まずはカンボジア独立以後の現代史おさらい
1953年 フランスから独立
ノロドムシハヌーク殿下による統治。外交は中立政策をとり、隣国ベトナムでの紛争から距離を取ろうとする。ただ、中立、つまり米国からも距離を取ることが、北ベトナム寄りと判断されることになる。 国内ではシハヌーク翼賛体制による強権政治を取り、弾圧も含んだ当意即妙の政治運営が、特に左派陣営の若者をジャングルに追い立て、反政府武装闘争に走らせることになった。
1970年 ロンノルによるクーデター、親米ロンノル政権の時代はじまる。
シハヌークが外遊中に、首相だったロンノルがクーデターを起こし、シハヌークを追放。シハヌークは新米国の政策を取り、カンボジア国内のベトナム解放軍への米軍による空爆を認める。その結果、カンボジア全土がベトナム戦争に巻き込まれることになる。
国内では、国粋主義をすすめ、ベトナム系や華人系のカンボジア在住者を弾圧する。
1975年 クメールルージュ(ポルポト派)がプノンペンに攻め込み、ロンノル政権崩壊。ポルポト政権の時代がはじまる。
貨幣経済、学校教育制度、宗教活動、移動の自由、歌謡遊戯、近代医療、都市生活などを否定・禁止、集団生活による強制労働制の導入という極端な政策により、人口の4分の1とも3分の1ともいわれる200万人(実数不明)の餓死・過労死・虐殺の被害者を発生させる。国際的には、シハヌークとポルポト政権は協力関係にあるとされたけれど、シハヌークはプノンペンに幽閉される。
1979年 ベトナムに支援された反ポルポト軍が越境しプノンペンに攻め込み、ポルポト政権崩壊。
反ソ連反ベトナムの立場から、中国と西側諸国はタイ-カンボジア国境沿いで勢力を維持したポルポト派、およびシハヌーク派らを支援。プノンペン政府(ヘンサムリン政権)とポルポト派ら反プノンペン政権との内戦、つまり東西の冷戦体制の代理戦争状況が長く続く。若きフンセン現首相は、このとき28歳でヘンサムリン政権の外務大臣に就任している。また、日本政府が国連の議席権をめぐりポルポト派支持の演説を西側諸国で最初に行ったことを日本外交官に問うと、すごく嫌な顔をされるはず。
1992-1993年 国際連合によるカンボジア暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動が始まり、1993年に国政選挙が実施される。
ラナリット王子とフンセンの首相ふたり制政府がはじまる。両首相の権力闘争は1997年に新たな内戦を勃発。フンセン現首相が権力を掌握し、その後、2020年の今に至るまで彼の開発独裁の時代が続くことになる。1998年にはポルポトが死亡し、タイ国境沿いのポルポト派も政府に投降する。1970年からの内戦が終結を迎える。
失われた1980年代。そして、援助ラッシュの1990年代。
まえがきとしての、カンボジア現代史の振り返りが、思わず長くなってしまった。カンボジアのことをよく知らない読者がおられるという前提でカンボジア現代史を書き始めれば、どうやっても数行では収まらない。米ソの冷戦時代、さらに東側から距離を置こうとした中国を加え、複雑な国際情勢による代理戦争の最前線に、なぜ東南アジアの小国カンボジアが立たねばならなかったのか。そこには、冷戦時代だけでは語れない、たとえばベトナムとタイとのカンボジアをめぐる歴史的な対立も影を落としている(今でも!)。カンボジアが最前線となったのは、不運ともいえるし、世界史に開いた縫い目から圧力が漏れたとすれば、カンボジアで摩擦熱が発火したのは必然ともいえる。
で、今日の本題は、援助ラッシュが始まった1990年代のカンボジアで何が起こったか、です。
ポルポト政権が崩壊して、死地の強制労働キャンプから生き残ったカンボジアの人たちがようやく開放され、新たな生活、新たな社会を再構築し始めてから、UNTACが始まるまで、カンボジアに支援の手を差し伸べたのは新ソ連の東側諸国だけだった。ソ連、ベトナム、キューバ、東ドイツ……。ポルポト時代以前はフランス語が第一外国語だったのが、ポルポト後の10年は、ベトナム語とロシア語がもっとも必要とされた外国語だった。
けれども、プノンペン政権にとって頼みの綱だった東側体制は1990年にはソ連解体、ベルリンの壁崩壊に象徴されるようにちりぢりとなる。当然、1980年代から東側諸国の経済は機能不全を起こしつつあって、他国の支援どころでない状況だった。東南アジアの小国へのサポートは微々たるものだった。すなわち、カンボジアとって1970年代が破壊の時代だったとして、1980年代は経済再成長がじっとりと停滞した空白期間、つまり失われた10年だった。
この10年間、中国と西側諸国の支援は、ポルポト派らが支配したタイ国境に設置された難民キャンプに限られ、おそらく80年代後半にもっとも質の良い教育を提供していたのは、難民キャンプの特設学校だったんじゃないかと私は理解している。そこで英語(米語)を身につけた若い世代が、90年代にカンボジアに戻って活躍することになる。
そしてUNTACとともに、冷戦に勝利を収めた西側諸国の援助が滝のようにカンボジアに降り注いだ。国連や世界銀行やアジア開発銀行、さらには大手から個人レベルの非政府支援組織・非営利団体がわんさかとプノンペン空港、あるいはアンコールワットに近いシュムリアップ空港に降り立った。
「UNTAC=HIV拡大」という印象
UNTACはカンボジアの普通選挙実施に貢献し、タイ国境にいた多くの避難民を国内に帰還させた。内戦の完全終結は1998年ごろまで待たなければならなかったけれど、UNTACに正の面があったのは間違いない。
一方で、UNTACの負の面としてよく上がるのがHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の国内での感染拡大だ。インターネットでUNTACとHIVで検索すると、以下のような英文記事が次々とヒットする。
「UNTACは20億ドル(2兆円)を費やして、AIDS(後天性免疫不全症候群)をカンボジアに持ち込んだ」(KI Media: Hun Sen: UNTAC brought AIDS to Cambodia (ki-media.blogspot.com) (引用記事は2008年だけれど、この手の発言をフンセン首相は今でもしている)
「国連職員の到着により何千人もの女性がセックス産業になだれ込み、HIV/エイズ感染が急増した。」In 1993, the UN tried to bring democracy to Cambodia. Is that dream dead? – BBC News
「UNTAC警察官は、アルコールを飲んだり、交通事故を引き起こしたり、セックスをするなど、よろしくない状況を引き起こした。彼らはカンボジア社会にHIVとして知られていた危険な病気を持ち込んだ」Failure Of UN Peacekeeping In Cambodia (uniassignment.com)
事実として真っ白な土地にUNTACがHIVを持ち込んだわけではなく、HIV感染拡大はUNTAC以前にカンボジアで始まっていたようだ。ただUNTACによって、カンボジアでの性産業が拡大したのは間違いない。これは私の仮説だけれど、UNTAC以前にも性産業はあったけれど、わりと季節による増減の大きなものだっのではなかったか。たとえば、11月の水祭りのとき、地方から多くの男性がプノンペンにやってくる。そのときに、プノンペンの性産業は一時的に拡大する。つまり、売春は季節労働の側面があった。それがUNTACによって、季節に関係なく正業化したんじゃないかな(もちろん、正業とする女性は以前からいたけれど、その数はUNTACで増加し、さらにオシャレ化した)。
それがどれだけHIV拡大につながったのかは実際のところは検証されつくしていないように私は感じるけれど、ただ「UNTAC=HIV拡大」という印象をカンボジア社会に植え付けていったことは確かだ。
公的セクターの弱体化
さらに気になるのが、国連はじめ援助機関がもたらした大きな物価格差だ。当時、カンボジアの公務員の月給は平均30ドル程度。それに対して、UNTAC警察官は130ドル、これは日当、が国連の予算に組み込まれていた。日当130ドルは月給なら4000ドル。カンボジア公務員の100倍を超える。この大きな格差が、いろんな社会矛盾を生み出したとしても不思議はない。
たとえば、現在でも国政選挙時には多くの学校教員が選挙関連の業務に積極的に参加する。これはおそらくUNTACの影響だろう。当時、給与の低かった教員にとって、UNTAC時代の選挙運営に関わることは大きな副収入をもたらしたはずだ。そして、それはすぐにシステム化する。教員にとって選挙は今でも副収入を得るチャンスで、政府も人的資源として(そして与党政権維持機能として)教員をあてにしている。もちろん、その結果、学校教育現場では授業の多くが自習になるなどの弊害が起きるけれど、それは見逃される傾向が強い。
援助に関わることが高給につながる傾向は、このように現在まで続いている。若い世代にとって援助関係組織に職を持つことは、ひとつのステイタスであり続けている。その中で、もっとも高給なのが国連関係、あるいは世界銀行などの大手国際援助関連の業務だ。
私がかかわっていた教育セクターでは、大手援助機関は、まずカンボジアの教育省とタッグを組む。タッグ先の教育省で、英語ができる人がカウンターパートとなる。カウンターパートにはさまざまな形で支援からの恩恵が流れる。公務員であるカウンターパートにとって、援助機関から受け取るもののほうが、給与よりもずっと大きい。
ひとつのプロジェクトは数年で終わり、新しいプロジェクトが始まる。新しいプロジェクトにとっては、支援側もカンボジア側も両方の事情がわかっている以前のプロジェクトのカウンターパートはとてもありがたい存在だ。だからまた同じカウンターパートが新しいプロジェクトでも再任される。カンボジア側では同じ組織の中で、支援から多くを得るものとそうでないものの差が大きくなっていく。やがて、支援の分配が大きな課題となる。英語が苦手なスタッフにも、どう利益を分配するか。
たとえば、プノンペンで開けばいい会議が、地方で開かれるようになる。なぜなら、地方出張には日当が支払うことができるから。もちろん、地方で会議を開いたほうが「その会議に集中できる」という利点もあったかもしれないけれど。
さらに、もっとも恩恵を得ていたカウンターパート氏は、やがては公務員の仕事ではなくて、独立してコンサルタントの仕事をするようになる。コンサルタントとして自由に援助機関から仕事をもらうほうが収入がいいからだ。一時期のカンボジアでは、公務員の職は人に又貸しして、本人は籍だけのこして援助関係の副業に励むというケースも見られた(今も、あるかもしれない)。籍を残すことにこだわるのは、額はけして多くないけれど、公務員には退職後の年金が保証されていることが大きいのだと思う。民間での年金システムはカンボジアではまだほとんど整備されていない。
大手国際援助機関よりも小さなNGO機関などは、また少し事情が違う。大学出の若い世代で優秀な人たちがここに集中する。先に書いた大手国際開発支援と比較すれば、NGOでの給与は高くはない。けれど、公務員などよりは数倍高い。さらにNGOなどでは英語学校への学費を支給する、海外出張の機会がある等、若い世代には魅力的な要素があった。仕事を通じてキャリアアップの可能性が広がるんだ。
だから、若い世代で「できる」人たちは、こぞってこのNGO人材の競争に参入した。
一方、カンボジアのNGOで働いた経験のある支援者ならば、それまで手塩にかけて育てたスタッフに、ある日突然転職されてしまった経験があるはずだ。より条件のいい他のNGOに引き抜かれるんだ。こうして、NGO間でもスタッフの獲得競争が始まり、給与は物価上昇率以上に増加する。
これらの、「公的セクターと支援セクターとの収入格差」と「優秀な若い世代を援助セクターが吸収したこと」によって、何が起こったか。それは、「公的セクターの弱体化」だったろう。この問題はあまり表面化することはない(もし、優秀な人材が公的セクターに向かえばどうだったかを検証することがほとんど不可能だから)。けれど、援助がカンボジア社会に与えているもっとも大きな負の影響だと私は思っている。本来なら国家を担うために最高学府まで進んだ人材が、公的セクターに入らず、援助セクターに流入し、そして彼らが今、リーダー世代となって肥大した援助セクターを維持し続けている。
つまり、国際開発支援が集中したときにその社会に起こる負の側面は確実にある。支援者は見えにくいこの問題に鈍感になりがちだ。支援される側も、流れてくるお金を止めたくないため、状況は改善されにくい。仮説だけれど、その結果、開発支援は自己保全する。カンボジアはなかなか援助頼みから抜け出せない。

















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