100万人と7人と3人と

海と空 (本文とはぜんぜん関係ありません)

100万人

 先日読んだ記事によれば、全世界で新型コロナによる死者数が100万人を越えたそうだ。この事態をどのように理解すればいいか、ぼくは戸惑っています。
 カンボジアのポルポト時代の犠牲者は200万人、ルワンダの1994年の混乱で殺されたのが100万人、日中太平洋戦争時に日本軍によって殺されたアジアの人たちの数は2000万人、1945(昭和20)年3月の東京大空襲の死者は12万人、マラリアで命を落とす人の数は年間40万人を超える……。
 新型コロナの死は、ウィルスの感染死と考えれば、ある種の自然死とも考えられるけれど、そこに医療へのアプローチの格差などが絡んでくれば、それは自然死というよりは、人災、災害死、とも思えるし。

 とにかく、ぼくの周りの既知の方々に、この100万人に含まれる人は、いまのところひとりもいない。それも、ぼくがこの100万人の意味をしっかりと実感できていない理由だろうと思う。

7人

 実感ということでいえば、例えば、2016年7月1日にバングラディシュの首都ダッカにあるレストランで、武装した若者たちに襲われて亡くなった20人、そのうち7人は日本人。彼らは開発支援に関係した人たちで、つまりぼくの“同業者”の人たちだった。彼らの死のほうが、新型コロナによる死亡者よりも、ぼくにはずっと身近で実感が湧く。
 被害者の中に、ぼく自身の知り合いはいなかったけれど、ぼくの知人の知り合いという範囲では、いくつかのお話を聞いた。たとえば、あの夜に亡くなった若い女性は、カンボジアにも来たことがあり、そのときぼくは彼女とソフトボールを一緒に楽しんでいるらしい、とか。あるいは、あの事件が起きたレストランに、バングラディッシュで仕事があるたびに行っていた、という人は、ぼくの知り合いに数名いる。もしかしたら、あの場に居合わせてたかもしれないと思う人まで含めると、すぐに10名以上カウントできる。
 ぼく自身はバングラディシュには縁がないけれど、でも、とても身近に感じる出来事だった。
 新型コロナの100万人の被害者よりも、あの夜、銃弾を身に浴びて血を流して亡くなった7人の方は、ぼくにとってより身近な存在なんだ。

3人

 あるいは、3人の死。
 ぼくが青年海外協力隊でケニアに派遣されていた1991(平成3)年、日本の支援を受けていた南米ペルーのワラル野菜研究センターで、ODAプロジェクトに派遣されていた3名の日本人が反政府集団に殺される事件が起きている。このときも、武装集団が突然にセンターを襲い、勤務中の3名を見せしめのような形で殺した。さぞ無念の死だったろうと、想像する。当時、ケニアの田舎の村の中等学校で働きながら、1ヶ月遅れで送られてくる新聞ダイジェストの記事を食い入るように読んだことを覚えている。

 ぼく自身の2014年ルワンダでの交通事故の経験からもいえるけれど、死は突然にやってくる。走っていた車がスリップし谷に転落するまで、全ては10秒ちょっとのできごとだった。そして、同乗者のひとりが亡くなった。おそらく彼女は、なにが起きたかもわからないまま、亡くなったのだと思う。つい数十秒前まで、カーブの続く国道を行く車に揺られてウトウトしていて、そしてあっという間の死だ。

 バングラディシュでも、ペルーでも、ついさっきまで談笑していたかもしれない人たちを死が襲う。彼ら彼女ら自身から派生する問題とはまったく別に、ある政治的な状況の前面に突然押し出され、そこで「日本人」というよくわからないレッテルを理由に殺される。
 そういうことは、あるのだ。そういうことがあっても、避けられないんだ。世の中には、そんな理不尽ってある。それをときどき思い出す。

空を飛ぶ猛禽(本文とは関係ありません)

抗う

 絶対安全に身を潜めれば、行動はどうしたって制約される。やりたいことをする、行きたいところに行く、食べたいものを食べる、会いたい人に会う、そんな自由は制限される。
 つまり、やりたいことをする、ためには、どうしたって絶対安全から距離をとることになる。山に登らなければ絶対に遭難しないし、スキーに行かなければスキーで怪我することは絶対にない(ぼくが脊髄損傷で入院していたときの同室の20代若者は、スキーでやはり脊髄損傷、下半身麻痺のケガをした)。絶対安全なものだけを食べていれば絶対に食中毒にあることもないし、恋に落ちなければ失恋の苦しみにのたうち回ることも絶対にない。同じ病気でも、医療の整った社会なら助かり、未整備の社会では死ぬこともある。ならば、医療の整った社会から離れなければ、病気で亡くなる可能性は低くなる。
 わざわざ途上国に出かけていって、病気で死んだり、「日本人」という理由で撃たれたりするのは、リスクを自分で買った結果だ。そのとおり。

 でも、山に登らなければ、あの森林限界を越えた風景の雄大さや自分の足で登り続けて辿り着いた山頂での達成感は味わえないし、スキーをしなければ、リフトから見える野うさぎの足跡は見られないし、ザザァ―ッザザァ―ッと雪を蹴る足の感覚を知ることもない。40度の壁の上でひるむ気持ちを抑えて飛び出すかどうかを葛藤することもない。
 河豚を食え!とは言わないけれど、河豚を食べる文化があるのは、それでも河豚を食べてきた無数の先人(大馬鹿者たち?)がいたからだし、恋を知らずに読む恋愛小説になんの楽しみがあるだろう?

 リスク?悪いことが起こる可能性?最悪、死ぬかもしれない?

 でもさ、しょうがないじゃない。山も海もこちらから入っていかなければ、その美しさも厳しさもわからない。冒険のしなければ、味わえないものはどうしたって、ある。
 寝たきりの人にとって、それでも人の力を借りて外へ出かける、それだって冒険で、リスクはある。だからやってみたい。やれたら楽しい、かもしれない。でも、やらなければ、安全だ。昨日も今日も明日も、同じならば安全だ。

 新型コロナ禍のなかで、ぼくたちは試されている。慣らされていく。実感の湧かない100万人の死が、ぼくたちをコントロールしようとしている。さて、どうやって(あらが)うかな。どうやって、撃たれて死んでいった、7人や3人のそばに居続けられるかな。そんなことを、最近考えています。

 

 

 

 

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