4月3日(水)、朝プノンペン発、バンコク経由で夜に羽田着、浅草の隠れ家へ。寒いわぁ。ソメイヨシノはこれから満開だってさ。
4月4日(木)、昼前に麻布十番にある偶然劇場で野本晴美さんのピアノを聴く。小野久先生もご一緒。なにやら超贅沢な時間でありました。
この偶然劇場という場所は、不思議なところです。無料で一流の音楽家の演奏が聴けてしまう。なんでも赤ちゃん最優先の場所なのだとか。春休み中だけ午前中から演奏が始まりまして、野本さんのピアノは午前10時からお昼まで、たっぷり。それをすぐ横に座って聴いていられるという。なんならリクエストもできてしまう。広い窓からは、公園の満開の桜や、新緑やも眺められる。こりゃぜったいおススメの場所ですよ。
ピアノのあとは、小野先生と蕎麦で一献。夕刻から日暮里の母を訪ねて、夕食をともにしました。
4月5日(金)、整形外科、泌尿器科、歯科とはしご。
今回の日本行き敢行は、整形外科で診断書を書いてもらうというのが最大の目的でした。私の生活は、主に労働災害の障害年金に拠っているのですけれど、一部厚生年金の障害年金からも支給があります。この厚生年金のほうの障害年金には、数年毎に(多分5年に一度)障害の状況調査のための診断書提出が義務付けられているのです。それが今年でした。医者曰く「下半身完全麻痺なんだから、下半身の細かい状況など記入しても意味がないよねぇ」。はい、私もそう思います。でも……。まぁこういうのは、きちんと提出することに意味があるってことなんかなぁ。
ちなみに労働災害のほうでは、私が障害を得た後に「脊髄損傷者に対する状況調査は必要ない」と規則に変更があり、現在では状況証明の診断書の提出は求められなくなりました。将来、慢性脊髄損傷者の治療法の開発が進んだ場合には、また診断書による「回復状況報告義務」が復活するなんてこともあるのかしら、ないのかしら???
泌尿器科のほうは、帰国直前あたりから血尿気味で、ちょうどそれが診療にあたってよかったのです。2023年春に大きな膀胱結石を削除する手術を受けていますけれど、それが再発???検査の結果、石はあると。でもまだそれほど大きくないので、経過観察となりました。
夜、大学の同期Hと数年ぶりのに会い浅草で餃子を食す。
4月6日(土)、昼に中学校の野球部仲間2名NとEと上野で再会。Nが医療関係者なので、コロナ禍ではまったく会えず。ですから数年ぶりの集合がとても嬉しい。さらに、当時の野球部顧問のT先生も合流してくれました。夕暮れまで、にぎやかな時間でした。ちなみにこの日、上野のお山はお花見絶好調だったよう。あてにしていたビアホールは一時間待ち。仕方なく首都高高架の東側コーリア街方面で入れるお店を探しました。
4月7日(日)、東北新幹線で盛岡へ。夜、仲野麻紀さんと渋谷毅さんのデュオコンサートにうかがったのです。函館で学生生活を送っている子ども(夏草)に「一緒に行かないか?」と誘いをかけたのですけれど、あっさり「用があるから、無理」と振られ。でも一度「行こうかな?」と思った件を、見逃すのはどうしても心が残る。ならば、思い切って。夏草の介護が期待できないので、余裕をもって一泊で。結果、あぁ、思い切って出かけてよかったぁという尊い一日になったのです。
一泊にしたおかげで、コンサート後の小さな集いにも仲間に入れてもらって。渋谷毅さんはうかがえば私の母と同い歳。盛岡でコンサートをこれまで50回以上開いてきたそうで、そういえばコンサートで渋谷さんにかかった声も「おかえりなさい!」でした。ただ、渋谷ファンが多かった今回のコンサート、30名ほどで満杯の小さなジャズバーに集ったのは(私も含めて)年齢層が高かった。若者はどこにいるのか!多分、仲野麻紀さんが一番若かったのではないだろうか。
帰り道、会場から盛岡駅前のビジネスホテルにひとりで車イスを漕いでいたら。「押しましょうか?」と声掛けしてくれたカップル。聞けば、岩手大学短大で保育士を目指す若者(男性)と、看護学校で看護師を目指す若者(女性)のお二人。あぁ、ここに若者がいたよ!彼らは私のお喋りを聴きながら、数百メートルを押してくれたのです。車イス者にとっては難関の北上川にかかる開運橋も楽々突破!(大きな橋って、だいたい坂道化していて、車イス者には難関なのです)
あぁ、あんな若者たちがいるのならば、世界の未来も当面は大丈夫だぁ!と、思ったのでした。盛岡の若者、いいっすよ(なんて、小さな経験による一般化はよろしくないけどさぁ、まぁいい話だから許してちょうだいな!)
しかし初めての場所(宿の部屋)というのは、やはりひとりじゃなかなか大変です。この夜、車イスからベッドへの移乗で、落下。復帰に小一時間かかりました。やれやれ。
ちなみにこの日は私の60回目の誕生日であり、さらにルワンダでは94年の大虐殺から数えて30年目の虐殺を悼む記念日だったのです。さらにガザや、ウクライナや、ミャンマーや、スーダンやハイチやで起こっていること、続いていることを思うと………、「ハッピーバースディ」って気分にはやっぱりなれない。だから静かにひとり還暦を噛みしめるの盛岡の一夜だったのでした。麻紀さんのサックスが最高のプレゼントだったのです。


4月8日(月)、午前の新幹線で東京へ向かい、大宮で途中下車。途中、仙台を過ぎると沿線のソメイヨシノが綺麗でした。盛岡の開花は20日ごろだろう、とのことだったなぁ。大宮下車は、9月の妻サンワーの訪日のビザのために私の戸籍謄本が必要で、さいたま市大宮区役所へ寄ったのです。私の本籍は現在、さいたま市にあります。これまで引っ越しの度に住民票とともに戸籍も移動してきたのですけれど、さいたま市から台東区西浅草に越した際には、戸籍は移さず。理由は…、サンワーとの婚姻関係を明記した箇所が、戸籍を写すと消えてしまうから。つまり、転籍しても、彼女との婚姻関係を証明するためには結局さいたま市の戸籍の記録が必要になるのでした(ついでに書くと、子どもが生まれた際には事実婚をとっていたため、私は彼を認知する手続きをとりました。その認知の証明も、現在の戸籍上に残っています。そして、転籍するとその認知の記載も消えてしまうのですよ)。それにしても、毎度毎度のビザ申請に戸籍提出が求められるわけです。なんかなぁ。まぁ、今やサンワーも観光ビザを取れば済むのですけれど。でもそうなると、今度は彼女の銀行口座の残高証明云々が必要になります。私との婚姻が証明できれば、そういう経済的な証明は必要なくなるわけです。いやはや、なんとも。
その後、午後には日暮里の母宅を喫茶店代わりにして、某雑誌の編集者HさんとIさんからインタビューを受けるという吉事がありました。某雑誌の6月号と7月号にチラッと載るよ~。
4月9日(火)、昼はカンボジアのお仲間である伊藤明子さんと会いまして、日ごろのお世話に感謝し、浅草の小さなフレンチ食堂で私が昼食をご馳走いたしました。その後、伊藤さんは我が家で室内の整理整頓に汗を流してくれています。お疲れさま。そして、夕刻からは高校時代からの友人・横山光則氏と上野駅近くで一杯。話はどうしてもガザに飛びます。どうして「憎しみあえるのか」、そこがもはやどう考えても共有・共感できないという点で、彼と私は共通するものがあるのです。ちなみに、パレスチナ問題は「憎しみ合い」の問題ではありません。喧嘩両成敗みたいな話じゃない。イスラエルのアパルトヘイト政策がまず一方的に悪なのです。そもそもの成り立ちがやっぱり間違っている、どうしたって無理だし、当然しんどいことになる。だから……。だけど……。
4月10日(水)、午前中に泌尿器科再訪。血液検査の結果等を聞いて、自己導尿器具をもらいます。午後は、妹が来て明日のフライトのパッキング(20キロ)と、この半年間に届いている本の箱詰め。本は二箱、夕刻に郵便局から集荷にて船便でプノンペンにおくりました。合わせて、約35キロ。積み残しの本が20冊ほど。こちらはまた秋にだねぇ。
夜は、浅草の留守番役の甥っ子チヒロさんと一緒に夕食。今回の滞在中、彼との食事はこの一回きりです。自宅での夕食もこの一回きり。いやはや、忙し忙しなのでした。
4月11日(木)、早朝のタクシーで羽田へ(ちなみにこのタクシー予約がまた大変。車イス者であることを事前通知する必要があるので、アプリ使えず。タクシー会社への電話での予約になるのですけれど、今回も予約が取れたのは4社目ぐらいかなぁ)チヒロ氏が同行して、タクシーを降りてからカウンターまでの荷物運びをやってくれています。そのカウンターで「お客様のフライトは成田発です」とタイ航空のスタッフがニッコリ。おぉっと出ましたぁ、びっくり仰天! これまでの幾多のお笑いミステイクに新たな壱ページが加わったのでした。幸い、50ドル(円安涙)ほどの手数料でフライトの変更が可能となりました。だって、これから成田じゃ間に合わないもん。「週に数名、羽田と成田を間違えるお客様がおられます」そうだよねぇ、間違えるよねぇって、自分で予約入れてるわけで、本当に情けなしでありました。その予約段階から私はずっと羽田便のつもりだったわけです。これまた、失礼しました!
予定通り、バンコク経由で現地時間20時ごろにプノンペン空港でサンワーにピックアップされて帰宅したのでした。

4月11日午後、バンコクでのトランジット待ちで見かけたイスラエル航空の機体。あれがこれからイスラエルのジッタ空港に飛ぶのかぁと思うと…、なんか胸が締め付けられるのでした。おそらく、この便に搭乗するためには、通常の何倍も厳しいチェックを受けなければいけないはずです。そのチェックのためにイスラエル兵士がこの空港にも派遣されているはずなのです。ガザに派遣される兵士もいれば、そうやって世界のあちこちの空港での手荷物チェックに汗をかく兵士もいる。そりゃ、荷物チェックがラッキーだよねぇ。そう思うでしょ?って、イスラエル兵士が目の前にいたら尋ねてみたい。なんて答えてくれるのでしょう?
以下おまけ
4月15日 クメール正月祝日3日目
せっかくの祝日、家に籠っているだけではつまらないなぁ、とこの日はサンワーの運転でプノンペン北方にある観光地ウドン方面に出かけたのです。
町は水かけ祭り気分で満ち満ちていました。以下の写真のように、道沿いで待ち構えて水をかける人たち。さらには、トラックの荷台に水タンクを積んで、移動しながら水をかけて回るチームも。道沿い水かけ固定チームと、移動水かけチームが出会えば、そこでは壮絶な水の掛け合いバトルが展開されるのでした。ですから、一部の水かけ集中地(たとえばワットプノン周辺や、ウドン山周辺など)では、大きな交通渋滞も発生したのです。

私がカンボジアで本格的に仕事を始めた2002年ごろ、政府によって都市部での水かけは禁止令が出たのです。あまりに過激になってバイク事故(水かけられて転倒とか!)が多発したことなどが背景にあったようです。
そして、コロナ禍があった。思い出してみると、たった3年前(2021年)のクメール正月の時期は、カンボジア内ではコロナ禍最盛期で、プノンペン市内の移動すら自由ではなかった。コロナ禍が一応明けて、昨年、そして今年と、水かけの熱狂度は一気に加速した印象があります。
やはり、抑圧の後の解放という社会的心理があるのだろうか、ないのだろうか? 窓を閉じた車の助手席からの印象は、多くの人が水かけを楽しんでいるように思えて、まぁ良いのかなぁとは感じました(一部の若者が暴走して、若き女性へのセクハラバリバリの水かけ、さらにはお触り狼藉、という状況も散見されていて、あれはやっぱり止めて欲しいのでした)。
さて、観察の後には、讃岐うどん!?


プノンペンの中心地から北へ向かう国道5号線沿い、そうですねぇ、中心から約20キロ、車で30分~小一時間かかる場所にある「Japan Garden @Sokimex gas station」にその讃岐うどんはあるのです。うどん県出身の香川アンバサダー 楠川 富子 さん、学校での保健衛生を促進するNGO「うどんハウス」を主宰する超絶凄い人です、も絶賛する、本格的讃岐うどんなのです。なんで、こんな場所に……。詳細は不明ですが、ガソリンスタンド内の食堂で食する本格讃岐うどん、もう笑ってしまうのでした。値段はプノンペン中心地で食べるクウィテウよりも安いぐらい。この場所で、小麦からしっかり打っている、出汁も取っているみたいで。スタッフの中に日本の人は見受けられない(そこがよい!)。でも、こんな場所で商売なりたつのが不思議でしょうがない。「うどん」とひらがなで幟を立てても、カンボジアの人は読めないって。読めても意味わかんないし。
ちなみに、店内には国道5号線をもう少し北上したところにある古都ウドンが「日本のうどんの名称のもとになっている」という案内板が掲示されています。けれども、このウドン名発祥説には無理があるのです。それはすでにこのブログで書いています。興味のある方はぜひ読んでみてくださいませ。以下です。
とにかくここのうどんは本当に美味しい。私はぶっかけ(2.5$)を食した後、釜玉(2.5$)を追加注文してしまいました! 2024年ニューイヤーの年越しウドン、これがこのクメール正月で一番記憶に残っちゃうのだよなぁ。サンワーが頼んだ天ぷらうどん(3.5$⁉)も大きなエビが2つ、こっちも美味しい。讃岐風かけ汁、素晴らしい。プノンペン市内から足を延ばす価値あり。私は再訪確実です。
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