JICA海外協力隊向け実践ガイド「クロスロード」という雑誌がありまして
昨年末のこと、以下のようなメールを受け取りました。
お世話になっております。JICA海外協力隊向け実践ガイド「クロスロード」の制作をしております、一般社団法人協力隊を育てる会のHと申します。
(中略)村山様に取材にご協力いただけないかと思い、ご連絡いたしました。
『超えてみようよ!境界線』を拝読し、特にケニアの協力隊時代の誤解や失敗に対して冷静な目線でご執筆されており現役隊員も共感を持って自分のことを振り替えられるのではないかと考えております。(後略)
私が青年海外協力隊(現在の呼称はJICA海外協力隊、以下JOCV)に参加したのは1990年、26歳のとき、つまり今から34年前のこと。アイヤー、そんな昔のOBがしゃしゃり出て行ってよいのかなぁと思いつつ、上記の取材をお受けしたのです。
取材は上記メールをくれたH編集長と実際の記事をまとめてくれるライターのIさんがZoomでプノンペンをつないでくれました。その後、4月に東京にちらりと滞在した際にも、お二人に今度は直接お会いして追加取材を受けたのでした。
その結実?として、クロスロードの6月号と7月号に私、ちらりと登場しました。もし興味があれば、以下のサイトに飛んでみてくださいませな。
以下クリックすると6月号に掲載されたものに移動できます。
以下クリックすると7月号に掲載されたものに移動できます。
私が登場するのは、「失敗に学ぶ ~専門家に聞きました!」というコーナーです。そこでのお悩みの相談は、6月号では「理科の先生たちが実験の事前準備を拒んだり生徒への器具の貸し出しを嫌がります(理科教育/男性)」、7月号では「体育の授業が進まないのでカウンターパートに抗議したらケンカになってしまいました(体育/男性」でした。どちらもあるあるよくあるよねーというご相談内容でありました。
回答で私は、よく読むと聞かれていないことまでペラペラと勝手なことを(いつものように)言ってます。実際は、インタビューで話したあれこれを、ライターさんがまとめてくださったものなわけで。でも、みんな私が言ったことです。ま、ゆるしてちょーだい。
クウィセロは海外支援活動の原点、今の私の多くがあそこから始まったのです
JOCVというのは、通常は2年間途上国にずっぽり入って支援を行うという日本国政府運営のボランティア活動です。私は1990(平成2)年12月から2年間、東アフリカのケニア西部にあるクウィセロ中等学校という田舎の学校で理数科教師として活動したのです。
クウィセロは当時は電気水道ガス無し。日本への連絡は郵便がもっぱらで、AirMail(飛行機輸送便)の手紙が片道一か月はたっぷりかかったのでした。日本に国際電話をかけるためには村から50キロ離れた町まで行かなくてはならず、しかも当時は国際電話代はまだとても高価なものでした。ですから、一度国際電話をかけると、当時生活費として支給されていたものの半分が電話代となりました。
日本だけでなく、事務所があった首都ナイロビへの連絡も村の郵便局から遠距離電話をかけるのはかなりの手間で、しかも稀にしかつながらず、つまり本当に緊急ならやっぱり50キロ離れた町に行かねばならないという状況でした。つまり、普段は日本からはまったく隔離された生活でした。そうだ、唯一、短波のラジオジャパンだけは聞けたなぁ。1日30分ぐらい。
おそらく、インターネットが発達した現在では、あれだけ「孤立」することができるJOCVはほとんど存在しないのではないだろうか? とにかく、ケニア、本当に鍛えられました。JOCVは途上国の開発支援の一環ではあるのですけれど、私はケニアからはもらったもののほうが私自身が貢献できたことよりも全然多いのです。百倍も千倍ももらったのでした。
ケニアの2年間がなかったら、その後の私の人生はまったく違ったものになっていた(まぁ、なにごともそういうものでしょうけれど)。その後、30代40代と夢中でやってきた途上国の教育支援につながる原点がケニアのJOCV活動だったのです。
ですから、Hさんたちの取材を通して、ちょっとなつかしくJOCVの日々を思い出したのでした。
JOCVに参加すると言った私に、「君の嫌いな自民党政権の道具になるのか?」と問うた方もおられました。うん、その問いは、理解できました。でも、当時私にとってはGive and Take、つまり外交道具として提供する時間とエネルギー、それに対して私が得る様々な機会・経験とを測りにかけて、うん、まぁひととき道具になってもいいか、ということは考えていたような気がします。今の私なら最初から政府の外の支援、例えばNGO/NPOでの海外支援も模索できますけれど、当時はそういう力量と知識もほとんどなかった。ある意味、まだぺーぺーの駆け出しで、海のものとも山のものともわからん若輩者だったわけです(思い出すと、冷や汗が出る気がします)。そして、もちろん、日本国政府のためとかではなく、派遣されたところ(つまりケニアの片田舎の中学校)でしっかりやろうと思ったのでした。この気持ち、つまり日本国のために頑張っているということではないという価値観は、その後ODA/政府間援助の仕事をつづけた中でも変わることはありませんでした。
突然、ケニア時代の生徒さんからの連絡が‼
そうしたらですね! なんとケニア時代の生徒が、Facebookで突然連絡をしてきたのです。今回のブログの表題写真に使ったのが、その彼、オイコ君(2024年版)です。
いやー、びっくりしました。もちろん、彼が私に連絡を取ってきたことと、「クロスロード」の取材はまったく関係ありません。私がクウィセロ村を離れたのは1992年11月末でした。それ以来、32年ぶりにオイコさんと私は初めて連絡を取り合ったのです。32年ぶりですよ!すごいでしょう?
私が彼に出会ったとき、私は20代後半で、そして彼は中等学校の学生でありましたけれどすでに20代に足を踏み込んでいたのです。ですから、今、私は60歳で、オイコはすでに50代前半。いやいや、よく生きてたよね、お互いに。彼は、「ワイフは一人で、子どもが6人います」と書いてよこしました。俺はね、その後、離婚・結婚・離婚・結婚よ、子どもはひとりいるよ、と返したわけです。
オイコ氏は、私と出会った際に、すでにガールフレンドが彼との子どもを産んでいました。けれど、「お金がないから、結納金が払えません」ということで、彼の子どもはガールフレンド側が引き取って育てていると聞いたことがありました。
おそらく、「6人の子ども」にあのときの子は含まれていないのだろうなぁと想像します。
オイコさんは、Facebookでのやりとりが始まってしばらくすると、やっぱり「子どもの学費をなんとかしたいので・・・・」と私に彼の経済問題にかんする相談をしてきたのです。ふむふむ、なんかJOCV時代を思い出すなぁ。お金を無心される(もちろん貸して、だったりはするのですけれど)、これもあるある、なのです。お金の問題は、実はけっこう悩む人少なくないと思います。貸すなら返ってこないことを前提に、と私も痛感はしています。とにかく金銭のやり取り、これも海外支援にかかわる上で必須の学習機会です。経験して、鍛えられるしか道はない。
今回は、こちらも現在あれこれで出費がかさんでいるので正直に「ゴメン」と返したら、「No problem(問題ないよ)」とのこと。うーん、この感じもJOCV時代を思い出させるのですよねぇ。ふふふ、懐かしいなぁ。
クウィセロには、今では電気が通じていて、村の中にスーパーマーケットもあるようです。オイコは、今はクウィセロ村を離れ、ケニア中部の町で暮らしているとのこと。人生、いろいろ、でありますね。あぁ、クウィセロ時代にお世話になったケニアの人たち、今はどうしているのだろうか。
今の私の原点であるクウィセロと書きました。つまり、それはその以前の自分を捨てる2年間でもあったのです。「もう自分は、海外支援の道を進むしかない」という思い。それ以外の退路は断たれた?断った? 長く続いた青春時代が終わったのでした(モラトリアム、長すぎ!)。あの頃のことを思い出すと、ちょっと恋しいなぁ。そして、切ないなぁ。
思えば遠くまで来たものだ? いやいや、日本もカンボジアも同じ小さな地球の一部です。遠くない遠くない。全然、近いのよ。ガザも、ウクライナも、スーダンも、ウイグルも、ハイチも………(どこも行ったことはないけれど)、世界中どこも、近い。近くて、痛い。それを自信を持って言える、それがクウィセロ後の大きな自分の成果です。

















「向かい合わせではなく、隣り合わせに座って、その国のNG質問に気をつけながら雑談交じりに聞きます」「紙で自分の言いたいことを文章にして相手に渡してください。もちろんその手紙は現地語で」 など、ではどうすればよかったのかちゃんと答えてくださっていて素晴らしいと思います。でもこれは、はじめからっていうのは、難しいですね。言葉がそこまで通じなかったら。実験道具のことだったら、「えーとあなたが、さわらせるな、と言っているのは、と、割れたビーカーの絵か何か書いてこれがこまる?」「ビーカーこわれたら、誰が買う?」と聞けばよかったのかな? カンボジアだとこの他に、「自分は校長や管理職のスパイではない」ということをわかってもらうということも必要になってきますね。たいてい赴任したとき管理職から紹介されているから、そこでまず警戒されてますよね、でも、そう、村山さんがおっしゃるように、半年かかるかな、笑顔で観察や質問を続ければ、きっと心を開いてくれますよね。