私は、日本では天皇制と呼ばれる王制を前提とした社会よりも、それを前提としない社会のほうが気持ちがいいと思っています。王制って、もはや人身御供、だって彼らは私がもっている「自由」を持ちえないのでしょう? もちろん、いろいろと意見、議論はあるでしょう。とにかく、私は王制は必要ない社会の方がよいなぁ、と思っています。
そんなことを考え始めたのは高校生後半のころだったように思い出します。そしてその数年後に昭和が終わり、やっぱりそのころ王制(天皇制)を巡る議論が多くされていましたね。
天皇制とこれまでもっとも際どくすれ違ったとき (1990年秋 青年海外協力隊派遣前訓練所でのこと)
「天皇拝謁を欠席したいという君の意向を上に伝えたら、もしかしたら君のことを守れないかもしれない」
1990年9月3日から3か月弱のスケジュールで始まった青年海外協力隊(現在名はJICA海外協力隊、以下、協力隊)の派遣前訓練のために私が入所した広尾訓練所の所長室で、私は所長から上記を言われたのでした。この派遣前訓練は合宿制で実施され、語学訓練を主に、さらに派遣国のことを学んだり、いわゆるサバイバル技術の初歩の初歩を学んだり(そういう時代だったのですよ)、というプログラムがぎっちり詰め込まれていました。
私はその年末に、東アフリカのケニアに2年間派遣予定でした。職種は理数科教師(合格倍率けっこう高かった覚えがあります、4倍ぐらい?)で、ケニアの田舎の中等学校で理数科科目の教師になる、という“業務”でした。業務を括弧付けしたのは、協力隊はボランティアという位置づけだったからです。そして当時の私は、協力隊をやっぱりボランティアと理解していました。
私は1988年春に大学を卒業後、1990年夏までの2年数か月、都内の高校(母校)の野球部のコーチ(いわゆる監督)を主たる活動としていました。大学卒業と同時に、高校3年生秋からおつきあいしていたガールフレンドと結婚していて、監督業ではさすがに喰えないので、小さな私塾で講師もやっていましたけれど。
で、26歳で、いよいよ長いこと温めていた協力隊参加を実現したところだったのです。
その派遣前訓練の中には、訓練生(そう呼ばれていました)が皇居に出かけて行って天皇に閲覧する、という行事が組み込まれていました。天皇一家の皆さんから、「健闘を祈る」の激励を受けるというようなイメージです。そして、日ごろから「天皇制は良くないと思うなぁ」と発言していた私は、彼ら(天皇家の方々)から激励をもらうのは、ちょっと違うなぁと思っていた。そして、入所早々に「私は天皇閲覧は辞退します」と訓練所側に伝えたのです。そうして、一番最初にあげた「上に伝えたら、君を守れない(かもしれない)」という言葉をそれなりに年齢を重ねている所長からもらったわけでした。
君を守れない、というのは、私のケニア派遣が中止になる可能性がある、と私は理解しました。そうかぁ、それは困ったなぁ。
で、結果として、私は正式に「辞退」ということではなく、拝謁当日に朝お腹が痛くなりました。それで、皇居にはやっぱり行かなかったのです。
当時、広尾訓練所は大部屋形式で、2段ベッドの並んだ大部屋に13人で過ごしていたような記憶があります。そんな大部屋が男女あわせて6部屋ぐらいあったのではないかしら。現在の訓練所(長野・駒ヶ根訓練所と、福島・二本松訓練所)では、今や個室の時代になっていると聞いています。
でも13人部屋も面白かったなぁ。私は拝謁を辞退することを、最初からその部屋の仲間に伝えていて、その後の経緯も報告していました。私の思いに強い理解を示してくれる人もいれば、「それって非国民なんじゃないですか」と言ってくれた私よりも若い方もいた。そういうことをそれまで知り合うことのなかったさまざまな職種/年齢(20歳から40歳まで)と毎晩のように広く語り合えたのは、とっても刺激的だったなぁ。
ちょっと話が前後します。「天皇拝謁に行きません」と訓練所に伝える、その前の入所式での話。
この入所式のそれほど広くもない会場で君が代が流れたときに、まわりの人たちが起立する中で、私は人生初めて君が代斉唱の際にひとりで着席しました。
式典で君が代が流れるという場に、私は長らく縁がなかった。中学の卒業式、あるいは高校の入学式以来でした(高校の卒業式、大学の入学式卒業式に私は出席していません。理由は、省略しますね、でも君が代・日の丸拒否で欠席したわけではありません)
そして、君が代と直面する必要のなかった10代半ばから20代半ば過ぎの10年間で、「日の丸・君が代」、さらには「天皇制」に対して様々な理由や立場で疑問を呈し、異議を唱え、反対し、その過程でずいぶんと嫌な思いをしてきた人たちへの共感度をかなり高めていたのです。
だから、着席した。
それは、やっぱりなかなかに勇気がいることでした。君が代が流れるあいだ、私の目には周りの人の腰のあたりがたくさん並んでいて、それ以外は何も視界に入らない。短い時間ですけれど、なかなかタフな時間でありました。おそらく、手のひらに汗がにじんだような気がします。
そして、次なる態度表明が「拝謁を欠席します」だったのです。
でも、結局私の「拝謁拒否」は宙に浮いたまま、お腹が痛くなるというあからさまな仮病でそのまま透明化してしまいました。
拝謁を病欠したことによるペナルティーは当然ありませんでした。
そういえば、「拝謁拒否を正式に認めることはできない」という所長に、私は以下のような理屈をコネました。
「こういうこと(私のような天皇拝謁拒否者が協力隊に紛れこむこと)が起こらないように、募集段階で天皇拝謁必須と記載するようにして欲しい」
もちろんそんなことできないだろう、とわかっていての悔しさのあまりの捨て台詞、でしたけれど。ふふふ、今思えば若者らしい、でもけっこう筋の通った理屈であります。
拝謁から帰った同室の人たちの中には「天皇は、とってもいい人でしたよ、村山さんも会ってみたらよかったのに」という主旨のことを言う人もいました。「いや、個人として天皇が良い人かどうかはどうでもよくて、俺が嫌なのは制度なんだよね」、という主旨のことを私は返したはずです。
あれが私にとっては天皇制ともっともシンクロした体験でした。もう30年以上前のことですけれど、でも忘れ難い体験です。その後、私は予定通り訓練を終え、1990年12月から2年間ケニアで活動したのでした。私が入所式の君が代で着席したとか、天皇拝謁を拒否したという情報はしっかりケニアJICA事務所に伝達されていました。「村山さんは、訓練所時代、ずいぶんアレだったみたいですね」と派遣1年ほど経ったころ、すでに信頼関係が出来ていた(と私は思っていた)職員の方から告げられたことがあります。
今思えば、「アレ」、そういうものが日本社会の中の鵺のような天皇制の在り様だよなぁ。私はそれを気持ち悪いと思う性質です。
社会的多数者/強者と、少数者/弱者と
なぜ、30年前のことをここで改めて書いたかというと。以下の本を最近読んだからなのです。
川上多実著『〈寝た子〉なんているの? みえづらい部落差別と私の日常』里山社2024。

著者の川上多実さん、この本の末尾で紹介されているプロフィールをそのまま書くと。
1980年東京都生まれ。関西の被差別部落出身の両親のもと、東京の部落ではない地域で育ち、同和教育を受けることもなく、周囲に「部落」という言葉も通じない環境のなか、自分なりの方法で部落問題について向き合うようになる。(以下略)
1964年東京都生まれの私と川上多実さんとは16歳差です。そして、あたしも川上さんと同様、東京都内の区立小学校で同和教育を受けた覚えはありません。
私の両親、父は新潟県出身で母は東京都出身で、ふたりとも被差別部落出身ではなく(おそらくそう、つまりそう親から告げられたことがない)、私も東京の部落ではない地域で育ち、同和教育を受けることもありませんでした。
「部落」のことでひとつ忘れられない小さな思い出が、私にはあります。小学校の中学年ぐらいではないかと思うころ、つまり多分1974年ごろ、NHKの夜7時のニュース番組で(夜7時からは必ずNHKのニュースを見るのが決まりでした)「同和」か「部落」か、それに関する報道があったのです。その内容がよくわからなかった私は、「部落ってなに?」という主旨の質問を一緒に見ていた父にしたのです。父は何か説明しようとしてくれました。けれども、ちょうどテレビ前の卓に夕食の皿を運んできた母が「そういうことをあんまり教えないほうがいい」ということを言って、私の質問は宙に浮いてしまったのでした。その際の母の言い様は、今から思えば当時けして珍しくなかった「部落は怖い」という感情を背景にしていたのです。その手のニュースを簡単に口にすることは、よくないことだ。下手をすればそのことで「怖い」思いをする。そういう感情が母にはあったことは子ども心に理解してしまった。
なぜか、その思い出はとても鮮明で、ずーっと私の心の奥底に残りました。そのときの「なんか変だぞ?」という感じは、その後の私の差別や偏見に対するこだわりのようなものの種になったのかもしれません。
ちょっと話はずれますけれど、同じような体験。母方の祖母の家(都内)に遊びに行った際、祖母の家の前にある公園で遊んでいて知らない子に出会ったのです。彼は「韓国の人」でした。どう彼がそれを表現したかは忘れましたけれど、おそらく在留韓国の人たちのお子さんだったのだと今は想像します。別になんもなく、彼と遊んでいると、叔父(母の弟)が「ご飯ができたから帰ってこい」と迎えに来たのです。
その叔父に、「この子、韓国の子なんだって」と私は紹介した。そして、バイバーイと別れたその直後に、叔父から「ああいう子とあんまり遊ぶのは良くない」という主旨のことを言われた覚えがあるのです。「どうして?」という私の問いに、叔父はそれ以上まっすぐには答えてくれなかった。そのときも、なんか「妙だ!」という思いが私の心に沈殿して残りました。
今から思えば、叔父がなぜそんなことを言ったのか、想像はつきます。そして叔父が持っていたその価値観をとても残念で恥ずかしいと今の私は思う。もうずいぶんと高齢になった叔父は…たまに会って話す際にときどきちらりと出てくる表現から察すると、彼は今でもそういう種類の偏見に捕らわれた人のようにも思われます。
部落を怖いと思っていた母は? おそらくこの件に関しては多少は私を含む子どもたちが父や母の洗脳にチャレンジしたのだと思います。その後、彼らの子どもたちは大人になるにしたがって「父さん、母さん、それはおかしいよ」という軽蔑の目を彼らに向けた日があった。子どもに軽蔑されるというのは、親には強烈な経験だったはずです。そのこともおそらく影響を与えたのでしょう、今の母がそういう偏見を自らの外側に発信することはない、少なくとも私の前ではない。彼女の当時の偏見は、かなり払拭されたと私は感じます。よかったよかった。
とにかく小学校でちらっと触れた被部落差別のことを。その後私が知るのはいつごろだろう?高校のころだろうか。
上記の本の中で、私が読んでいて苦しく思ったのは、学校での君が代のことです。彼女は、自分の両親が被差別部落の解放運動に取り組んでいて、君が代は歌わないことを幼いころから知っています。その彼女が、小学校や中学校での卒業式で歌われる君が代にどう向き合えばいいのか、悩み、実際に君が代に直面して取る行動、思い……。彼女は、中学校の卒業式では式次第で君が代を歌う際に、ひとり黙って着席します。泣きながら。それを叱責する来賓者がいて、それでも彼女は起立することなく座っていた。
うん、やっぱり私は高校のときに被部落差別のことを知ったし、あるいは沖縄では君が代を恐れる人たちがいることを知ったし、式典などで様々な理由で「日の丸」や「君が代」を拒否し、起立せず着席するままでいる人たちがいることを知ったのでした。おそらく、本多勝一の著作を読み漁り始めたころだろうと思い出します。
そして、君が代日の丸のマイナス面を知れば、そのベクトルは当然天皇制の問題点に向かいます。
天皇制を賛美する人たちの背景には、《日本》あるいは《日本国》に対する、私には理解しえないポジティブな思いがある、……らしい。
私の高校の同級の中には天皇制大好きって人もいる。でもね、そのポジティブ感がが、私にはよくワカナインダモン、「らしい」とつけたくなるのです。
そして、天皇制のネガティブな点に目を向ける人たちの思いのほうが、私にはわかる、理解できる、共感できる。だから仕方ないやね、どっちを応援するかと問われれば、当然ネガティブ側になる。
そして、生まれたときから徹底的に多数派であった、つまり男性で、性的志向が女性に向いて、少数民族とか被差別部落の出身ではなく、日本国籍を持ち、高学歴で(ここは多数派というより強者としてのカテゴリーですね)、日本語社会の中での日本語を母語とする者で、そふいう私が、50歳でようやく手に入れたこれまでと少々性質の違う少数派としての《レッテル》が障害者だったのです。車イス者は、世界中、どこでも少数者。ふふふ、ちょっと安心するなぁ。
そう、ようやく10年前にそういうとき(少数者として社会にむきあえるとき)がやってきたわけですね。今回のブログで言えば、川上多実さんに少し近づいてモノを見て考える“資格”を獲得したような感じ。
ここで私はあえて“資格”と書いてみた。そして、この“資格”の意味することはとっても変だ、オカシイと思う。そのことはこれから残り時間、、また考えます。ぜひご一緒にどうでしょう???
とにかく、紹介した川上さんの本、良い読書になりました。もしご縁があれば、ぜひおすすめします。こういうヒト、若い方々、が輩出する日本の社会って悪くない面あると思うなぁ、こういうヒトの声が世間に出る、いいじゃん!と思うなぁ。
学部時代に海外青年協力隊の説明会行って「卒業してからおいで」と言われました。
多分、その時駒ヶ根の訓練場のビデオも見て、「国旗掲揚するのかー」と思った記憶があります。
29の時に年齢でこれが最後だよね、と受験して、なぜか制服計測までするのに、不合格、って連絡来て(日本語教師だったかな)あらあら残念、と思っておりました。
その後、添乗員の仕事中や、山に登っているときや、その他その他多くの場面でJICAの方々に遭遇し、楽しく過ごしております。
国旗についてもうひとつ。
50になって介護の仕事に飛び込んで全くわからずとりあえず近くの施設に無資格で入ってみたら、夜勤の仕事として毎朝国旗掲揚して、神棚のお水とお米と榊を整える、という作業がありました。
ある時、国旗のあげかたが中途半端で「半旗になってる!」と怒られました。
夜勤明けだったので生返事で帰ってきた覚えがあります。
この怒ってきたマネージャーは、いろいろ怒るひとで、膀胱留置カテーテルの廃棄の仕方が「わからないです、教えてください」と言ったら(まだやったことがなかった)「じゃ、いいです!」と怒ってました。(怒ってても、仕事できないじゃん、とふてぶてしく思ってしまってました)
まあ、なんも知らないから3年もいられたんだな、といまになって思います。
そんなひとの記憶があるので、「看護師怖い!」とか「理不尽」とか巷で噂ですが、「いやあ、あのマネージャーに比べれば…」と思ってしまいます。比べるもんでもないけど。