外伝その3では、「カンボジアの石油」について書きました(前回の投稿には、以下から飛べます)。外伝その4は、プノンペンの町中にドーンとあります、「オリンピックスタジアム」。カンボジアの友人に、「なんでオリンピックって名前なのかな?」と聞いたところ、「ポルポト時代の前にプノンペンでオリンピックが開かれたんじゃないかな」とのご回答をもらったことがあります。えー?プノンペンオリンピック???ないないーーーー!
オリンピックスタジアムで開催された “オリンピック”?
まずは、可能ならば以下のYoutubeの映像を見て欲しい。この場所は、間違いなくプノンペンのオリンピックスタジアムだ。
カンボジアの胡椒の歴史を調べていたときに、1960年代にプノンペンに滞在して技術移転をしていたKさんと知り合うことができた。Kさんの派遣先はプノンペンの中央郵便局で、主に電信技術の指導を行っていたそうだ。
私がKさんとお会いしたのは2017年だったと思う。1927(昭和2)年の生まれのKさんはそのとき90歳。私がお会いする直前まで自分で車を運転して自由に出歩いていたが、一度転んで足を痛めて、東京郊外の老人ホームで暮らしていた。そのKさんに連絡をとって訪ね、当時の話を聞いた。
Kさんはプノンペンにコロンボ・プランの専門家として派遣されたという。しかし、正確に何年にカンボジアに赴任したのか、なかなか思い出せない。そこで東京オリンピックのとき、どこにおられたのか、と尋ねてみた。するとKさんの記憶が動き始めた。
「東京オリンピックが開かれた時には、もうプノンペンにいました。カンボジアに行って、一年しないうちに東京オリンピックがあった。カンボジアに向かうとき、日本は春だった。」
東京オリンピックが開かれたのは1964(昭和39)年の秋のことだ。つまりKさんはその年の春にカンボジアに赴任したことになる。
さらにKさんは、プノンペン滞在中に、大きな国際体育大会がオリンピックスタジアムで開催されたことを覚えていた。
きっと、この「大きな国際体育大会」が、友人の言う「ポルポト時代の前に開かれたオリンピック」のことなのではないか。
当時の新聞記事を漁ってみると、1966年11月下旬から12月上旬にかけて、アジア新興国競技大会がプノンペンで開催されたことがわかった。
このアジア新興国競技大会の第1回大会は、1963年にはインドネシアで開催され、51カ国が参加している。参加国は、いわゆる第三世界といわれた第2次大戦後に独立した新興国グループだ。毛沢東率いる中華人民共和国とスカルノ率いるインドネシアがこの第三世界グループのリーダー格となり、米国とソビエト連邦との対立(東西冷戦)に対抗した第三極として新興社会主義国さらには反イスラエルのアラブ諸国を巻き込んだ一大勢力を形成しようとしていた。この新興国グループにシハヌーク首相率いるカンボジアも加わっていた。そして、1963年のインドネシアでの第1回大会に続き、この新興国競技大会の第2回大会が1966年にプノンペンのオリンピックスタジアムを舞台に開催されたんだ。
先に紹介したYoutubeの映像を見ると、カンボジアの旗がなければまるで中国か北朝鮮かと思わせるような、組織だったデモンストレーションがこの競技会の開会式で披露されたことがわかる。私が特に印象的なのは、客席で示される絵文字の素晴らしさだ。「やればできるじゃないか!」と言いたくなるような完璧にそろったアレンジメント(「やればできる!」なんて上から目線での発言をお許しください)。
これはまず間違いなく、中国か北朝鮮の指導が入っているのだろう。当時、シハヌーク首相は中国と北朝鮮との強い関係を築きつつあった。
歴史に埋もれたプノンペンでの“オリンピック”
Youtubeの中には、以下のような映像もある(長いので、適当に飛ばしながら見てください)。これは1971(昭和46)年7月に、シハヌーク(元)首相が北朝鮮を訪問したときの、北朝鮮側の大歓迎ぶりを映し出している。
1971年というのが間違いないとすれば、このときシハヌークは、1970年3月のロンノル将軍によるクーデターによってカンボジアの実権を失って、中華人民共和国政府の保護の元、失意の時を送っていた時期だ。そのシハヌークを北朝鮮の金日成主席はこうやって大歓迎したことになる。シハヌークはさぞ勇気づけられたことだろう(ちなみに金日成は、今の北朝鮮トップ金正恩の祖父だ)。
シハヌークと北朝鮮の蜜月関係はその後も長く続き、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による1993年カンボジア総選挙を経て誕生した新生カンボジア王国でシハヌークが王として復活した後も、シハヌーク王の身辺警備は北朝鮮兵士が行っていたと言われていた。
話を1966年のプノンペンでの新興国競技大会に戻そう。すごい、すごい、と拍手したくなる立派な開会式だったけれど、参加国は17カ国だけで、インドネシアでの第1回大会の51カ国よりも大きく減ってしまった(新興国競技大会 – Wikipedia)。例えば、第1回大会開催国であったインドネシアは、1965年の政変によってスカルノ大統領が失脚し、反共のスハルト将軍をリーダーとする時代が始まり、この第三世界グループから離脱していた。
そして、新興国競技大会の名前は、このプノンペンでの第2回大会を最後に歴史から消え去ることになる。ある意味、第2回大会は、中国にシハヌークが後押しされて無理やり開催したものの、盛り上がったのはプノンペンのみ。豪華な開会式は、まさに歴史の仇花になってしまったんだ。
しかし、当時プノンペンにいたKさんにとっては、この競技大会は忘れられないものだったようだ。カンボジアにとっては、映像から伝わってくるように、熱気溢れるとても大きな国家プロジェクトだったろう。しかし、その熱狂は国際社会からは黙殺されてしまった。
興味深いことに、このプノンペンでの競技会に日本からの選手団が参加している。けれども、日本オリンピック委員会(JOC)は、新興国競技大会への不参加を決定していて、無断で参加した場合は他の国際大会への参加資格を剥奪し、さらに国民体育大会(国体)への参加も許可しないとしていた。つまり、そのような厳しい罰則を無視して日本から派遣された選手たちがいた、ということだ。おそらく、当時まだ中華人民共和国との関係を維持していた日本共産党が組織した選手団だったのではないだろうか(これは私の推測で、事実関係は未確認です)。
ボッコー山に入植していた日本人移民
Kさんの当時の話しは面白かった。例えば、キリロム高原には郵便局もあり、Kさんは一度だけ、その郵便局に遊びにいったことがあったという。また、ボッコー山に日本人入植者が農場を開いている場所があり、プノンペン在住の日本人で車を仕立てて出かけたことがあるという。「カンボジアへの日本人移住計画」については外伝その2で触れたけれど、1960年代に日本からカンボジアへ移住した人がやっぱりいたんだ。
ボッコー山と言うのは、なんとも不思議なところだ。コショウの栽培地として名前が出てきたカンポット県の中心地カンポットの西方にタイ湾にゆるやかにせり出すようにそびえるエレファント山地がある。その南端、タイ湾を千メートルの高さから見下ろすのがボッコー山だ。
ボッコー山には、1950年代前半、カンボジアが独立を果たす直前に建設されたホテル、教会、給水塔の残骸が残っている。この山上の町はその後、戦場となり、長い間ポル・ポト派が占領していたからだ。現在は、新たな観光地として再整備が進んでいて、立派なホテルも建ったし、カンポットの町からのアプローチもとてもよくなっている。

私は2007年ごろにこのボッコー山に泊りがけで行ったことがある。そのときはまだ道も悪路で、宿泊施設はあるものの食料は持ち込みで自給という状況だった。同行者たちと貸し切った小型バスは、悪路を登りきれず、私たちは夜の山道を数時間歩いてボッコー山までたどり着いたんだ。その夜の星空が素晴らしいものだったことを覚えている。そういえば、その夜行軍の最中に、突然遠くから異音が轟いたことがあった。その異音は一度きりで、私にはそれがなんの音だかまったく見当もつかなかった。同行者の中には、あれは象の鳴き声だったと言う人もいた。そう言われてみると、そう聞こえなくもないような異音ではあったけれど、私にはそう断言するだけの自信はなかったことを覚えている。あれが象の鳴き声だったとしたら、それは素敵なことだったのだけれども。
それと同じころ、人づてにボッコー山には、カンボジアの内戦が激化する前には日本人が高原野菜を作っていたと聞いたことがある。Kさんの話しは、それを裏付けている。
Kさんについて、追記
ちなみに、Kさんのプノンペン派遣は、今でいうJICA個別専門家という枠組みで、それはコロンボ・プランと呼ばれる途上国支援の枠組みの一つだった。JICAのホームページでは以下のように書かれている。
日本の政府開発援助(ODA)は、1954年10月6日にコロンボ・プランに参加したことから始まりました。このコロンボ・プランとは、1950年に提唱された、アジアや太平洋地域の国々の経済や社会の発展を支援する協力機構のことで、第二次世界大戦後もっとも早く組織された、開発途上国のための国際機関です。日本もその正式加盟国の一員として、1955年から研修員の受け入れや専門家の派遣といった技術協力を開始しています。(https://www.jica.go.jp/aboutoda/basic/01.html)
日本がコロンボ・プランに参加したのは1954(昭和29)年、日中・太平洋戦争敗戦から9年経ったときだ。戦後、支援される側だった日本国が、支援する側にまわることを高らかに宣言したわけで、そして、Kさんはコロンボ・プランが始まって10年目にカンボジアに派遣されたんだ。
Kさんは2018年に大往生をとげた。心から追悼の意を表します。
近ごろ、シハヌーク陛下がカンボジアへ戻られたあたりの画像が流れています。陛下を警護するのは誰だろうと、ソティアに聞いたところ、北朝鮮のガードマンと言ってました。「シハヌーク王の身辺警備は北朝鮮兵士が行っていたと言われていた。」のは正しいです!
そもそも、首相官邸の隣が北朝鮮大使館ですからね!
間々田和彦さま
いつも読んでいただきありがとうございます。
シハヌーク王の身辺護衛が北朝鮮兵だったというのは、カンボジアの方には周知だったようですね。
シハヌーク王は、カンボジア兵に対して疑心暗鬼になっていたのかもしれませんね。
彼の神格化が著しいカ国ですけれど、それがカ国の現代史研究をとってもやりにくくしているのだろうなぁ
とも思ったりします。
村山哲也
ちなみに、妻は妻の父から「ポルポト軍には必ず中国兵が帯同していた」とも聞いてます。
カンボジアでの大会の記載はほとんどありませんが、このような論文もありました。左も右も「ごっちゃ」の対応だったんですね。勉強になりました。頭山満の孫なども関係していたんだと驚きました。御存知かもしれませんが御参考まで。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/63/2/63_18006/_pdf/-char/ja