事故のことなどつらつら思い出すと…
はい、本ブログのタイトル通りでございます。障害を得て先日で無事10周年を迎えました(ことさら10進法でものごとを考える必要はないと思いつつも、やっぱり慣れ親しんだ10進法でもございます)。
あれは2014年8月も終わりのことでした。ルワンダでの教員研修促進プロジェクトで仕事をしていた私は、校長先生対象の数日の研修プログラムをルワンダ南西部の町で終えて、プロジェクトカーの助手席に乗って首都キガリに向かっていました。そして、その車が、スリップして谷に落ちてしまったのでした。
やっぱりスピードの出し過ぎだったのかもしれません、助手席に座っていて、特にそう感じていたわけではなかったのですけれど。突然に制御を失った車が、反時計回りに180度回転し、そして道から外れて転落するとき、つまり後ろ向きに落ちる際、助手席から空が見えた記憶があるのです。ドライバーが横で高い悲鳴をあげてたなぁ。
「あぁ、これはかなり大変な事故になるなぁ」と、その空を見ながら思ったように思い出すのです。
そして次の記憶は、なんか車の後部席のどこかに変な格好をして挟まっている。目の前にあった布地を引っ張ってみたら、自分の腿辺りのようでした(腰で上半身と下半身を折り曲げれば、目の位置には脛がくるのが普通です)。後から振り返れば、あぁ折れた背骨を支点にして身体が不自然に折れ曲がっていたからだなぁと解りますけれど、そのときにはあんまり何が起こったのが良くわかっていなかったのだろうなぁ。
車の外からガンガンとドアを叩く音が聞こえてきて。あぁ、誰かが助け出そうとしてくれているのだなぁと思った記憶もあります。天井のほうに、やはり不自然に張り付いているように見えた同僚と二言三言「もうすぐ助け出されるから、もうちょいガンバレや」みたいなことを伝えた記憶もある。
そして、おそらく叩き割った窓枠から私の身体は車外に引っ張り出されたのではないかなぁ。
事故が起こったのは夕方の午後4時か、午後5時か。車には私と運転手、後部座席にはプロジェクトスタッフがひとり、研修に参加していた校長先生がふたり、そのひとりの娘さんがふたり(小学校低学年と幼稚部、という年齢の娘さん)。指折り数えて7人が乗っていました。私以外は、みんなルワンダの人たち。
その後、報告書を書くためにプロジェクトの同僚スタッフ(日本の人たち)が事故現場を確認しています。その報告書によれば、車は道路を外れて最大径射角45度の斜面を7階建ての建物ぐらい、つまり垂直距離では20メートル強落下したようなことが書いてあったような気がします。
同乗者のひとり、後部座席の真ん中に座っていた校長、彼女はふたりの娘さんたちのお母さん、が車内で亡くなりました。おそらく頚椎損傷による呼吸中枢不全による急死だったのではないかなぁ。そして、幸いなことに!(と心の底から思っています)、助かった6名中では私が一番の重症でした。
私の背骨は胸椎六番のあたりで脱臼骨折、そこで脊髄内の神経が損傷して私は下半身完全麻痺の車イス者となったのです。それが今からちょうど10年前のことだったのです。
事故直後から、ホントにたくさーんの幸運が渦を巻くように次々のあったのです。事故現場近くに人がいたこと(本来ならいない場所でした)。暗くなる前、つまり夜になる前に助け出されたこと(真っ暗になれば、転落した車を見つけるのは無理だったはずです)。などなど、などなど。
そして、そのひとつひとつの場面に、誰かがかかわってくれています。彼らの誰か一人でも欠いていたら、状況はもっとひどいことになっていたはずです。
そういうことを、今年の“誕生日”の前後の夜、しんみりと思い出しました。おひとりおひとりにお礼を伝えようにも、伝えきれない。そんな10歳の“誕生日”でした。
海外開発支援ってやっぱりリスクは少々高い仕事なのです(ま、ケースバイケースではありますけど)
事故後、ある人から「村山さんは、まだやることが残っているから助かったのだ」という主旨のことを言ってもらったことがあります。助かったというよりも「助けられた」、ある人為を超えた力、それを人は神や運命と呼んだりする、によって救われたというような主旨だったと感じました。とてもありがたい言葉です。
でも、私自身はそんなことまったく思っていない、天命なんてこれっぽっちも信じていません。
偶然。
それだけです。プロジェクトの車、私はけっこうタイヤには神経質で、その車も数か月前にタイヤを新しくしたばかりでした。それでもスリップは起こった。でも、20メートルを転がり落ちても、事故報告書の写真を見ると車はかなり原型をとどめていました。かなり頑丈な、それなりに高価な四輪駆動の車種だったのです。剛性の高い車種だったからこそ、この程度の怪我ですんだ。ラッキーラッキー。
亡くなった校長先生は、後部座席中央に座っていて、シートベルトもしていなかった。きちんと締めていた私のシートベルトもぶっ飛んで外れてしまっていましたけど。ま、とにかく、偶然がたくさん重なって、たまたま、私は死ななかった、彼女(校長)は亡くなった。それだけ。
で、ふとガザでの爆撃や銃撃で死んでいく人たち、すでに今回の紛争では4万人超えの人たちのことを思います。彼らの死を、偶然、たまたまとは呼べやしない。彼らの悲劇・人災と比較すれば、私の遭った事故は、やっぱりその在り様が軽いのです。
けれど、そういえばですけれど、海外開発支援では、途上国での交通事故ってのはそれなりに多いのです。おそらく、日本で車に乗っているよりも(あるいは歩いたり走ったりしているよりも)、事故に遭う危険性はかなり高い。さらに車で事故に遭う危険性よりはずっと低いけれど、飛行機にもたくさん乗るから、それだけ大きな飛行機事故に遭う確率も増える。さらに理不尽なテロに巻き込まれるようなことも、この業界ではたまーに起こっている……。
つまり、この仕事(途上国での教育支援、教育支援に限らず途上国の“現場”で格闘されているお仕事ならみんな)をやっていれば、なんらかの事故、病気で、最悪死んでしまうことは、やっぱりあると私は思ってもいました。脳溢血などの急病だって、日本にいれば助かったけれど、医療環境の整っていない途上国では助からない。そんなことはいくらだってある。そういう実例も私自身のまわりにいくつかあったのです。
そういうリスクを真剣に見つめてしまえば、《それでもやるのか?》《それでも行くのか?》、という声は聞こえる。それは少々ヒロイックなところに自分を持ち上げるということも含めて。そして私は《それでもやり、それでも行く》と思ってました。今も思っています。
なぜ? うーん、これは難しいですね。これも、偶然、だと思うな。偶然、こういう仕事、食い扶持に出会ってしまったからとしか表現しようがありません。でも、そんなことそれぞれの人生にはいくらでもあるわけでしょう? 出会ったことすべてに私たちは突っ込むわけでもない。つまり偶然も、選択の結果なんかな。とにかく、人生の選択に「なぜ?」を問うのも野暮というものなのでございましょう。
そして、ルワンダでのあの日、落ちる直前にフロントグラスの先に見上げた空、あれが最後の景色でも、おそらくそれほど私自身は問題がなかった。そこそこ覚悟はいっつもあったはず(私に限らず、皆様多かれ少なかれ、自覚的であれ無意識であれ、そういう覚悟はあるはずです)。起こるかもしれないことが、起こってしまっただけ。
ただ、死ななくてよかったこととしては、やっぱり両親に先立たなくてよかったです。数年前に病死した父、まだ元気な母、より前に逝かなくてよかった。と、まだ母が健在ですので、油断せずにいなくちゃね。
あと、プロジェクト仲間(日本側もルワンダ側も)、やっぱり死んでたら、申し訳なかったなぁ。だから、私のあのプロジェクトへの最大の貢献は、あの事故で死ななかったこと、今こういうことをペロペロとタイピンクしていること。それは当時のプロジェクトのお仲間に会えば、いつでもアッピールして大きな顔していたいです。
事故前にたどりついてたこと
それにしても。“八月の終わりの誕生日”を迎える際に、事故のことと同時に思い出すこともいくつかあって。
そのひとつが、2012年12月に、新しく始まるプロジェクト準備のために、初めてルワンダに向かったときの、ルワンダ到着直前の飛行機の中のことです。私は1990年末から2年間、ケニアに青年海外協力隊で赴任しましたので、アフリカでの仕事はそれ以来、つまり20年ぶりでした。
20年ぶりに見下ろすビクトリア湖を過ぎて、ルワンダ上空に入り見下ろす赤茶けた大地には、なんかなつかしいトタン屋根の家々。ルワンダ入りする前に、頭の中は仕事前に詰め込んだルワンダに関するさまざまな情報ではち切れそうになっていました、特にやはり1994年に起こった大虐殺の記憶・記録はものすごいことだという予感もひしひしあった。けれど。
これまで赴任したどの仕事の際よりも、私はとっても落ち着いていたのです。気負い立つような気分が無い感じ。なんか冷静。とっても白紙。私がやるべきことは、まだこれから決まること。これからルワンダの人たちと会ってから、やるべきことは決まる。だから、そのときの私はとっても白紙で、まだ何も書き込まれていない、そんな気分?
もちろんプロジェクトの内容はそれなりには決まっていて、計画書もあって、予算規模もそこには書いてあって、プロジェクト終了時の評価基準云々もあって、私はそれに向かって働かなくてはいけないのだけれど。
でも、そんな紙の上での計画はとりあえず横において、まずはよく話を聞かないと、現場を見ないと、ルワンダを感じないと……。だから、ま、落ち着いてと。そんなふうな気持ちで、高度を下げていく飛行機の窓の外を眺めていたように思い出すのです。あれはとっても心地良い時間だったなぁと。静か―に、静か―に、でも奥底のマグマは確かにあって。若い頃は、そのマグマをすぐに噴火させてたのだろうなぁ。ま、それはそれで元気だったのだけれど、それはやっぱり未熟だったのだという確信が、あった。私は48歳でした。ルワンダでは、これまで派遣されてきた場所でよりももっと静かに低音で歌うのだ、これから出会う彼らと。
そして、多分、そんなふうにルワンダの日々は実際に始まったのでした。
もちろん、そんなふんわりした感じで仕事ができる環境があったこと、特にプロジェクトの日本側メンバーの理解があったこと、それは仲間の努力によってもたらされた幸運な職場環境であったこと(また偶然?)はここで書いておきますね。そして、約1年9ヶ月間、事故に遭うまで、ルワンダでやっぱり無我夢中に、でも冷静に、すごしたのです(3~4か月の勤務を年に3回繰り返す、つまり年12ヶ月のうち約10ヶ月をルワンダで過ごしていた、というような派遣勤務でしたけれど)。
あーあ、楽しかったなぁ。
そして、幸い、今も、途上国の教育支援には、小さく小さくですけれど、かかわれています。そして、ルワンダに最初に到着直後のあの「冷静さ」は、あの事故でも私は手放さなかったよ、と言いたいなぁ、言えるといいなぁ。
教育支援、私のモチベーション、ーあきらめの悪さー
ありがたいことに、こうしてプノンペンで沈殿していると、「カンボジアの支援、特に教育支援にかかわりたい」という若者(ときに若者ではない人)が私に連絡を取って、会いにきてくれます。
先日もそんなことがありました。彼は、なんと二十歳! 最近の若者はすごいなぁって思います。自分の二十歳のころって、まだ自分のことで精一杯だったよなぁ。まぁ、今は私が二十歳だった40年前より、ずっと「世界は開いている」からこそ、彼はプノンペンまで教育支援活動の実践に片足つっこんでしまったのだろうけれど。40年前の私には、そういう選択肢は思いつかなかったものなぁ。海外って、金はかかるし、言葉は通じんし、まだかなりのジャンプ力を必要とする越境だったのです。ま、それはさておき。
4時間、彼と話し続けた際に忘れられない瞬間がありました。私が続けてきた支援のエネルギー源、モチベ―ジョンに関して、彼は「楽しいからですよね」と想像してくれたのです。でも、それを聞いて、私の心はそれを即座に否定するのですよ。つまり、けっして私が楽しいからやるのではない。楽しいから、途上国の開発支援を続けてきたのでは、けしてない。
ならば、なぜ? やっぱりそこに“課題”があるからだ、なんだと思う。たとえば、質の良くない教育という課題がある。そして、彼ら(支援を受ける側)が「質が良くない」と思っているわけではないのです。私(たち、支援をする側)が、そこに課題があると判断しているケースが多い、特に教育セクターでは。たとえば「教師主導の教える教育」から「生徒主体の学ぶ教育」への転換という価値観は、先進国で生まれた価値観で、それを途上国側社会が主体的に求めたわけではないのです。
だから、教育セクターでの質的改善支援は、押しかけ支援になりがち。そして、支援一般論として支援者主導の押しかけ支援はたいがい上手くいかない。教育セクターの支援でも、やっぱりそうなのです、押しかけ支援はなかなか成果は上がりません。私自身の経験も含めて、20世紀から21世紀への移り変わりの中で、私はそれを実際に自分の失敗も(小さな成功も)ふくめて、たくさんの事例を見てきたのです。
おそらく、だから私は今も支援のありようを模索している。それが、私のモチベーション。楽しいからでは、けっしてない。
もちろん、この仕事、好きですし、楽しかったことも多い。でも、苦しい、辛い、虚無感に襲われることも多し。でも、まだ止めてない。まだ考えてます、どうするのがなんとかうまくいく《押しかけ支援》になるか。つまり、あきらめが悪い。さっぱりしていない。ジクジクといつまでも考えている。そして、そこにはこの10年の障害者としての知見も当然に加味されていく。だから、この仕事をやり続けている。うん、楽しいからじゃないのです。
単に諦めが悪く、降りられないという見方もできるんじゃないかな。でも、先日お会いした若者のような“後継者”たちがひしめいているのだからなぁ。当然、私(たち)はじわじわと降りていかなくてはあかんのだろう、とも思ったりします。援助って“産業”なので、適正人員数ってやっぱりあるのですよ。最近、たとえば日本のODAの額は減少傾向で、それは確実に今後も続きそうだしなぁ。援助って斜陽産業??? 救いはSDGsか???
さて、とにかく教育セクターの質に関する支援では、この《押しかけ支援》問題は避けられない。では、どうしたらよりよい《押しかけ支援》になるのか? ま、またそれは別の機会にといたしましょう。
とにかく、はい、10年経ちました。皆さま、本当におめでとうございます。そしてありがとうございます。


















村山哲也 様 あれから10年経つのですねえ。村山さんには次から次へと撃つように言葉が出て来るようですが、うーん・・・重くて言葉が出て来ません。
10年前にあの大事故に遭ってさえも『課題があるから続ける』という想いが通底する村山さんが訪ねてきた青年に〈楽しいから続けるんですよね〉と言わしめるゆとりある楽し気な語り、そうだろう、青年はあなたと4時間という時空を共有してこのような感想を持った。私はその青年が述べた感想に違和感を持たない。あなたはその青年に〈楽しいから続けるんですよね〉と”誤解”させるような大きなゆとりを持ち過ぎている。もしかして、その青年とかかわりが続くようになったとき、「村山氏は『課題があるから続ける』という想いが通底して今日まで教育支援プログラムに関わって来たんだ。」と印象を持つ時空はあるだろうか。
あれから10年経ったか言う訳ではないがそんな心配はどうでもいい。ここまで来たからには「いつか若者にバトンを・・・」などいう想いを抱くことなく走り続けて下さい。、あなたとプロジェクトを組む若者、あなたの周りの若者に結局〈楽しいから続けるんですよね〉と ”誤解” させながら走り続けて下さい。
お金が世の中にたくさん出回り、お金が日々の生活の大部分を支配し、さらにお金が、生活の皮相に飛び込んでくる技術と交わって軽いおもちゃが増えた。人はこのおもちゃで遊んでいるうちにかけがえのない時がどんどん過ぎて行く。政治がどんどん悪くなろうが気付かずに時が過ぎて行くどこかの国ではもはややり様がないかも知れない本当の教育の深化を目指して取り組むカンボジアでのプロジェクトにずっとずっと関わり続けて下さい。時には富士山を俯瞰し確実にランディングして「ここのビールと蕎麦は好いね。」なととボケ爺と会話する文字通り善良で軽いコトバを忘れない程度にね。
2028/09/01 どこかのくにのボケ爺
ほぼほぼすべての言葉に「うん、うん」と頷きながら読ませて頂くなか、
「援助って産業なので」と「若者にバトン」はン~そうなの?それはちゃうのでは?
と思ってしまいました。
援助=産業はこんどゆっくりお教え頂くとして、
若者にバトン、なんて考えず、倒れるときは前向きにで行ってほしいです。のんびりゆったりと。