立の病院では優先順位が高かったのでしょう。国リハは、スタッフの組合が強くて、週末休みはしっかりとる方針だったのかな(ここは私の個人的推測)。最初は、週末にリハビリがないことが不満だったりもしました。でも、国リハの療法士さんには多くの経験からくる「見通し」がはっきりありました。こいつはこの程度までは回復する、とすれば何のトレーニングが必要、というような。経験、大事です。こっちはもう生まれたての初心者ですから。
結局、国リハでは半年過ごしました。トイレの訓練が一番つらかったです。退院が近くなったころ症状固定の書類を作って、住民票を取って、障害者手帳を作って。それからアパート探し。介護ベッドや車イスの手配は、国リハにいれば手慣れた業者と接する機会が多く助かりました。退院して自分で淹れたコーヒーを飲んだのは嬉しかった。
でも、退院後の最初の一ヵ月は苦労しました。車イスからベッドやトイレの便器への移乗時に落ちたり、排便に失敗して糞まみれになったり。きっと脊損者みなさんが通る道でしょう。
障害者世界になじむのに必死で、健常者時代を懐かしむ余裕もなかったのかな。私は、ほとんど落ち込むことはなかった。むしろ、両親は私の障害にがっかりしたみたい。父母の気持ちはわかるけど、でも「これは俺の人生、大丈夫よ」という気分でした。
写真:ガクアジサイの花


















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