海外支援に携わろうと思ったきっかけ (神戸外語大学 岡本ゼミの皆さまへ その1)

トラックの荷台に乗って地区の演劇大会に参加したクウィセロ中等学校の生徒たち   1992年ケニア西部 カカメガ近郊

 岡本ゼミ、梅嵜望様はじめ1月26日にお会いする予定の皆さまへ

 当日は短い時間ですけれど、よろしくお願いします。

 先日、梅嵜さんから皆様からの質問を受け取りました。今日は、その中のひとつ「海外支援に携わろうと思ったきっかけ」について、先取りして書いてしまいます。以下は、拙著『超えてみようよ!境界線』(2021年1月 かもがわ出版)の中からの文章です(一部、ちょっとだけ改訂しています)。

アフリカに憧れて

 そもそも子どものころからアフリカに行きたかった。それも観光旅行などではなく。

 『ドリトル先生アフリカゆき』を何度も読んだ。この本は動物語を使うことができる英国の町医者を主人公にした物語で、原作は英国で一九二〇年に刊行された。一九六〇年代には日本でも広く紹介された。あるいは野口英世やシュバイツァーの伝記も愛読書だった。野口英世もシュバイツァーも一八七〇年中ごろ、日本で言えば明治八~九年ごろに生まれた医学者で、アフリカで医療を実践して、それぞれの活動場所つまりアフリカで亡くなった人たちだ。今読めば、『ドリトル先生』も、野口やシュバイツアーの価値観にも、アフリカを西洋よりも低く見る蔑視(べっし)が気になって、おすすめしづらいけれど。

 あるいは旱魃(かんばつ)による飢餓(きが)で難民となったやせ細ったアフリカの母子の写真を新聞で見たことを覚えている。今調べると、一九七四~五年にエチオピアで食料不足が起こっている。ぼくが小学生高学年のころだ。

 当時の日本では米の生産が過剰となり減反政策が取られ始め、ニュースでは稲作農家がせっかく育てた青田がコンバインで刈り取られる映像が流れていた。米が余っているのならアフリカへ送ればいいのに、なぜそれができないのだろう。ぼくには不思議だった。とにかく食べ物がないのなら、それを作る技術を自分が学んで伝えに行けばいい。中学生のころにはそんなことを考えていて、高校で野球に熱中したあと、農業系の大学に進んだ。

 でもアフリカで飢餓が生まれる背景は単純ではないことが、だんだんにわかってくる。農業技術の問題ではなく、もっと経済や政治といった世の中の仕組みが大きく絡んでいる。世界はなにやら混沌としていて、一筋縄ではいかないようだった。

 大学に進む前から、そのことには気がついていた。そもそもぼくは、東京の住宅地育ちだ。父は新潟の山なかの零細米農家の息子だけれど、東京に出てきて就職した。継ぐべき農地があるわけではない都会育ちの自分が、果たして農業を職業にできるのだろうか。そう思いながら、大学の研究室で稲の苗を水耕栽培し、試験管を並べて分析実験していた。身の回りには勉強以上に夢中になれることもあった。

 農業でアフリカに行くのは自分には難しそうだという予感があって、大学では理科の教員免許を取った。教師として海外ボランティアに参加する気持ちがじわじわと芽生えていた。

 大学卒業後、少し遠回りして二六歳でボランティア活動(青年海外協力隊)に応募した。アフリカ以外の途上国でも参加するつもりだったけれど、合格通知の派遣国欄に〝ケニア〟――東アフリカだ!――と書かれていたのを見たときは、とても嬉しかった。

そんなふうにして、ぼくのアフリカでの生活が始まったんだ。(ここまでが、『超えてみようよ!境界線』から)

ちょい長い付け加え

 上記を改めて読んでみて、でも、それでもどうして“ドリトル先生”や、“シュバイツアー”・“野口英世”で、つまりは“アフリカ”だったのか? それはやっぱり「どうして?」と思えば思えますよね。

 中学3年生だったと思うのですけれどね、学活で「将来やりたいこと」を作文に書け、という課題が出たのです。でも、ぼくは書きたくなかった。実は、書けなかったのです。何を書けばいいのか、わからなかった。また、「どうして自分の将来やりたいことをこの場で公開しなければいけないのか?」とも強く思ったのです。別に教師たちに反抗心が強いということではなかったはずです。むしろ、同級生たちへの違和感が強かった。クラスの中の小さな虐めや、高校受験を控えてのどこかピリピリとしたムードや。
 今でも、中学生のときの思い出は、灰色モードで、あまり楽しくありません。
 背景には、私が中学2年生になるときに、父が地方転勤となったこともあります。そのときまで、ぼくの家族は東京郊外の町にぼくが3歳のときから過ごしていました。転勤によって両親と妹ふたりは、地方都市に引っ越しました。ただ、私は転校するのが嫌で、都内の隣町の母方の祖母と叔父家族の家に居候したのでした。おそらく、それもぼくの灰色の中学生活の一因でした。きっと寂しかったのだろうと思い出します。祖母は優しかったですけれど、叔父家族とはあんまり折り合いがよくなかった。結局、ぼくは中3のときから、祖母叔父家ちかくに祖母が持っていたオンボロアパートの一室で暮らすことになります。

 そんな個人史も、ぼくの中学嫌いに拍車をかけていたのかもしれません。で、「将来やりたいこと」という課題をぼくは提出しませんでした(提出しない理由を書けと言われて、それは書いたような覚えはあります。個人の夢に干渉されたくない、というようなことを書いたはずです、でも実は明確な夢もなかったのです)。

 きっと、そのころにアフリカの飢餓のニュースを読んだのだろうと思います。それで、そこから自分の将来を考え始めたのじゃないかなぁ。「ここでないどこかへ」という思いがあって、そこにアフリカがうまいこと侵食していったのだろうと。

 当時からかなり天邪鬼でした。みんなが右に行くなら、左に行きたいタイプ。そんなぼくにとってアフリカの異次元さが、気持ち良かったのでしょう。
 高校では高校野球児をやりながら、将来はアフリカに行く、と周りに公言していました。アフリカが先で、そこで何をやるか? どうやってアフリカに行くか? そう考え始めた時に、青年海外協力隊のことをたまたま何かで知ったのです。

 まずは、これだな、と思ったのでした。
 これが、『超えてみようよ!境界線』からの引用の補足説明です。

 大学卒業後、私は縁あった人とすぐに結婚しました。そして、30歳前にやることとして、中途半端に終わった思いの強かった高校野球にケリをつけることと、青年海外協力隊でアフリカに行くこと、その二つを目指したのです。30歳以降のことは、その二つが終わってから考えればいいと思っていました。そして、実際に、まずは高校野球の監督を2年半ほどやり、なんとかケリをつけて、27歳で青年海外協力隊に参加してケニアに行ったのです。

 でも・・・・、ケニアに行ったことで、結婚のほうは破綻しました。ぼくは、ぼくのわがままのために、とても大切に思っていた人の人生を狂わせています。たいへんよろしくないことです。このことで、ぼくはケニアから2年ぶりに帰った日本で、社会復帰に完全に失敗します。

 そして、そのことがぼくを青年海外協力隊後も、余計に途上国の支援に向かわせました。もう日本には居たくなかった。逃げられるだけ、逃げたかったのです。そのことがその後、30代40代とぼくが途上国支援をやり続ける大きな動機・推進力になりました。もう、引き返すことはできなかったし、引き返したくもなかったのです。 

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