当事者……ってのも、実はけっこう怪しかったりすると私は思っている節がある。それに当事者という言葉は、そこに境界を作り出してしまう作用もある。そんなとき……「背後に立つ」という越境の方法もあるって最近また確認したのです。

2025夏 ヤマユリの花 匂ってくるようでしょう? 私としてはヤマユリをよじ登っているヤマイモの葉もいじらしいのです。小野久先生の撮影です。

4件のコメント

『当事者の背後となることで、自らも当事者になることが可能なのだ。』という意識を持って生きることの重さを想うとなかなか難しいことであるが被害者と支援者、証言者と聴取者といった相互関係を1対1の平面的なものでなく相互の支え合う立体的な経験として捉えれば、生きて来た時間や空間の中でその戦略は見出せるということだろうか。いずれにしても、その人の日頃の問題意識、自らをその問題の空間に投げ入れて人間としてのプライドに相応しい視座、立ち位置、座標軸をどう取るかにかかっているように思います。

匿名様、読んでいただき、コメントもしていただき、ありがとうございます。うれしいです。

はい、誰の背後となるか、それは自分自身の生きざまともかかわってきますよね、どうしたって。自分自身の座標、原点、それはきっちりと固定されていなくてもよいのだ、とも思います。揺れてしまう、あるいは相反する意見を自分の中で抱えてしまう、ということもあって当然。最終的には、縁(えん)、なのかなぁ。

社会問題における社会人としての立場を考える時、「当事者」という言葉をこのように深く掘り下げてみる試みは、かなり斬新で文章から気づかされる事がたくさんありました。このように丁寧に考えて行く事は価値のある事だと思います。

たか様。読んでいただき、コメントまで書いていただき、ありがとうございます。コメント嬉しく読みました。
斬新だったとしたら、書いて良かったなぁと感じます。ていねいに考えたい、でもどうしたって日々の雑事に追われてしまう、そういうこともあります。
それでも考え続けられたら、素敵ですよね。

コメント、いただけたらとても嬉しいです