先日、オイヤンさん(義弟)から「どうしてお義母さんも、テツヤさんも、チコさんもマイナンバーカードを持たないのですか?」とご飯をご一緒しながら質問されました。チコさんというのは、オイヤンさんのパートナー、つまり私の(上の)妹です。
母がマイナンバーカードを作っていないのは知っていましたけれど、チコさんが作っていないのは知りませんでした。オイヤンさん曰く「作って何の損もない、むしろ交付金がもらえたりしてお得なのに……、どうして?」 ふむ。そのときはむにゃむにゃと「お金で釣ろうとしているのが嫌なんですよぉ」みたいなことを言って済ませてしまいました。
でも、はい、改めてここできちんと考えてお答えしてみようと思います。
2025年秋、東京で観た香港の戯曲『野良豚』
2025年9月末に、このときは移動日含めて10日間という慌ただしさでやっぱり上京したのです。その際に、東京信濃町に小さな劇場を持つ《文学座》という劇団で、タイトル『野良豚』を観劇したのです。『野良豚(原題は野豚 a Wild Boar)』は香港の劇作家莊梅岩による作品です。2011年に書かれ、翌年に香港で初演されました。そして、2014年に民主化を求める雨傘運動が香港で起こり、中国北京政府の香港への干渉は一気に加速した。この劇は香港では現在演じることができません。
(ナンバーカードの話はどうなったって? いやいや、やがてつながりますので、ここは辛抱して読み進めてくださいませ)
文学座による『野良豚』は、文学座演出部に所属するインディーチャンが訳・上演台本・演出を手掛けました。インディ-は香港生まれ香港育ちで、香港で大学を卒業後に日本に留学し、日本語の読み書き語りが堪能です。
私(とサンワー)が観た劇では、役者は日本語で語り、観客の希望者には英語か中国語への同時翻訳を読めるタブレットの貸し出しもあり、サンワーは英訳用を借りて劇を観ていました。
劇の内容を簡単に紹介するために劇パンフレットの文章をそのまま以下にコピーします。
「このマチ」の学者、モナム教授が行方不明になった。
しかし、彼の失踪を調査しようとする大手メディアはどこにもない。それをきっかけに、ベテラン新聞編集者ユンは、真実を伝えるために新しい新聞社を立ち上げる。
ユンの妻トリシアは、彼の有力部下だったジョニーを「他所のマチ」から呼び戻し、新聞社の設立に協力を求める。調べていくうち、モナムの失踪はマチの開発プロジェクトに関わっていることが発覚する。
そして、ユンは とある真実を知り、戸惑い始めてしまう。真相を伝えることは善か悪か。報道の意義とは……。
劇はとっても刺激的で面白かった。作中、野良豚狩りという遊びが寓話的に出てきます。そして、劇中のひとりの重要人物衣装は(私が勝手に想像しただけですけれど)野良豚を意識した薄い茶色です。そして、(これも勝手に私がそう受け取っただけですけれど)かって野良豚だった上司は、理想と現実の中で知らず知らずのうちに狩られ飼い豚に姿を変えていく。上司を飼い豚に変えたのは、大きな力による懐柔もあったのですけれど、それ以上に重要だったのが一般市民の「絵に描いた餅などいらない」という言葉でした。理想を追っていた上司は「他者にコントロールされて生きることで良いのか?」と一般市民に問う。でも一般市民は、「コントール云々より具体的便益が欲しい。つまり、花より団子」と答えるのです(ここでの具体的な言葉は戯曲のそれではなく、ムラヤマの心に残っている印象です)。
これはエリート/インテリ批判なのか、あるいは愚民批判なのか? いや、どちらでもない、それぞれのリアリティを示しただけだろうというのが、私が今たどり着いている理解です。リアリティというのは、認識されている社会観・人生観・価値観・人間観という意味。同じ時代/同じ場所に位置し同じ情報に接しても、人それぞれ見えるモノ、感じるモノは違う。それがそれぞれのリアリティ。どっちが良い悪いの問題では、一次的にはないのです。
そして、とても興味深く、かつ重要に思えるのは、この戯曲が2011年の香港で書かれたということ。そして、この戯曲を書いた莊梅岩という作家を生んだのも香港だということ(彼女は福建省生まれで、3歳のときに両親に連れられて香港に渡ってきた。1989年に小学校卒と資料にはありますから、1970年代半ば生まれの方でしょう)。さらに、莊梅岩は今でも主に香港で活動し、そして『野良豚』のように香港では上演できない劇が2025年の東京で演じられていたということ。
2025年に出版された『あの時代を生きた 莊梅岩戯曲集』(インディー・チャン訳、見山株式会社) の『野良豚』の2025年出版前の短いあとがき中には、作者自身による次のような一節があります。
たった十年で、私たちが生きている世界は『野良豚』の世界となった。この激しい変化に怒りと悲しみしかない。
多くのイノシシは生きたまま捌かれ、まな板の上の肉となった。
2025年東京の秋に出会った、忘れ難い時間でした。

「自分に忠実に生きるしかないじゃない」
最近、ほぼ1年ぶりに莊梅岩氏の名前に触れる機会がありました。朋友阿古智子(現代中国研究者、東京大学教授)がFacebookに以下のような投稿をした中に彼女の名前があったのです。そのFBは以下のように書き出されています。
「異国の夏休み@HOME/WORK VILLAGE
香港・見山書店のブックフェアが東京で行われています。そして、8/15と17、私はブックトーク、朗読劇『幸せの極み』、荘梅岩&黄秋生のトークを観に行きました」
見山書店は、2018年に香港・上環太平街に創業した独立系(香港では、個人経営の書店を独立系と呼びます)の小さな本屋さんだそうです。惜しまれつつ2024年に閉店した(理由はお察しくださいませ)。その後2025年に見山株式会社として東京・池尻大橋で、出版と文化イベントに活動の軸を移した新たな活動を始めた。阿古さんはこの夏に開かれた「異国の夏休み」という見山株式会社の催しに行ってきた、という報告を書いてくれたのです。
プログラムで実施された朗読劇の後に開かれたトークセッションでの観客と莊氏の以下のやり取りを、阿古さんはFBの文章の中で紹介しています。ちょっと、読んでみてください。
中国出身の人かな。彼女はこう尋ねました。
「私は香港にこの劇を観に行きたかったんです。
ところで、少し沈黙すれば、あるいは妥協すれば、あなたのやりたいことが実現できるのに、あなたたちはそうはしなかった。どのような考えから、そうした選択をしたのですか」
莊梅岩はこう答えました。
「誰もその理由はわからないわ。目的を達成することは可能かもしれないし、不可能かもしれない。宝くじが当たるかどうかわからないように。未知の未来は予測できないから。だったら、自分に忠実に生きるしかないじゃない。忖度してあきらめるよりね」
莊梅岩はこのようにも言いました。
「私は元々温和な人間なんです。嘘は言わない、パワハラしないという方針でやってきた。それを守ってきたのに、こういうことになってしまった。私が学んできたこの価値観を捨て、学ぶことをやめれば、こんな変なことは起こらないかもしれない。でも、私は学び続けたいんです」
冒頭の「中国出身の人かな」というのは、多かった香港からの観客が広東語で質問をしたのに対して、この女性が「北京語」を使ったので、阿古さんはその方を「中国出身の人かな」と思ったという意味です。私なりに理解して書けば、この質問者は中国本土で生活する人、あるいは中国本土出身で日本で暮らしている人の可能性が高いのでしょう。
この質問には、彼女の「(北京政府に逆らうようなことはしないで、)少し沈黙すれば、あるいは妥協すれば、(よかったんじゃないの?)」という香港の民主派(つまり反政府派)全般への気持ちが含まれているように私は思う。黄色下線部はあくまで私ムラヤマの妄想です。
それに対する莊氏の回答の中にある「自分に忠実に生きるしかないじゃない」、私は痺れます。彼女は、自分の価値観を捨てることはできない、と言っているわけです。あぁ、これですわ、オイヤンさん、私があなたに伝えたかったのは。マイナンバーカードを作らないのは、これが理由なんですよ。
世の中の文学者や詩人や、歌手や作詞家や……、ときどき自分を代弁してくれているかのようなこと、ありますよね。今回は莊梅岩がそれを私のために(?)やってくれたみたいです。
多分ね、キーワードは「コントロール」。これは「支配」という言葉と親和性がとっても高い。そして、私はコントロールされたくない。できるだけ、他者もコントロールしたくない。誰かを支援することは、油断すれば「コントロールする」ということに近づくことも多い。海外教育支援に関わりながら、「コントロールする」ということに注意が向いて、意識して、考えてきた。そして、やっぱり「コントロールされたくない」「コントロールしたくない」。そして、人と対するときは「コントロールしない」。
これは莊梅岩が語ったことと、とっても近いことなんだろうと私は認識しています。
マイナンバーカード程度のもので、「コントロールされる」とか大げさに感じる人は少なくないのだと思う。でも、これはもう個人の感覚だから。「自分に忠実に」としか言えない。あるいは、ひとつ譲れば、それはまた次にさらなる譲歩を強いられるって予感があるってこと。だから譲るのが、諦めるのが、怖い。……たった十年で、私たちが生きている世界は『野良豚』の世界となった、と莊梅岩は書いたではないですか。だから、恐怖はあるし、きっと諦観もある。
「でも、私は学び続けたいんです」、はい、僕も同じ気持ちです。
先に書いたように、人はそれぞれの人生を生きる。同じ場所、同じ時間、同じ情報を共有したとしても、人それぞれ見えるモノ、感じるモノは違う。判断も違うし、当然行動も違う。それがそれぞれのリアリティ。一次的には良し悪しはない。
でも、僕の中には善し悪しがある。たとえそれがインテリ的であっても、僕がインテリなんだから仕方がない(私の中では、インテリは高学歴と同義。それ以上でもそれ以下でもない)。価値観は変えられない、とは書いた。でも、実際には価値観は変わる。人生観も、人間観も、変わる。人生の中でそれらは確かに変遷を続けている。
じゃ、変わらないものは、何か? なんなんでしょうね? 莊氏は上の事例で、それは「学び続けたい」だと言っています。うん。これまで僕自身、どうして価値観・人生観・人間観が変わってきたのかと言えば、確かに学び続けてきたからです。それは学校で、研修で、ということではなく、体験から、です。大失敗や恥ずかしくやらかしたことからは、学ばざるを得なかった。もちろん、本から、映画からも学んだ。それも、体験したこと。全方位で全感覚で体験し学ぶ。あなたからも、学ぶ。今もそう。
その結果、僕の中には「国家と距離を取れ」というような種類の価値観が継続して生き続けている。20世紀後半にこの地球に生まれた人類のひとりとして、国家の存在なしで生きることは(アマゾン地方の奥地や、インド洋アンダマン諸島の孤島にでも生まれない限り)無理なこと。それに国家には良い面だってあるとも思う。でも、あくまで国家との関係は便宜上の付き合い。必要以上に同化するのは危険だし、嫌だ。できるだけいい塩梅で距離を取る。そう思っているから、無くて済むマイカードならば、無しで済ませる。給付金? そりゃもらえたら好いね。でも、幸い、とりあえずお金にはそれほど困ってはいない。今のところ、もらわなくても済む。
僕のような奴への反論をいくつか考えて、それに反論してみます。
「あなたのような唐変木がいるから、国家の政策が進まない」
そういう面があるのは否定できない。済まないことです。でも、全国民一糸乱れずに物事が進むべきであるという考え方そのものが、危険じゃないかしら。いろいろな奴がいるからその社会が面白いじゃ、ダメ?
「国民が選挙で選んだ人たちによる国会で話し合って決めた政策を否定するのはおかしい」
私は否定しているのかな? 単にマイナンバーカードを作らないだけ。 そのことによる不便も受け入れている(あんまりにも不便となれば、それはひどいじゃない?って思うけど)。そして選挙で選ばれた人たちが決めたことには反対できないとすれば、それは横暴というものじゃない。民主主義は多数決である反面、少数意見の尊重という側面を持っているはずですし。賛成派も反対派も、どっかで妥協しなくちゃだめなのじゃん? (でも、人権系の話には、妥協は禁物だとも考えます)
「ODA(政府間支援)で働いてきた奴が、あるいは国家があるから成立する労働災害補償を受けている奴が、国家と距離を取るなんてつぶやいているのは滑稽である」
ODAで働くことも、あくまでGive and Take。政府は私を利用しODAを進め、私は政府を利用し海外支援というやりたかった仕事をやってきた。政府と私の関係は、持ちつ持たれつで対等です。契約に基づく関係でしかない。労働災害を始めとする社会保障の充実は国家と国民の責任、かつ国民はそれを受ける権利がある。先に書いたけれど、20世紀後半に日本に生まれたのは、私自身の選択ではない。単なる偶然。だから労災を受けられたのも偶然。そして、一応私も日本国家をより良くするために、一市民としてこれまで生きて行動してきたし、ね。
さて、私にとっても大きな問題はですね、ここで書いたことの多くが、私自身が否定し反対する考えの人たちの擁護にも大きな力を持つということなのですね。
いろんな奴がいるからその社会が面白い、とか、少数意見の尊重、とか。たとえば軍国主義的な価値観、専制主義/独裁主義を肯定する価値観、人を生産性の有無で評価するような人間観、経済的な成功や社会的な高い地位を目指す人生観……。“平和”のための戦争を肯定し、人種差別や性差別を社会の必要悪と肯定し、匿名を使って他者を攻撃することを許す価値観。人の不幸に付け込んでも自分の幸福を目指す人生観、等々等。
彼らが、たとえそれが少数者でも、完全否定はダメなのか? 尊重すべきなのか? 彼らが存在するから、多様性で社会は面白いのか? 非寛容にも寛容で接するべきなのか?
今も考えている。考え続けている。だから学ぶ。 そしてね、一応ちらっとだけ書くと、基本的には上記の短い質問の答えは、完全否定はダメだし、尊重すべきだし、彼らが存在するから多様性で社会は面白いし、非寛容にも寛容で接するべき、なのだと私は思っているようなところがある。もちろん、ここには様々なただし書きが加わっていくわけだけれど。
そして、徹底的に大事なのは、精神の自由なのだと思うよ。そして、自分と他者の安全と安心。どんな価値観・人生観・社会観・人間観も、この上に立って築いて欲しいのです。それじゃ、だめなのかな? それは理想論に過ぎないのかしら?
マイナンバーカードから少し遠くまで来てしまったかしら。
どうして、私同様に、母も、妹もマイナンバーカードを持とうとしないのか? もちろん、それぞれの言い分はまったく同じではないでしょう。一方で、そこには、ここでは書ききれなかったムラヤマさん家に漂っていたある種の背景/雰囲気、文化とも書けるのか、があるのだろう/あったのだろうとも感じます。それはそれで興味深いことです。でも、それはまたの機会に。
じゃ、また。

















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