カンボジア 首都プノンペンのバス路線支援ODAプロジェクトの例
以前、カンボジアの首都プノンペンでのバス路線設置に関する日本国ODA(政府間援助)プロジェクトについてちらりとこのブログで書いたことがあります。
そこであげた写真には、バスの側面に日の丸と“from the People of Japan”の文字が記してあります。プノンペンのバス路線にバスを支援した国は、日本以外に中国と韓国があり、ぼくの知る限り中国のバスには中国国旗がやはり記されています。韓国からの支援バスはどうかしら?
ODAは、支援国のためではなく日本国の「国益」のために実施するのだということを、ODA関係者がはっきりと口にするのをいろんな場面で何度か聞いたことがあります。その伝で言えば、このバス路線支援も、最終的には日本国の国益につながっていることになります。
そのつながりのカラクリは、ぼくにははっきりとはわかりませんけれど、ちょっと想像してみましょう。
ひとつは、カンボジアの人たちが日本国に感謝してくれる。そのことが、今後のカンボジア王国と日本国の国交になんらかの良い影響を及ぼすことが期待されているってことかしら。ただ、それは具体的にはなんだろう?そこはちょっと想像が及びません。排日みたいなことが起こらないのは大事ですよね。排日、日本製品ボイコットみたいなことが起これば、カンボジアに進出している日本企業は大きな損害を被ることになる。そんな事態が起こらないためにも、バスにつけられた「日の丸」「from the People of Japan」は効果があるのか、それほどないのか?さて、費用対効果は???
もうひとつ考えられるのは、このODAプロジェクトによって、日本企業がなんらかの利益を上げるというケースです。そのことが回り回って日本の経済成長を後押しする。たとえば、中古バスをカンボジアに無償提供するとしても、その中古バスを購入し改装し輸送しという部分には実費がかかるわけで、そこには日本企業が絡んでいるのかもしれません。
このような経済活動には、なかなかディスカウントという機能が働かいない面もある。最近は入札入札でそうでもないのかな。とにかく、ODAを通して、日本企業が正当に利益を上げるとしてそれは特に問題はないはずです。そういう意味でも、このプロジェクトが日本国の国益につながっていると考えてもいい。
もっと広い視点も必要かもしれません。カンボジアを支援することの意味は日本国の安全保障上、重要かもしれない。1990年代前半のUNTAC(カンボジア国連暫定統治機構)から、日本政府にとってカンボジアを支援することは、東南アジア外交において、大事な目玉案件であったのは確かだと思います。しかし、カンボジアの顔は日本だけに向けられれているわけではない。日本のODAで整備した国道が、数年後に他の国の支援で道幅大きく改装され直したなんて例も、以前カンボジアではありました。せっかく作った橋も壊されて、作り直されました。ちょっともったいない感じはしたなぁ。カンボジア政府にそっぽを向かれないために、戦略的に計画されたODA計画があって、その一部があのバス路線支援なのかもしれません。
でも、とにかく、バス支援は長いスパンで継続的に支援を続けた結果、ようやくプノンペンの庶民の足として定着に成功したようです。それまで無免許でバイクで登校していた中高生たちの何割かでもバスで通学するようになることで、彼らの安全はぐっと向上したはず。きっとODA事業の成功例となっていくんじゃないかな。
フィリピン ダバオでの現職教員研修の例
さて、ぼくが2000年前後にフィリピンで働いていたときのこと。フィリピン南部、ミンダナオ島の最大都市ダバオの地方教育事務所でいくつかの現職教員研修を回していました。働き始めたころは、あまり考えもなく、そんな地方での小さな現職研修の開会式や閉会式で、請われるまま「日本のODAもこの研修にかかわっているんですよぉ」という立場で挨拶をしていました。
けれども、そんなことを続けているうちに、この挨拶は、むしろないほうがいいんじゃないかと思うようになってきたんです。
持続発展性という言葉があります。持続、つまり継続して良くなってほしい、ってことです。プロジェクトで支援したことが、プロジェクト修了後も続いて成長して欲しい、その可能性を高めるのもプロジェクト実施中から強く意識しましょう、ということ。
けれども、プロジェクトってどこかお祭りだと思うんです。それなりに資金が投入されて、ぼくもそうだったように音頭取りの人間が現場に入る。どうしても、支援される側からすれば、どこかちょっと非日常。だから、お祭りが終われば、日常に戻るのは当たり前です。
お祭りってのは、毎日続くと、それはなかなか苦しく、楽しくないんじゃないでしょうか。たまにあるから、楽しめる。お祭りそのものの持続発展性を高めるのは、そういう非日常を続けることを求めてしまうことがあって、それはどだい無理なのだと、ぼくは思うようになりました。
継続が大事なら、できるだけ非日常ではなく、日常に近づけなくてはいけない。プロジェクトのお祭り性をゼロにするのは実際なかなか難しいのだけれど、できるだけお祭り性を排除したほうがいい、と考えるようになったのです。
となれば、わざわざ開会式や閉会式で、それほど役にも立たない「日本の資金も使われた研修です」なんて言わなくていいんじゃないかな。別に、日本人が前に座ったり出てったりする必要もないのです。ぼくが関わる部分は裏方でよくて、実際の研修では黒子に徹したほうがいいんじゃないか
(特にぼくは、油断すると目立とう精神が旺盛な方でしたので、むしろ地味に地味にと意識したほうがいいのです)。そういうわけで、だんだんとぼくは前に立って挨拶する機会をご辞退申し上げることが多くなっていきました。もちろん、ダバオの教育事務所のスタッフには、ぼくがどうして「挨拶を辞退するのか」の意図はよーく説明しました。その意図を彼らに理科してもらうことが、持続発展性につながっていくと思ったのです。
研修等のプログラムでは、その研修の名前を大きく書いた横断幕をよく作ります。あれ、英語でbanner、バナーって呼ぶこともフィリピンで教わりました。横断幕を作る代わりに、発泡スチロール板から起用に文字を切り出して、会場の式壇の背景にバナーの代わりにきれいに貼り付けるなんてこともよく行われていました。それを担当する人たちが常にいるわけです。「飾り付けなんて、いらないよ」なんて簡単に言うことが、彼らの仕事をうばうことになっちゃうなんてことも、学んだ気がします。
そんなバナーや背景には、多くの場合、スポンサー名が大きく掲示されます。日本国政府のODAがスポンサーになっているなら、そこにJICAのマークや、さらには日の丸が提示されるのが普通です。
徐々に、革新原理派と化していたぼくは、やがて「バナーに日本の印をつける必要はないよ」と言い始めました。同様の研修を、プロジェクト終了後も続けていってほしかったので、日の丸抜きのバナーなら、何度も使いまわしができるし、とも思ったのです。もちろん、お祭性を下げて、フィリピンの日常性に近づけようという意識もありました。
この辺りのアレンジメントに関しては、プロジェクト内の日本人関係者の中でも意見が別れました。単純にいえば、立場が日本国外務省に近くなればなるだけ、「顔を見せる外交の観点から、そこは譲れない」ということになります。まぁ、その立場としてそう言うのは、理解はできますよね。
そこから先は、さて、どうしたのかな。もはや昔のことでよく覚えていないんですけれど、ケースバイケース、だったかなぁ。どーんと日本ODAを表に出して実施した大きな教員研修会をダバオで主催したことも有りましたし(そんなときは、マニラからODA実施機関関係者も来てくれるわけです)、地味に開催する地方研修では、まったく日本は出さなかったり。
そこは、拙著『超えてみようよ!境界線』で書いた、「何枚もの舌を持ちましょう」ってあたりの感覚で対応したはずです。
『超えてみようよ!境界線』「何枚もの舌」から抜粋
何枚もの舌
ぼくがケニアにいたのは、1991~92年。ケニアが1963年独立以来の一党独裁制を捨て、複数政党制に切り替わった大きな変革の時期だった。長く続いた独裁に対して国際社会から民主化の圧力が強まり、ケニア政府が折れる形で、野党の存在を認める複数政党制が導入されたんだ。複数政党下での初の大統領選挙に向けて、職場でも休み時間になると政治談義が盛んに交わされていた。
ぼくの赴任地は、ケニアの民族集団の中で2番目に人口の多いルヒアの人たちが多数を占める地域だった。職員室で語られる政治談義でも、いくつか結成された政党の中のひとつだったルヒア政治家が率いる一野党を支持する声が大きかった。仲が良かった教員シテミを始め校長を含む同僚の多くが、長期政権を取っていた多民族出身の大統領には辛辣だった。
ところが当の大統領が村に選挙遊説に来ることになった。その日、村の広場はこの地域にはこんなにもたくさんの人がいたのかというほど多くの人でごった返し、祝祭ムードに満ちた。シテミも配布された与党支援の帽子をかぶり大統領遊説を歓迎した。「あんなに大統領の悪口を並べていたのに」と不満を伝えるぼくに、シテミは多少バツが悪そうにしながら、でも朗らかで悪びれなかった。女生徒たちは、何日もかけて練習した歓迎ダンスを大統領が乗った車が通る道筋で大汗をかいて踊った。大統領はその前を数秒で通り過ぎていった。そしてその翌日から、校長もシテミも同僚たちも、また野党支持に戻った。
その変わり身の速さに、そのときのぼくは反感をもった。でも、今なら笑ってすますだろう。
その後にかかわることになる途上国の教育開発の現場で、ぼくはときに支援する側に、ときに支援される側に立つ必要があった。そこでは一枚の舌しか持たない誠実さより、2枚、あるいは3枚の舌を使いこなす切実さが勝る。開発支援では、個人の信念で多数にとっての利益が見送られていいはずはない。
複数の舌を持つことは、人を裏切ってもいいという意味ではない。信念は必要なくとも、モラルは必要だ。そして、そのモラルの物差しはいつも自分自身の中に作っていくしかない。そこにはゆずれない線、越えられない線はある。
自分の複数の舌を自覚することは、自分の相手の人たちの複数の舌を肯定することにもつながる。境界を跨いだ場所では、そんな複数形の舌のコミュニケーションを楽しむぐらいでちょうどいい。そして互いの複数の舌を尊重することが、信頼にもつながっていくようにぼくは感じるようになっている。何より、そっちのほうが面白い。
『超えてみようよ!境界線』かもがわ出版 2021 (26~28ページ)。

















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