ちょっとわけあって、アンコール時代の科学(サイエンス)のことをあれこれと考えております。
でも、当時、どんなサイエンスがあったのか、というのは、まったく資料はありません。そもそも、アンコール時代(9世紀から15世紀始めまで)の情報はごくごく限られたものしかない。一次資料は当時の石碑の記述です。詳細に調べたことはないのですけれど、そこには科学についての記述があったという話は聞いたことがありません。石碑に残されていたのは、歴代の王がどうしたこうしたという情報が主だったと思います。また、アンコール時代後半(13世紀)にアンコールトムを訪れた中国使節の一員だった周達観が書き残した真臘風土記が今に伝わっています。そこでも、特に科学技術に関する記述はありません。
でもこれはつまり、当時、科学という概念そのものがなかったでしょうから、当然でもあります。
当時の日本(室町時代)や、西欧(中世)でも、科学はまだ一般化されてはいませんでした。
現代的な意味での科学の誕生は、17世紀のニュートンに結実するいわゆる科学革命まで待たなければなりません。それ以前には科学というのは、魔術であり、あるいは哲学の一分野であったと考えたほうが実情にあっていたと思います。
ですから、アンコール時代の科学は?というのは、問いの立て方そのものにも“無理”もある。それでも、カンボジアの人たちに科学に興味を持ってもらうその第一歩として、アンコール時代の科学を思い描くことはひとつの有効な手段と私は考えているのです。
アンコールワットは800年前、エジプトの大ピラミッドは4500年前
まず基本的なイメージから。
歴史的遺産の当時の建設風景の想像図ってのが世の中にはよくありますよね。アンコールワットの建設時の想像図というのもあります。当然、人力が中心で、よく象🐘も家畜として描かれていたりします。さらに、世界的遺産としては代表的なエジプトの大ピラミッド、あれも当時の建設風景の想像図を目にすることがあります。実は、アンコールワットとエジプト大ピラミッド、両者の間には約4千年弱の時間があるのです。現代とアンコールワットの間の時間は800年程度とすれば、アンコールワットは4500年前と言われるピラミッド建設時よりも、ずっと現代に近い。
けれど、アンコールワットと大ピラミッド、建設時の様子は、わりとよく似ているように思います。どちらも主要な動力は人力です。大きな石(石の大きさでは大ピラミッドのほうがずっと大きい)を人力で積み上げて、アンコールワットなり、大ピラミッドなりを作り上げた。その労力たるや、すごいものがあります。
おそらく、どちらも梃子(てこ)の原理は理解されていたように思います。でも、大ピラミッド時代には滑車はなかっただろという説のほうが有力だそうです(滑車が大ピラミッド時代にもあったという説もありますけれど)。アンコールワット建設時には滑車はあったのではないでしょうか。しかも、おそらく動滑車もあった可能性が高い。
おそらくの工具もアンコール時代のほうが洗練されていた可能性が高い。アンコール時代の工具はすでに鉄器だったと思われます。大ピラミッド時代は青銅器だったはずです。
科学、というより当時の技術は?
つまり、まずは科学、というより当時に使えた技術は?という問いのほうが答えやすいかもしれません。
アンコール時代は、鉄器の工具を使っていて、さらに梃子や滑車があった。大ピラミッド時代は青銅器で、梃子はつかえただろうけれど、滑車はなかった。
また両者とも東西南北の測定は正確です。つまり望遠鏡以前の肉眼における天文学的知識は両者ともかなりあったと思われます。アンコール遺跡の中には月食を意味するものもあるようで、とすれば、月食が現れる計算も可能だったのかもしれません。まず間違いなく、月食が満月時に起こり、日食は新月時に起こるというようなことはわかっていたでしょう。また、暦の作成もされていたと思われます。ただ、これらは支配層のごく限られた人たちだけが秘術のように使っていた可能性が高かったように思います。つまり暦と権力は今以上に強く結びついていたはずで、だとすればそういう知識や技術を一般化するという考えはまだなかった。
おそらく暦のような知識は、宗教とも密接に絡んでいたのでしょう。アンコール時代は、初期は主にヒンズー教が主で、後半になると仏教(上座部仏教)が広がっていきます。バラモンや僧といった宗教的指導者が秘術として天体観測を行っていたんじゃないでしょうか。
では、地動説だったか?天動説だったか? 西欧で地動説を唱えたコペルニクスやガリレオ以前、紀元前のギリシャ時代には月食の影などから地球が丸い天体であるという考えがすでに生まれていました。ただ、その後、その考えは広がらないまま、中世のキリスト教の強い支配の中、天動説が人々の考えを支配した。ギリシャ時代の考えは、西欧ではなく、むしろイスラム圏で伝承されていたといいます。とすれば、イスラム圏からインド文化圏を経て、なにか先進的な考えがアンコールに伝わっていた可能性がないわけではありません。でも、それは確かめようがありません。おそらく、地動説が広く浸透していたとはあまり思えません。やはり素朴概念として、天が動いていて、大地は平らと人々は認識していたんじゃないでしょうか?
雨季乾季が交代でやってくることははっきり認識していたでしょうけれど、その仕組はわからなかったでしょう。そもそも、空気という認識はあっただろうか? 現在のカンボジアの言葉で、空気と風は同じ単語です(理科を教えるとき、気をつけないと混同してしまい少々やっかいです)。
さらには燃焼に空気が必要という認識はあっただろうか? 密閉した場ではロウソクが消えるという現象は理解されていたでしょうか? ごくごく自然に観察される事象ではあったように思います。とすれば、私たちの身の回りには“空気”があって、それが動けば“風”という認識はあった。だから両者は同じ単語なのではないかなんて、私は想像してしまいます。
遺伝はどうでしょう? メカニズムは分からなくとも、遺伝という現象があった、つまり親と子どもが似ているというようなことは認識されていたでしょう。象や豚、水牛などの家畜もいたのですから、そこでも親の形質が子に伝わるは認識されていたと想像します。 さらには栽培作物もあった。そこでも同様に形質が次世代に伝わることはわかっていたと思われます。ただ、そのメカニズム、伝わる仕組み、は理解されていなかったでしょう。精子や花、種、生理、など表層的な物や現象は認識されていたでしょうけれど、顕微鏡がない中で、具体的な仕組みまでは解明されていないはずです。
化学はどうでしょう。さまざまな鉱物は認識されていたでしょう。そして、アンコール時代にも西欧と同じく錬金術が模索されていたかもしれません。鉄器があって、つまり銅器もあって、金や銀の精製も理解されていたとすれば、それぞれの鉱物が温度の違い(温度を測る技術はないとしても)で溶けたり溶けなかったりするということも理解されていたでしょう。ただ、温度計はまだなかったはずです。フイゴはあったでしょう。つまり空気を送り込むと燃焼が盛んになるということはわかっていた。でも、それが空気の中の特に酸素が関係してる、というレベルまではわかっていなかったでしょう。いわゆる分子論はギリシャ時代にもありましたけれど、実証的に理解されていくためには顕微鏡のような器具の発達を待たなければいけない(それでも分子はまだ見えませんでしたけれど)。一応、顕微鏡の開発は、知られている限り1590年のオランダです。望遠鏡はやはりオランダで1600年代の始め。どちらもアンコール時代が終わった後になります。
薬の類は、生薬、つまり薬草やあるいは動物や鉱物由来の今で言う伝統医薬は存在したと思われます。それらを伝えたのも、バラモンや僧という宗教的な指導者だったはずです。主にはインド由来のものだったのではないでしょうか?例えば、胡椒ももともとは香辛料としてではなく、生薬としてインドから東南アジアに伝わったといわれています。中国から漢方薬の知識を伝えた者もあったかもしれません。ただ、これらを現代科学の文脈で語るのは正しい理解ではないかもしれません。おそらく、祈祷や呪いの延長としてこれらの生薬は存在した。すべて経験則であって、なかには今となっては迷信としかいいようのない薬もあったでしょう。
そのほか、今で言うところの科学や技術につながるものとして何があったでしょう?
科学とは何か?
となってくると、あらためて科学とは何かということを考えないわけにはいきません。科学とはなんでしょうか? ここでは自然科学、いわゆる理科、をイメージしています。
自然科学とは。定義表現は人・書物によってさまざまですけれど、大ざっぱに以下のように取れることができるように私は思います。
自然現象の理解、把握。観察や実験を通じて明らかにされてきた仕組みや法則と呼ばれるもの。実験であれば、再現性にたどりついたものが価値を持つ、とされること。個別の対象・事象を超えて、普遍性につながるもの、あるいは普遍性から派生したと理解できる対象や事象。
そういった自然理解のための知識が体系化され理論化されたもの。
さらに、これまで明らかにされてきたものが集積されてきて、それをこれまでの人類の成果・遺産として学べるもの。これまで集積されてきた成果や遺産を基にして、さらなる発展・発見が望まれ、また“正しさ”についての挑戦を常に受け続ける運命にあるもの。たとえばニュートン力学で世界は説明できると思われていたのに、多々の矛盾が発見され、やがてアインシュタインらがそれを覆していった(新たに付け加えていった)例のように。
因果関係(因果律)、唯物論(物質主義)、実証主義(再帰性)、さらには、西洋中心、近代化、産業と技術につながる基礎……。
科学を表現すれば、以上のようになるでしょうか。
では、それはアンコール時代にどれだけ芽生えていたか。アンコール時代と一言に云っても、アンコール時代、つまりクメール王朝の始まりは、9世紀(日本では平安時代で、天台宗の祖の最澄や真言宗の祖の空海が活躍した時代)で、その終わりは15世紀の前半(日本では室町時代、もうすぐ応仁の乱が始まるころ、ヨーロッパではフランスのジャンヌダルクが活躍したころ)まで、700年近くあるわけで、その時代の中にもきっと変遷があったはずです。
たとえば、中国で開発された火薬はおそらくアンコール時代後半には今でいうインドシナ半島にも伝わっていて、もしかしたらその活用の差がアンコール時代の後期には、時の勢力の強弱を左右し、そのことがアンコール王朝がアユタヤ王朝によって滅ぼされた理由のひとつなのかもしれません。
けれども、アンコール時代を通して、当時の東南アジア大陸部は、世界的にも人口密度は低いほうで、勢力同士の戦いも領土獲得よりも労働力(奴隷)獲得がその主目的とされていた時代でした。人口の流動は激しく、つまり、まだ国民や市民は誕生していませんから、学校というような教育制度もなかったでしょう。それまで蓄積された知識は、主に宗教的な営みの中で醸成され、いわゆる技術もその中に含まれていたと私は想像します。たとえば日本の中世でも、大きな土木建設のリーダーが高僧たちであったように、一部の“知識人”のみが知識を扱えた。
暦の知識の基となる天体観測による天体の運行の知識は、もしかすると今以上に市井の人たちの関心を引いていたでしょう。占い師や興行師が、一種の秘術や魔術として今でなら物理や化学に関連するテクニックを学び伝承していた可能性もあります。それらは限られた人たちの秘技であり、やはり限られた人たちだけに伝えられた。つまり、知識の体系化がまだ起こっていない時代と考えてそれほど間違っていないのではないだろうか。
しかもアンコール王朝はけして安定した権力体制が構築されていたわけではなく、王が変わるたびに新たな王を巡って争いが続いていたそうです。つまり、乱世の時代で、王が変わるたびに権力の移譲が繰り返されるという、知識の蓄積にはあまり好ましい時代ではなかった。
つまり700年近い期間の中で、独自に発達させた“科学”があった可能性はけして高くなかった。おそらく“科学”は常に外部から持ち込まれたものに限られていたのではないだろうか? とすれば、当時の状況を想像することは、ある程度可能なのではないだろうかと思うのです。
もちろんそれも歴史知識の素養に欠けている私の想像です。皆様からの助言・アドバイスを心からお待ちする次第です。
アンコール時代の科学とは。もうしばらくこのテーマで、個人的な勉強を続けてみようと思っております。
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