「スポーツを通して感じる誇り」  愛国心の先が欲しいです

From Official Site of SEA Game 2023 https://cambodia2023.com/

ASEAN スポーツ大会 開催!!そして、終了!!!

 先週金曜日に、ASEAN 障害者スポーツ大会の閉会式が盛大にプノンペン郊外の新国立競技場で開かれました。5月上旬から続いていた、ASEAN スポーツ大会2023(通称 SEA GAME 2023)の一連のプログラムがひと段落したことになります。

 SEA GAME2023は、カンボジアにとって大きな国際スポーツ大会の主催は2度目になります。一回目はシハヌーク時代の1966年11月下旬から12月上旬にかけて開催されたアジア新興国競技大会ですから、SEA GAME2023は戦後(ポルポト時代とそれに続く内戦、1998年終止)初めてのカンボジアが主催する大規模な国際スポーツ大会となりました。

 5月のSEA GAME 2023開催中は、私の知り合いの多くがSEA GAMEを観戦しています。彼らが投稿するSEA GAME関連の写真でフェースブックは連日華やかでした。
 カンボジア選手が獲得したメダル数がカウントされ、その数にカンボジア社会は一喜一憂しているという雰囲気でした。そんな雰囲気を表現する記事を見つけたので、以下少々長いですが引用します。毎日新聞での池上彰さんと有森裕子さんとの対談からです。
(以下、池上彰のこれ聞いていいですか?:開催を強行、感じていた疑問 有森裕子さんと振り返る東京五輪 | 毎日新聞 (mainichi.jp) より抜粋)

池上 今回の東南アジア競技大会の開幕式はどうでしたか。

有森 競技場の建設には中国資本が入っていて、国立競技場(東京都新宿区)よりも規模が大きくて立派です。開幕式では、カンボジアの歴史をたどりながら国の誇りを映像で映し出すマッピング技術がすごかったですね。こんな技術があったのかと。また、入場無料でしたので大勢の人々が観客席を埋めていて、映像が変わる度に会場中から「わーっ」と歓声が上がり盛り上がっていました。私はカンボジアにスポーツを根付かせるために足りない部分とか、資金面のことばかりを気に掛けていました。でも、もっと原点のシンプルな、スポーツを通して感じる誇りもあるんだと改めて気づかされたのです。
 その時感じたのですが、64年の東京五輪の開会式も同じような風景だったのではないか、と。「あの日」にタイムスリップしたような感覚でした。また、スポーツにはこれだけ人をひきつける魅力がある。純粋にそれが今の日本に戻ってきてほしいとも思いました。

池上 21年夏の東京五輪では悪いニュースが度々報じられましたが、カンボジアでの開幕式を観覧したことで、五輪の誇りや原点を見たということですね。

有森 まさにそうなんです。競技場が観客で埋め尽くされ一体になって盛り上がるシーンは最近の日本では見ていません。スポーツの本来の魅力を、これからの活動で忘れてはいけないと胸に刻みました。

 有森さんは、ハートオブゴールドというNGOの代表として、これまでカンボジアのスポーツ振興に多くの貢献をされてきています。その縁で、SEA GAME 2023の開会式にも招待されたのでしょう。池上さんとの対談では、この後、東京オリンピック2021のことなどに触れられています。興味のある方は、記事に飛んでみてください。

カンボジア国の誇り

 有森さんの言葉にある「スポーツを通して感じる誇り」とはなんでしょうか? SEA GAMEで感じる誇りとは、カンボジア王国の誇り、カンボジア人としての誇り、でした。競技が終われば、選手たちは必ずと言っていいほど国旗を身体に身にまとい、観衆やテレビや写真やにその国旗をかざすのでした。

 有森さんの言う通り、1964(昭和39)年の東京オリンピックでもそうだったのでしょう。日本選手は日の丸を身にまとい、メダルでもとれば日本社会はその日の丸に狂喜したのだろうと想像します。ちなみに1964年生まれの私には、そのときの記憶はないのですけれど。

 カンボジアがホスト国となった今回のSEA GAME2023には、いろいろと面白い事象もありました。ひとつはキックボクシングの名称についてです。

 これまでのSEA GAMEでは、キックボクシングは「ムエタイ」と呼ばれていました。ムエタイとは、日本でも知られるタイ式キックボクシングです。ところが、カンボジアの大会組織員会はムエタイではなく「クンクメール」という名称を使うとしたのです。(詳細はこちらを「ムエタイ」ではなく「クンクメール」 タイとカンボジアが対立 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News)クメール式キックボクシング?はカンボジアでも人気のスポーツですけれど、それがクンクメールという名で国技でもあるということは、私は今回初めて知りました。

 歴史をたどると、このインドシナ半島南部の歴史では9世紀にはじまり、15世紀までつづいたとされるクメール王朝(アンコール王朝)は大きな存在です。アンコールワットやアンコールトムの遺跡で知られるアンコール王朝は12世紀ごろにその最盛期を迎え、そして1431年にアユタヤ王朝によって滅ぼされました。現在のシュムリアップ北方に広がる地を放棄したアンコール王朝は、その後プノンペン周辺に王都を遷し、その後もなんとか継続し、現在の王族に繋がっているとするのが、カンボジアの正史です。

 そして、そのアンコール王朝の影響は現在のタイやミャンマーの地域に及んでいて、例えばアンコール王朝を倒したアユタヤ王朝も、文化的にはアンコール王朝時代から続くあれこれがあるわけです。例えば、現在のタイ語やラオス語のアルファベットは、もともとは古いクメール語アルファベットから派生しています。日本語アルファベットが中国漢字から派生しているということに似ています。
 アルファベット以外にも、たとえばタイ王朝ダンスもクメール王朝ダンスから派生したと言われています。歴史的にしっかり調べると、現在のクメールダンスは、実はタイから再輸入されたものが基になっているらしい。15世紀以降、カンボジアは、東からはベトナムの、西からはタイの、二つの強国の拡張に押しつぶされそうな状況でした。クメール王朝内での勢力争いで、片方がベトナムの支援を頼めば、もう片方はタイの支援を頼み、結局現在のカンボジア領土内でベトナムとタイが戦争するということが繰り返されたのです。
 現在の王家の数代前のアンドゥオン王は、小さい時からクメール王となる40歳超えるまでタイ王朝下の保護の元、バンコクで成長し暮らしたのです。タイ王朝に擁立されて王についた彼が、タイから多くの影響を受け、その際に現在に続くクメールダンスを再興したようなところもあるわけです。

 でも、後段の部分は、現在のカンボジア社会ではかなりむにゃむにゃ、です。そして、「クメール文化に影響を受けたタイ文化」という前段の部分だけが強調されているわけです。

 今回のキックボクシングをめぐる。ムエタイかクンクメールかという論争も、もとはここにあります。アンコールトムの遺跡に残る石の浮彫にキックボクシングで戦っているようなシーンが残っていたはずです。それが、クンクメールのプライドに繋がる。

 結局、この紛争がどう着地したのかはよく知りません。記事にあるように、タイのムエタイ選手たちは、SEA GAME 2023をボイコットしたのかどうかも、未確認です。けれども、この紛争の影響もあってだろうと想像しますけれど、とにかくSEA GAME2023では、カンボジア選手(あるいはチーム)がタイ選手(あるいはチーム)に勝利した際には、かなり熱狂的な書き込みが多くみられました。なんともなぁ、と思いながら、私は眺めていたわけです。

輸入?されたカンボジア選手たち

 もうひとつ面白かったのは、どうやらSEA GAME2023のために多くの選手が輸入されたということです。典型的だったのがカンボジア・バスケットチームでした。そこには何人ものアフリカ系の人たちが米国から参戦し、メダル獲得に貢献していました。中には、米国系のコーチのつてで参戦したような選手もいたようで、つまり、無理やりカンボジア選手に認定したいうようなことでした。もし国籍うんぬんだとしても、米国では複数の国籍を持つことは特に問題にはならないはずです。

 そして、あまり多くの報道はありませんでしたけれど、今回のSEA GAME2023では、カンボジア柔道チームの中に日本から輸入された選手が複数名おられました。カンボジア国籍を取ってカンボジア代表としてスポーツ大会に出場した例としては、2016年のリオオリンピックのマラソンでの猫ひろしさんのケースが日本ではわりと広く知られています。
 成人が複数の国籍を持つことを禁じている日本国ですので、猫ひろしさんは確か日本国籍を放棄していたはずです。今回のSEA GAME2023では、その出場規定が国籍の変更うんぬんよりは緩い可能性はあります。ですから、カンボジア代表として出場した日本からの選手たちの国籍問題がどうなっているのかは、私は未確認のままです。単に、カンボジア側の認定があれば他国籍のままSEA GAMEに参加できるような状況があったのかもしれません。

 ちなみに猫ひろしさんのオリンピック参加については、実はカンボジア国内ではそれほど大きな関心はありませんでした。彼がメダル獲得でもすれば、かなり大きな反響があったのでしょうけれど、そんな可能性はまったくありませんでしたから。
 その猫ひろしさんの事例とは違って、アフリカ系選手が多く参入した今回のカンボジアのバスケットボールチームは、男子では3人制では金メダル、6人制でも銅メダルを獲得しています。女子でも、色は忘れましたけれど、メダルを獲得しました。そういうわけで、メダル獲得競争に一喜一憂していたカンボジアの人たちにも、かなり大きな印象を残したのです。

 そして、「何をもってカンボジア選手とするのか?」というある種の疑問も多少は湧きあがりました。米国からのアフリカ系選手が参戦する前には、ナショナルチームのメンバーとして活動していた米国育ちのでも“生粋”?“純粋”なカンボジア“人”選手の「SEA GAME2023にカンボジアチームの一員として参加できなかったのは、正直残念だった」というような記事が新聞に載ったのも私は見ました。
 あるいは、SEA GAME2023開催前に日本からカンボジア選手として参加予定の人が、「カンボジア選手として参加するけれど、心は日本人です。大和魂でガンバル」と語ったというようなことも読みました。それに対して、カンボジアに長くかかわる日本の人たちからは「カンボジア選手出場の機会を阻んで出場する」ことへの批判、あるいは「カンボジア選手として参加するのに心は日本人なんて、ダメだよ」なんて声も上がったりしたのです。

 なんというか、やれやれ(ゆっくりと脱力感を出して読んでください)、なんです。

スポーツを通して感じる誇りから先へ

 改めて、「スポーツを通して感じる誇り」とはなんだろうと考えます。

 SEA GAME2023で、これでもかと繰り返され強調されたのは、「国家の誇り」でした。「カンボジア人であることの誇り」に、カンボジア社会の多くの人たちは刺激されたように私は感じています。

 私の敬愛するギャンブラー森巣博さんは、その著作の中(すぐに出典がわかりません、ゴメン)で、「オリンピックなどで見受けられる先進国の愛国心には辟易するけれど、途上国の愛国心はまぁ許せるかな」という主旨のことを書いていました。その気持ちは、わかる。私も、ほぼ同様のことを思ったりもする。

 もし今後、国際オリンピックでカンボジア選手がメダルを獲得すれば、おそらくカンボジアは国をあげて大騒ぎとなるでしょう(カンボジア選手がオリンピックでメダルを獲得したことはまだありません)。おとなりのタイでは、何大会か前に女子のウエイトリフティング(重量挙げ)で金メダルを取った際、バンコクなどではやっぱり道に大勢が繰り出して国旗を振って大喜びしたそうです。
 そういえば、もはや先進国のシンガポールでも、男子水泳選手が最近オリンピックで金メダルを獲得したときにやっぱり熱狂したような記事も読みました。

 そんな喜びに、冷水をかけるつもりはない。「よかったね」と思う。

 でも、一方で、やっぱり愛国主義は好きじゃない。愛国はどうしたって偏狭になる。愛国と愛国が出会えば、そこはなかなか融和ってことにはならない。その証拠に、どこだって近隣諸国はそれほど仲良くない。日本だって、カンボジアだって、近隣諸国に対するいろいろと嫌な言説は少なくない。そんなエピソードは、世界中あちこちにある。

 たとえば1990年代中ごろに流行った民族独立のストーリー。流行(はやり)という言葉を使うのは、植民地主義・帝国主義で虐げられた地域の人たちには失礼ではある。けれども、民族独立の熱狂が始まってからもうする1世紀経つ現在、やっぱり民族独立は反面教師でもある。だって、民族独立の「民族」とはけして自然発生したものではなく、あくまで作られた幻想であることは確かだから。言語に象徴される文化はきっとある。でも、それは実はかなり柔軟に伸び縮みするものであって、民族とか国境とかで簡単にくくれる話でもない。

 つまり、日本人とかカンボジア人とか、もはやそれはパスポート・国籍で簡単にくくれてしまいがちだけれど、実は○○人というのもなかなか簡単には語れない、めんどくさい存在でもある。そんなわけで、民族独立、もかなり強引でどこか権力の押し付けという面はある。

 もちろん、それも、やっぱり誰もが?どこでもが?通ってきた道であって、東京オリンピック1964で日の丸に熱狂した日本社会の視点から、SEA GAME2023でアンコールワットを描いた国旗に熱狂するカンボジア社会をあれこれ言うのはフェアじゃない、のかもしれない。
 それは、さんざんエネルギー資源を貪っておいて、今になって持続的開発SDGsを語る先進国側の欺瞞・傲慢さにもつながっているようにも思えるわけで。

 でも、有森裕子さんがSEA GAME2023開会式を見て、「スポーツを通して感じる誇り」を語るとすれば、私はやっぱり警戒心を感じてしまう。
 東京オリンピック1964年当時の日本国家よりも、より一層開発独裁が強まっているカンボジアという国で開かれたSEA GAME 2023 で、社会がカンボジア国旗に熱狂するということと、「スポーツを通して感じる誇り」とのシンクロの意味を考えると、おいおい大丈夫か?と思うのです。

 開発独裁は、上から強制されるだけのものではない。たとえば、今回のSEA GAME 2023 の観戦は、けして強制動員されたものではありません。人々は主体的に競技場に足を運んだのです。そして、競技場が満員になったのは開会式・閉会式とサッカーやバレーボールなど人気競技に限られていました。例えば障害者陸上の競技場にはそれほど多くの観衆は見られなかった。
 あくまで酔える場に、人々は集ったのです。もちろん、そっちが楽しいもんね。だからいいよ。でも、その酔っている自分たちを、鳥瞰俯瞰する目は持ちたいよねと思う。

 とここで日本語で書くのであれば、やっぱりこれはクメール語でも書かなくちゃいけない(そうじゃないと自分の気持ちがフェアに落ち着けない)みたいです。

 ということで、次はクメール語でここで書いたことを再度あげることになるのかな。ま、やってみる。

 スポーツが広がって、人々がそれに親しむのは楽しいですよ。たとえば、有森さんらが支援して始まったアンコールマラソンで、当初はカンボジアからの参加者が少なかったのが、今では多くの人が参加しているって話は、心底から良かったよねぇと思えるわけで。

 たまたまですけれど、昨日開催されたプノンペン国際ハーフマラソン大会、それには私のパートナーのサンワーが10キロの部に参加したのです。スタートは朝5時45分だから、4時起きよ。私も応援に行きました。 (熱帯地域のマラソン大会は、だいたい早朝ですね。日中は暑すぎて。フィリピンでもマラソン大会は暗いうちにスタートだったことを思い出します)
 ゴール近くの沿道で待っていると、おぉ、朝5時にスタートしたハーフマラソンの先頭がサイレンを鳴らしながら走る白バイに先導されて近づいてきて、やややっ、猫ひろしさんとPheara選手がふたりで競ってる!どっちもガンバレー!!!
 やがて、サンワーも無事完走でした。

 ゴール後、どういう成り行きなのか、猫ひろしさんとサンワーは親交を深めたようです(って写真を一緒に撮ったということだけですけれど)。スポーツってこういうのでいいじゃん、ってホント思うわけです。よねっ! 自分が10キロ走り切った誇り、でいいじゃんよね!? そういうのこそ、フレーフレー、なんだよなぁ。

 上の写真は、昨日(2023年6月11日)早朝に開かれたプノンペン国際ハーフマラソン大会終了後の一コマ。ハーフマラソンで1時間13分39秒で2着と活躍した猫ひろし選手(優勝はVann Pheara選手、1時間13分07秒)と、10キロの部を1時間34分で完走したサンワー選手の貴重な2ショット!!

 

 

 

4件のコメント

拝読して感じることあります! が短い文章にまとめられません

匿名さま、感じることがあったと書いて下さり、ありがとうございます。

嬉しいです!

スポーツを政治に利用したり、国威発揚に利用したり、またその組織者が商業主義に走ったりということは厳に慎むべきです。スポーツすることが目的であってほしい。
スポーツをして楽しむ、スポートをして喜ぶ 、その喜ぶ姿を見てまた喜ぶ。これでよい!!
スポーツをいかがわしい目的のための隠れた手段にしてはならない。
最近は組織の責任ある立場の人間の不健全なところが目立つ。

小野久先生 いつも読んでくださりありがとうございます。

先生は1964年東京オリンピックのときは、どんな感じで観戦されていましたか?
今でも、オリンピックなり、サッカーのワールドカップなり、先日の野球のあれはなんと呼ぶのだったか、あぁベースボールクラシックだっけ、とか、ああいうのになるとどうしても「スポーツを政治に利用したり、国威発揚に利用したり」という面が見え隠れする。ましてや商業主義なんて、無関係のはずもないわけで。

でも、選手として出場したり、彼らの活躍を応援したりという立場では、本当はそういうものにあんまり巻き込まれないでいければいいなぁ、と思ったりもするわけで。

一方で、「無関係に参加します、応援します」ってのも、やっぱりだんだん“大人”になれば、それはカマトトでしょう???ってこともある。

たとえば、先のTokyo2021にしても、組織委員会の不正に対して、選手の人たちはもっと語っていいはずなのに(彼らこそ語るべき人たちなのに)、ほとんど声は聞こえてこない。残念です。

あと、離脱の自由なんてことを思います。国籍ってのは、なかなか離脱ができるもんじゃない。当然です。だから、日本国籍を持っている以上、もし国際ゲームに参加するならば日本チームに入るしかない。そこに離脱の自由がない。そこが少々きな臭い。

それは応援する側にも言える。カープファンが赤い旗を振るのと、日本人が日の丸を振るのとではそこに少々違いがあるように感じます。今年はカープファンだけど、来年はタイガースファンになって黄色の旗を振っても、別に問題じゃないわけで。そういう離脱の自由がある。スポーツの応援なんか、その程度でいいじゃん、って思うのです。

学校というあたりになると、その辺は少々微妙。同窓会とかも、やっぱり微妙。離脱の自由はあるような、でも、ないような。そのあたり、熱くなりすぎるのはなぁ、と思いつつ、自分の世話になったクラブなんてのは、やっぱり応援したくなるわけで。それは個人個人の思いで許してねって感じですませたい、ぐらいの感じで。

ま、臨機応変、なのかなぁ???それを笑ってすませたいですわね。

コメント、いただけたらとても嬉しいです