前田昭子先生との時代
東京都杉並区立沓掛小学校、そこで私は1年生から6年生まで過ごした。その6年間の中で、小3~小4の2年間が、私の黄金時代だっただろうと思い出す。黄金時代に導いてくれたのが、この2年間の担任だった前田昭子先生だった。
前田先生は私にとってとても印象深く、多分強烈に影響を与えてくれた恩師だ。「多分」と書いたのは、それではと振り返って、さていったいどんな「影響」を与えてくれたのかと考えると、さーて、なかなかそれが言語化できないからだ。
自分であり続けること、みたいなことだろうか? 一生懸命に誠実に生きる、ということだろうか? もしそうだとしても、いったいどのようにして前田先生はそれを私に伝えたのか? そこのところがよくわからない。でも、確かに彼女からは多くを受け取ったような気がするのです。
とにかく、私は前田先生が大好きだった。彼女に褒められたくてたまらなかった。叱られると心からしょげた。
前田先生が大好きなのは私だけではなくて、3年2組(あるいは、4年2組)の生徒の多くが前田先生が大好きだったろうと思う。前田先生は、私たち子どもにとってはとてもまっすぐな人だった。それはおそらく、楽しいことも、あるいは楽しくないことでも、つまりどんなことであっても私たち小3・小4の気持ちのなかにすとんと納得させる力が、彼女はとても強かったのだろうと今思い出してそう思う。それは話力であり、目力であり、優しい笑顔であり、そしてきっとぶれないってことだったのだろう。
とにかく、私は前田先生の下で、本当にのびのびとした少年時代を過ごした。そして今思い出すと、それはそれはいや~なガキ時代の鼻持ちならない黄金期であった。自分中心で、お山の大将で、わがままで、負けず嫌いで、ええ格好しぃで……。思い出すと、自分の肌が粟立つような気がするほど恥ずかしい。でも、100%ガキでいることが許された、多分、人生でごくごく限られた日々だった。だから黄金時代。
微かな「死の翳」、生きることの憂いの破片
前田先生の時代、小3だったのか、小4だったのか、低学年のときには無かった学級委員という役割が各クラスに降りてきた。男女各1名、2名が学級委員としてクラスをまとめ、さらに高学年が仕切る学級委員会という集まりに、放課後週1回だったか、月1回だったか出席しなければならなかったはずだ。
そして、私はその学級員だった。立候補したのか、推薦されたのかは覚えていないけれど、おそらく前田クラスが継続した間は、ずーっと私が学級委員だったのではなかったか。女子は、誰だったのかなぁ、五十嵐さんかなぁ。もしかしたら小5以降の記憶と混ざっているかもしれない。
そして、小4のとき、前田先生のパートナーが病に倒れたのだ。舌癌と聞いた気がする。パートナー氏も学校は違うけれど、前田先生と同じく小学校の教員だったはずだ。
小3のときに前田先生は産休で数ヶ月お休みだった。二人目のお子さんだった。だから、パートナー氏が闘病していたとき、前田先生は二人の幼子(ひとりはまだ赤ちゃん)の母親であり、職場では我らがクラス担任であり、そして病と闘う愛する人を支えるひとりの女性であるという、スーパーウーマン的な日々を過ごしていたはずだ。
よく夜9時ごろに前田先生から私の自宅に電話があった。翌日、彼女はどうしても登校できないので、毎授業、何をやるのかを学級員である私にていねいに伝えてくれたのだ。
「○○先生にプリントを渡してあるから、職員室でそれを受け取ってみんなに配ってやるように。授業が終わったら集めて○○先生に渡してね」というようなことを、私は黒い受話器を握りしめながら「はい、わかりました」と真剣に聞いたのだ。
今思えば、だれか代わりの先生がクラスに来て授業をしてくれたのかもしれないけれど、でも、多くの時間は生徒だけで過ごしていたようにも思う。そんなとき、私はそれこそ学級委員長風に遠慮のないリーダーシップを取ったに違いない。
それでも、前田先生のメッセージは細部に及んでいて、そんな私の傍若無人なリーダーシップに気づかせ、ときにはダメ出しもあり、そして最後に「おねがいね。がんばってね」と、私の心をがっしりと掴む殺し文句で終わるのだった。
パートナー氏の病状はかなり悪いようだった。前田先生の休みが早くから決まっていれば、放課後、印刷室で輪転機を回す先生の横で、翌日の自習用のプリントを受け取ったりしたのもごく日常的なできごとだった。そんなとき、前田先生がそっと涙を流しているのに気が付いたこともあった。普段は明るい前田先生が流す涙に私はすっかり緊張し、ただただ立ち尽くすことしかできなかったのだろう。そして、翌日の前田先生抜きのクラスがうるさく騒ぎ立てて隣のクラスの先生から注意を受けないように、張り切ってしまったりしたのだろう。そして、おそらくその私の中には、旧態依然とした「守る」というような隠語が育ったりもしていたのだろうと思い返す。
4年生が終わると、2年に一度のクラス替えだった。確か4年2組はクラス替えが嫌で、来年も前田学級が良いと我儘をこねて、校長室前の廊下にみんなで座り込んだりしたこともあったように思う。それとも、あの座り込みは、大事に使っていた古い木造校舎が新校舎建設のために壊されるのに反対してのものだったかもしれない。とにかく、4年2組のクラスの大勢が校長室前の廊下に座り込み、そしてその首謀者が私だったのだ。江戸時代の一揆であれば、騒動のあと責任を取って打ち首になる立場だろう。
座り込みなんて技法を私が知っていたのは、多分、労働組合活動に従事していた父からの影響だったのではないか? それをよくわかりもしないまま、自分の日常世界に持ち込んだんじゃなかったか。
もちろん、どんなに座り込んでも、4年2組は三学期で解散し5年生に進級して新しいクラスに分かれたし、木造校舎も予定通り壊され、翌年にはきれな新校舎が建った。
5年生になってしばらくして、前田先生のパートナー氏は亡くなった。元4年2組の保護者には連絡が回って、私の母は葬儀に参列したはずだ。私たちは、その葬儀の日、なんとなく落ち着かない1日を過ごした覚えがある。自分たちも葬儀に参列したかったのだ。そしてピンチの前田先生を囲んで、せめて守りたかったのだ。
もちろん、多分私も、級友たちも、死のことなんか全然しらなかったと思う。そしてその非日常性にむしろワクワクし密かな興奮を覚えていたに違いなかった。それでも、もしそれが生きることに必ず付随する憂いだとすれば、それは子どもにとっては魅力的ですらあったのかもしれない。多分、同じ学年4クラスの中で、その憂いの破片の匂いを感じていたのは特に4年2組の級友たちだったのだろうと思う。
そして黄金時代は終わり………
前田学級で好き勝手に過ごしていた私は、5年生になり壁にぶち当たった。新しく沓掛小に赴任し担任になったH先生と、どうも折り合いが上手くいかなかったのだ。H先生からしてみると、扱いにくい生徒だったに違いない。なにせ面と向かって「前田先生なら、そんなやり方はしない」と口にする悪ガキなのだ。本当に申し訳なかったと思う。ああいうことを言えてしまった自分の残酷さが、今、私がときに「子どもは嫌いだ」と嘯く背景になっているのだと感じる。
前田学級では、私は授業中、よく教室内を歩き回っていた。自分の課題は終わってしまって手持無沙汰で、ついつい立ち歩いて課題に苦戦している友人に助言しに回っていたはずだ。けしてふざけて歩き回っていたわけではなかった。。私は多動なところのある子どもでもあったのだろう。そして、それを前田先生に強く叱られた覚えがなかったのだ。けれども、H先生はその私の奇行を許さなかった。「ちゃんと座ってろ」ときつく注意された。そんなふうで、とにかくようやく世間にもまれ始めた我がまま坊やというのが前田クラスを“卒業”した後の新5年生の私だったのだ。
けれども嬉しい思い出もある。当時の沓掛小では、5年生から音楽・図工、そして理科は専科の先生が教えていた。そして、理科の授業を受け持ってくれたのが角田先生だった。登下校時や職員室では人一倍バリッとしたスーツを着こなしていた角田先生の理科は、1年からずっと女性の担任教師についていた私にとっては、初めての男性教師による授業だった。その最初の授業。自分たちが使う通常の教室ではなく、理科室という専科教室に移動すれば、緊張感は高まる。スーツ姿ではなく、いつも白衣を羽織って授業をする角田先生がひとりひとりの名を呼び出欠を取る際に、「むらやま てつや」と私の名前を読んだ。そして、「はい」と手を上げる私の顔をまじまじと見つめると、すぐさま「あぁ、お前が前田先生のところの村山か」と私に訊ねたのだった。そして、「じゃ、名誉ある教科書の最初の部分を、村山、お前読め」と当てられた。
とても嬉しかった記憶がある。それ以来、角田先生のクラスは私の大のお気に入りになった。あれがその後私がまがりなりにも理科の教師なんてものになってしまったひとつの大きなきっかけだったろうと思うのだ。
前田先生はと言えば、低学年の担任に移ったのだった。職員室の外から、そっと前田先生の姿を探したことが何回もあったように思う。恋しかったのだ。たまに顔を合わせて、「元気?」なんて声をかけてもらおうものなら、小躍りして嬉しかった。
そして、私たちが小6に進むとき、前田先生は立川の小学校へ転任していった。さみしかった。確か、元4年2組の仲良しで手作りの本だな(といっても一段だけの小さなもの)を差し上げた記憶がある。木材からきちんとのこぎりで切り出し、表面にやすりをかけ、組み立て、ニスを塗ってしあげた私たちにすればかなり立派な本だなだった。
まだ返せていない2万円
前田先生とのご縁は、その後も続いた。中学校になっても、高校になっても、浪人中も、大学生になっても、国鉄中央線国立駅からバスに乗って先生の自宅を訪ねた。ときには小学校時代の級友と。でも、やがては一人で。国立の先生家族が暮らすアパートに行くと、私たちが差し上げた本棚がいつもあったのを覚えている。先生の家で食事をご馳走になったり、国立駅で拾われて、先生の職場につれていかれたり。中3の冬に訪ねたときは、無理やり国立市にある谷保天神に連れていかれ、合格祈願の絵馬を書かされたこともあった。
高校3年の秋、野球部活動も終わり登校する意味を見つけられなくなっていたのに加え、失恋で変になっていた私が、当時つくば市に移っていた親に「大学受験前に世界を見てまわりたい。まずベイルートに行ってみたい」と言ったことがある(中1から中2に進級する春に、父は転勤で杉並区を離れ、母と妹ふたりは同行し、私だけ中野区の祖母に預けられていたのだった)。心配した母が前田先生に告げ口して、すぐに前田先生から私に電話があった。「親に心配をかけるとは何事だ。頭を冷やせ。そのためにどうする?」と問われた私は、なぜか「京都の坂本龍馬の墓参りに行ってくる」と答え、前田先生はすぐに現金2万円をカンパしてくれたのだった。
私は「今日明日は、友だちの家で勉強してくる」と祖母に伝え登校したと見せかけ、そのまま新幹線にのって京都まで感傷旅行にでかけた。学校に持っていくはずの弁当を、富士山を見ながら新幹線の中で食べたのだったなぁ。その程度のガス抜きで、ベイルート行きはあっという間に立ち消えになり、それでも結局私は勉強不足で一浪してしまったのだった。
私が20代後半のときに青年海外協力隊に参加してケニアの田舎で教師をやっていたとき。なんと前田先生はケニアまで来てくれたのだった。けれども、私が彼女のケニア訪問を彼女からの手紙で知ったのは、彼女がナイロビに到着するのとほぼ同時ごろ。しかも、東京都教育委員会から「ケニア国内での自由移動は厳禁」と言われてしまっていたらしく、彼女がウガンダ国境に近い私の任地まで来ることは叶わなかった。私がナイロビまで行く時間もない。なんとかホテルに電話がつながって少しだけ声は聞けた。「会えないのは残念だけれど、あんたのおかげで思い切ってこれたよ」というようなことを言ってくれたはずだ。
そして、その後彼女はスイスで日本人学校に校長として赴任したりもしたのだった。「ケニアを希望したけれど、女性はダメだと言われた。それでもこんな機会を作れたのもあんたの影響よ」と言われて私はその気になっていたけれど、きっと私以外に様々な要因があったに違いないよなぁ。ちなみに、前田先生と同じ時期にケニアのナイロビ日本人学校に派遣された校長先生は、その任期中に学校の校門のすぐ外で強盗に襲撃され銃で撃たれ命を落としている。彼女は、そのこともその後長く気にかかっていると私に語ってくれたことがあった。「なんか、申し訳なくてねぇ」と。
その後、私は海外生活が長くなり、いつしか知らないうちに前田先生も退職し、その後の彼女の住所がわからなくなってしまった。そのときは必死に探し回って、ようやく連絡がとれた。あれはもう15年前か、20年前か。そして、やはり海外に長く出た後の帰国時に送った手紙がまた宛先不明でもどってきてしまって。だから、もうずいぶんと前田先生とは連絡がとれていない。彼女には「怪我して車イス者になってしまいました、でも元気です」の報告はできないままでいるのだ。車イス者になってから出版できた本(『超えてみようよ、境界線』)は、彼女にはぜひ謹呈したかったけれど、それもまだできていない。
後になって知ったことによると、前田先生は男子が先で女子が後というスタイルの男女別名簿に代わって、性別の区別なしの混合名簿を新たに導入する運動の、東京都教育界での首謀者のおひとりであった。彼女はそんな活動をよく「彼の代わりにやっている」というように口にしていたことは覚えている。彼とはもちろん急逝したパートナー氏のことだ。確か、前田先生の長男氏も、東京都で教員になる道を選んだはずだ。彼の名前も(誕生日も!)覚えているけれど、ここで書くのは遠慮しておこう。あのころ赤ちゃんだった娘さんを、彼女が小学校に入ったころ、かなり長い距離、私はおんぶして歩いたことがある。マジンガーゼットのヒロインと同名で、その名前を知った私たち(当時小3)は「その名前はぜったいおてんばになるからやめた方がいいよぉ」とかなり失礼で余計なお世話のことを言ったのだった。お二人とも幸せになってくれていると嬉しいなぁ。
前田先生、ご存命かなぁ。本当にあれこれとありがとうございました。あの2万円、お返ししたんだったかなぁ。多分、返せないままなんだろうなぁ。あれ、次の世代に返すようにしますんで。それで許しておくんなさい。
きらいきらいきらいだいっきらい
さて、再度小4にもどって。クラス替え前の最後の三学期、「全員が、クラス一人一人に作文手紙を書こう」という前田先生が変てこりんな提案をしたのだった。クラスには40名ほどの生徒がいた。つまり自分以外ということは、40通ほどの作文手紙を書かなくてはいけないわけだ。なかなかの大事業だった。
そして、多くの生徒がその課題を成し遂げたのだと思う。集められた作文は、その宛先ごとにていねいに綴じられて、三学期の終業式の日に先生から手渡しされた。
自分以外のすべての級友が、自分に対して書きつづったものを読むというのは、かなり刺激的なことだったはずだ。中には、ほとんど会話らしい会話をしなかった女生徒もいるわけで、そこに何が書かれているのかは、きっとかなり気になったのだろう。
そして最も衝撃的だったのが、金子さんが書いてくれたものだった。400字詰め作文用紙1枚にも満たない短い文章の内容は今でもほぼ頭の中に残っている。
私は、村山君のことがきらいです。きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、だいっきらいです。
と書き出されたその作文は、この後数行で私のお山の大将ぶりの数々を的確に指摘し、「バカじゃないかと思う」と続いた。
金子さんとは、普段特別に話すようなことも無かったけれど、私は彼女には悪いイメージはまったくなかった。どちらかと言えば、好意すらもっていただろうと思う。その金子さんが書く「きらい、きらい、だいっきらい」は、本当にズシンッと心に響き、後々まで強い印象を残した。
そして、彼女の書いた私のお山の大将ぶりは、まったくそのとおりだったのだ。たとえば、どちらかと言えば立場の弱い旧友に、けしてポジティブではないあだ名をつけ、それで呼んでいたことなどを金子さんはしっかりと糾弾してくれていた。もし今その級友に会ったら、何度でも頭を下げて詫びなければいけないことであったなぁ。あぁ、金子さんのあの作文があったことが、何か私の転機に小さくつながっていったのかもしれないのだ。金子さんとはクラス替えで小5からは違うクラスだったし、さらに卒業後は違う中学校に進み、つまりその後はまったくご縁もない。この場を借りて、心からお礼申し上げなくてはいけないなぁと思うのです。金子さん、ズバッと書いてくれてありがとうございました。
そして、金子さんは最後に書いてくれた。
前田先生が休んでいるときに学級委員として一生懸命なところはよかった。だから、最初の「きらい」は三つだけへらしてあげます。
三つ減っただけでも、よかったよぉ。それでも、まだずいぶんたくさん「きらい」が残っているわけで……、やれやれ、精進は続くよ、なんだよなぁ。
追記; 後年かなり経ってから、母が私に言う。
「あんたは前田先生、前田先生って慕うけれど、前田先生のやり方が苦手だっていう子もいたのよ。たとえば髪の毛がとっても長くて静かな子だったSさんとか」
なんかなぁ、本当に人間たちの集団って面倒臭いよねぇ。教師って、すっごく大変なお仕事だって思います。そして、私にとって前田昭子先生と出会えたのは、本当に幸運だったなぁと思うのです。今でも「ザ・前田昭子」が、私の理想の教師像なんだろうと思います(だから、その後もずっと、私は教師にはなりたくないと思っていた。だって前田先生になれるわけはないのだからと。今でもそんな気持ちはあるのです)。
前田先生は、悪さをすると説諭した後で頭のてっぺんを手のひらでパーンッと真上から引っ叩いた。目から火花が出るってあのことだろうと思うほど、強烈なパーンッだった。あれも今なら体罰なんだろうなぁ。叩くのも愛情と言って叩くことを肯定するなんてできない。叩いちゃダメよ。けれども、私が前田先生に叩かれて、それが心の傷として残ったってことは幸いなかった。なぜ叩けれたのかも納得づくだったから。そういう時代と言えば時代。私の前田クラスでの黄金時代は、昭和48~49年(1973~74年)でした。


















なんという鮮明な記憶!
書いていて、どんどん記憶が湧き出てくるのです。まだまだ書ききれないようです。
放課後、上級生と喧嘩して。私はそのまま帰宅したのだけれど、その後級友らは上級生から報復にあい。翌日「あんたが帰ってから、大変だったんだから」と先生から詰られたこと。
あるときに「村八分」という言葉を私が口にした際には、とても嫌そうに顔をしかめて、「あんた、そんな言葉をどこで覚えたの?」と言われたことも。
よくわからないまま背伸びしたときには、容赦なくその腋の甘さを指摘されたなぁと思い出すのです。
前田先生から「きらい、きらい、だいっきらい」と言われたかと思って、ドキドキしながら読んでいたがな。
ご存命なら、まだ70-80代?
会いたいねぇ。
ザ・村山哲也の原点を作った方に。
サヨナラだけが人生さ、って気分もあります。ご存命ならすでに80代だろうと。
常に全力で生きておられた先生でしたから。「わたしは、もうくたくたよ」と、お電話で最後にお話しした際にはおっしゃっておられました。その気分は、なんとなくわかるのです。