越境先で、歌ったのは

自分で歌っている写真がなかったので、パートナーのサンワーさんと友人のSさんに特別出演をお願いしました。いや、歌っていいものですよねぇ。

クウィセロ中等学校に流れたイマジ

 始めて長期で海外で暮らしたのは、クウィセロという名のケニア西部の小さな村の学校で理数科教師をやったときのことだ。2年間の村での生活を終えて帰国するとき、学校がお別れ会を開いてくれた。そのときに歌ったのは、井上陽水と忌野清志郎が二人で作ったという名曲「帰れない二人」だった。
 思ったよりぃもぉ~夜露は冷たく ふたりぃの声ぇも震えていました 

 たまたま日本から持っていった、さまざまな日本の恋歌を並べた本の中に「帰れない二人」もあって、歌詞がわかったから、というのが一番の理由だった。女子生徒と男子生徒をそれぞれひとりずつに協力してもらって、二人を恋人に見立てて朝礼台に座ってもらって、「仲良く夜空の星を見上げている演技をしてくれ」とお願いしたことを覚えている。あの二人ももう40代になっているはずだ。どうしているだろうか。

 クウィセロで忘れられないのは、山下達郎の「Get Back in Love」という曲。ケニアに勇んで出かけたのはいいものの、そのことでぼくは仕方なく長距離恋愛をすることになった。今ならインターネットがあって、物理的な距離を乗り越える方法はいくらでもあるだろう。けれど、当時は携帯電話もない時代だ。国際電話をかけるためには村から50キロメートル離れたビクトリア湖畔のキスムという大きな町までいかなければならなかったし、国際電話料金もとっても高かった。結局、郵便が頼りだったのだけれど、早くても片道一ヶ月かかる手紙でのコミュニケーションは、想像している以上に恋愛には不向きだった。あれ、なんかやばいかも、と思うことがいろいろとあって、ぼくは多いに狼狽えていた。
 授業の合間の空いた時間、誰もいない校庭を歩きながら歌った。

ゲバァック インラァブ アゲン もぉお一度 ぼくを信~じて 想ぉい出にしぃたくなぁい あなたぁを 取り戻しぃたいッ

 万が一誰かに聞こえたとしても、日本語が分かる人はいない。
 大声で歌うことは、きっとなんらかのストレス発散になっていたはずだ。

 自分で歌ったのではないけれど、学校の職員室でジョンレノンのイマジンをカセットテープから流したこともあった。なにかの話で「イマジンって曲、知ってる?」という展開になったのだと思う。そして、クウィセロの同僚たちはみんな「知らない」とおっしゃる。イマジンゼアズノーヘブンとぼくが下手な英語で歌ってみても、「聞いたことない」とおっしゃる。それではということで、ジョンレノンの歌を聞いてもらった。

You may say I’m a dreamer  But I’m not only one I hope someday you’ll join us and the world will live as one~

 ジョンの高く鋭角で少し鼻にかかった傍若無人な声がぼくがもちこんだモノラルテープレコーダーから流れる。いやぁ、ぼくが来なければ、この学校にイマジンが流れることはなかったのかなぁなんて思うと、なんかケニアに来てよかったなぁ、なんて思ったものだった。いやいや、まったく自分勝手で独りよがりな感傷。

(ちなみに、その後仕事をしたフィリピンならば、イマジンを聞いたことない人はひとりもいないだろうと断言してもいい。英国の植民地だったケニアで、あんなにビートルズが知られていないのは、とても新鮮な驚きでもあった。それだけ、植民される側と英国の距離は心理的にも遠かったのだろう。)

フィリピンで強烈に鍛えられる

 その後、海外に仕事に行くと、歌ったほうがいい展開にどうしたって出会うことになった。鍛えられたのは、フィリピンだ。歌え!と言われて「いやいや、ぼくは歌はどーも」なんて遠慮するのは、まったく無粋である社会なのですよ。上手い下手は関係ない。とにかく楽しく歌うのが粋というもの。

 夜になれば、薄暗い町のあちこちから、カラオケを楽しむ老若男女の歌声が流れてくる。歌う阿呆に聞く阿呆、同じアホなら歌わなにゃ損損!
 マイクの順番が回ってくれば、自分のお決まりの歌というものがあって、いつもそれを歌っても別になんの問題もない。むしろ自分の持ち歌をしっかり持っていたほうが楽ちん。

 ぼくが良く歌ったのは、ひとつはビリージョエルのHonesty。英語がそれほど難しくない曲だ。

 オーネスティ イズ サッチァロンリィワード エヴリィワン イズ ソーアントゥルー

 さらにフィリピン・タガログ語の歌も一曲。愛唱したのはフィリピンの歌姫レジーンベラスケスが歌うKailangan Ko’y Ikawだった。

 カイランガン コーイカウ ディトォサピーリモー カイランガンコーイ マダマァ アンg パgィビg モー (Kailangan ko’y ikaw Dito sa piling ko Kailangan kong madama Ang pag-ibig mo) 恋歌ですけれど、詳細な歌詞の意味は忘れました。

  フィリピンの人たちは、世界の多くでバンドで活躍している。東南アジアのリゾート地にいけば、ホテルなどのステージで歌っているのも多くはフィリピンの人たちだ。そういうわけで、そんな場所に行けば Kailangan Ko’y Ikaw  をリクエストして一緒に歌うと彼らはとても喜んでくれる。そんなぼくの隠し持ちネタの一曲です。

 モンゴルで馬頭琴の演奏をバックに歌ったのは

 フィリピンの仕事が終わった後、一ヶ月ちょっとという短い仕事でモンゴルに行ったときのこと。ODAによる学校校舎建設支援の基礎設計調査という仕事で、役割は学校の生徒数や地域の人口変動など、そこに校舎が必要なことを説得的に示すデータの収集がぼくの役割だった。調査団の主要メンバーは、大手建設会社の社員だった。彼らは学校内の校舎建設場所の測量や、簡単な地質調査、あるいは現地の建築資材の調達の状況などを調べる建設のプロの人たち。そして、ステレオタイプ的な書き方になってしまうのだけれど、建設屋さんたちは、飲み好き歌い好き、と相場は決まっているのだった。そして、ついにその時がやってきた。

 首都ウランバートルから陸路2日ほどかけて行った支援予定の町で、週末の一日、市長が自らの別荘にぼくたち調査団を招いてくれたのだ。別荘というのは、市中から車で一時間ほど走った森の中にあるゲルだった。そこでぼくたちは羊肉をお腹いっぱいいただき、さらに焼酎のようなお酒を乾杯乾杯でわんさかご馳走になった。となれば、当然歌となる。市の公務員である歌謡団がその場に呼ばれていて、プロの演奏家と舞踊家、歌手がぼくたちの前で生演奏を聞かせてくれる、なんとも贅沢な午後だったのです。当然、では、こちらもご返杯に一曲やらねばなるまい、ということになる。
 指名された建設会社若手社員が、いかにも運動部仕込みという感じの女性アイドルに扮した替え歌を陽気に披露し、しっかり笑いを取るスキを狙って、ぼくは馬頭琴の演者のところに行って鼻歌で「この曲知っている?」と問いかけてみた。「わかるわかる」と彼。

 では、と、若手社員の派手な芸に続いてご披露申し上げたのは、次の曲です。

 アーリラン アーリラン アーラーリーヨーォオオオ アリラ-ン峠をぉ 超ーえていくぅ 碧い夜空は星の海よぉ ひぃーとの心は憂いの海よぉ (ソウル・フラワー・ユニオンの歌う中川敬翻訳による日本語版アリランより)

 いやぁ、これは気持ちよかったです。なにせ伴奏はプロの馬頭琴奏者です。音程はぼくにぴったり合わせてくれる。しかも場所は気持ちのいいモンゴルの森の中。まわりはみんな酔っ払い。どう歌っても本人には上手に聞こえる条件がすべて整っていました。ぼくとしては、日本人が朝鮮半島の歌を海外で日本語で歌う、というのも気持ちよいことだったのです。そして、このインターナショナルな歌を馬頭琴奏者が知っていたというのも、計算通りで嬉しいことでした。

越境のお仲間たち

 そのころからぼくは、仕事で使うノートの最終ページに、もしものときに歌うときのために何曲もの歌詞をコピーして貼っておくようになった。先に挙げた「帰れない二人」、「Get Back in Love」、「Imagine」 、「Honesty 」、「 Kailangan Ko’y Ikaw」、「アリラン」……… あるいは結婚式用に長渕剛の「乾杯」乾杯!今君は人生の 大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを歩き始めた 君に幸せあれ)や。南こうせつの「幼い日に」石ころだらけの この道を まっすぐ歩いていけば 親戚のおばさんの家 …去年の夏までは兄ちゃんと来たけれど ひとりでここまで来たのは始めて)や、カーペンターズの「Yesterday Once More」Every sha-la-la-la Every wo-wo-wo Still shines   Every shing-a-ling-a-ling That they’re starting to sing  So fine……)、さらには薬師丸ひろ子の「元気を出して」少しやせたそのからだに似合う服を探して 街へ飛び出せばほら みんな振り返る チャンスは何度でも 訪れてくれるはず 彼だけが 男じゃないことに気づいて!)もあったはず。あ、ビートルズの「Acoross the universe」Words are flowing out like endless rain into a paper cup  They slither while they pass, they slip away across the universe…… Jai guru deva om Nothing’s gonna change my world  Nothing’s gonna change my world )も貼っていたけれど、この歌は難しくて歌ったことはなかったなぁ。
 さらに、ジョンレノンの「Stand by me」When the night has come And the land is dark And the moon is the only light we’ll see No, I won’t be afraid Oh, I won’t be afraid Just as long as you stand Stand by me So darlin’, darlin’)。
 それから、ソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕」飼い主を失くした柴が 同胞とじゃれながら車道をいく 解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕 ヤサホーヤ 歌が聞こえる 眠らずに踊れ ヤサホーヤ 焚き火を囲む 吐く息の白さが踊る 満月の夕)。
 もちろん、BEGINの「涙そうそう」古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ……会いたくて会いたくて 君への思い涙そうそう)。
 おまけに、矢野顕子(この御方は本当に天才だよねぇ)による「ラーメンたべたい」ラーメンたべたい うまいのたべたい 熱いのたべたい ラーメンたべたい いますぐ食べたい ひとりで食べたい……男もつらいけど 女もつらいのよ 友だちになれたらいいのに くたびれる毎日 話がしたいから 思い切り大きな字の手紙

 古い歌ばかりかしら。だけど、みんな、共に越境してきた、大切な友だちだ。

 そのノートを使い終われば、その最終ページだけ切り取って新しいノートの裏表紙に貼りつけていた。これは便利で、しかも海外で仕事をする上で強力なツールとなった。このページはその後もレパートリーを増やしながら育っていったはずなんだけれど、さて、今はどこにあるのか、思い出せない。そういえば、最近はめっきり歌わなくなってしまったなぁ。 

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