カンボジアで車イス者から話を聞く ディーさんの場合

一番右にいるのがディーさん。中央のヒェンさん、左のネアップさんからも話を聞いている。それはまたいずれ。

 ディーさんは、1993年生まれの27才。カンポット県の農村スロックチューの出身だ。プノンペンからは、南に伸びる国道3号線を車で3時間ほど走ったところだ両親とふたりの兄がいる。

 事故が起こったのは2015年9月、彼が21才のときだった。
 当時、ディーさんは高校1年生から2年生に進む、ちょうどその間の休みの期間だった。(カンボジアでは日本のようには学齢はきちんとは定まっていない。ディーさんのように年上の兄弟があれば、弟は遅れて進学することは、よくある。)スロックチュー村では9月(雨季の後半)は、収穫の時期にあたる。その日も村では稲刈りが行われていて、ディーさんもそれを手伝っていた。

 カンボジアの農家の朝は早い。日の出る前、涼しいうちから作業が始まる。その日もそうで、日が高くなる午前9時過ぎには、その日の作業をだいたい終え、全員で一休みとなった。

 カンボジアでは田の脇によくヤシの木が植えてある。スロックチュー村もそうだ。それではヤシの実をとって、その果汁で乾いた喉をうるおそうということになった。

 根元から樹頂まで、途中に枝がなくすらっと一直線に伸びるヤシの木は、誰でも登れるわけではない。12才のころから登り始めたディーさんは、ヤシ登りが得意だった。特に、ヤシの木の上から遠くまで見渡せる景色を眺めるのが好きだった。その日も、「じゃぁ、俺が登るよ」ということになった。

 ちょうど飲みごろの実をたわわにつけている木を選んで、その幹にとりつく。それは初めて登る木だった。ロープを腰にすえると、右手に持ったナタで幹に切り込みを入れて足場を作りながら、よじ登っていく。てっぺんの葉の上にまでまず登る。ヤシのてっぺんから見上げる空は、地上から見るよりも一層広く感じられる。いくつも重なる葉の上で、しっかりと足を安定させしゃがみ込むような姿勢を取る。そして足の間から手を伸ばすようにして、いくつかの実のついた房をナイフで切り取る。

 素人目には、切り取った実、あるいは房は、そのまま落としてしまえばいいように思う。けれど、それは乱暴なやり方なのだそうだ。実を傷めずに収穫するには、房をロープで結び、それをゆっくりと地面まで下ろすのだそうだ。

 いつもと同じように、その時のディーさんもそうする。重い房をぶら下げたロープを、スルスルと降ろしていく。と、そのとき、左の親指がロープに絡まったと思ったら、しゃがんでいた態勢から前のめりになるように、落ちた。そこで、記憶が途切れる。

 ディーさんは、まず一番近い公立病院に担ぎ込まれ、たいした検査もできないまま点滴を受けた。やがて身体が黒ずんでくる。両親は、希望を捨てず、25ドルでタクシーを一台やとい、プノンペンの病院までディーさんを運ぶことにした。後部座席に横たえらえれたディーさんが、悪路で車がバウンドした際に痛くてうめき声を上げると、同行した彼の親戚が「お、まだ生きてるぞ」と喜んだ。

 プノンペンの病院で、まず調べたのは頭部だった。おそらく脳内出血があったのだろう。すぐに左前頭部の手術を受けた。医者は「ほんの少し希望はある」と母親に告げた。

 手術はなんとか成功した。でもその後も、ディーさんの記憶は曖昧だ。術後数日して、手は動くけれど、足は動かせないことがわかる。さらに受けた検査で、背骨も損傷していることがわかった。肺にも水がたまっていた。「うちでは手のほどこしようがない」と伝えられたディーさん家族は、プノンペン内の市立病院を経由して、彼をベトナムの病院に運ぶことに決める。輸送費に必要な450ドルは借金をしてなんとか工面する。

 病院が用意してくれた救急車が国境を越えるときは、同行した両親もふくめ、パスポートなしで「お金で解決した」。この辺りから、ディーさんの記憶ははっきりしてくる。ようやく、ベトナムの病院で背骨を整形する手術を受けたのは、受傷後2週間が経っていた。胸椎9番10番が損傷していた。

 手術後も動かない足。「自分はきっとこのまま死んでしまうんだ」とディーさんは思った。死ぬなら、ベトナムの病院ではなく、生まれ故郷に帰って死にたかった。手術から2日後、ディーさんはカンボジアに戻る。バス(最後部座席に寝かせられた)がプノンペンに到着すると、そのままタクシーを使って自宅に向かった。自宅につくと、近所の人たちみんなが見舞いにきた。学校の友だちもやってきた。友だちの顔を見て、ディーさんは泣いた。

 そして、ディーさんは死ななかった。それから今日まで、また長い話が続く。

 カンボジアで事故にあって脊髄損傷で障害を持った人がいったいどれくらいいるのか、統計があるのかないのかもわからない(日本では、毎年5千人程度が受傷する)。バイク事故などが多いカンボジアでは、けして少なくない数の人が障害を抱えて過ごしているはずだ。

 

 2014年8月の事故での受傷後、障害者として生活を身につけるのに5年の時間を費やしたぼくは、事故以前に生活の拠点があったプノンペンに2019年6月に戻った。
 それからしばらくして、カンボジアの障害者支援組織に連絡を取ったぼくは、週末になるとぼくと同じように怪我をして車イスでの生活を送っている人たちの話を聞くことを始めた。話を聞いてどうしようという目的があったわけではない。とにかくまず、聞いてみたかった。
 これまで4人の車イス者(3人が脊損、1人が病気による麻痺)から話を聞くことができた。

 彼らが快く話をしてくれる背景には、次の3つがあるようにぼくは感じている。
 ひとつは、ぼくが彼らと同じ車イス者であること。
 ひとつは、ぼくがとてもしつこく話を聞くこと。
 ひとつは、ぼくの妻サンワーが通訳をしてくれること。

 「同じ障害者」というのは、彼らとのコミュニケーションにおいて大きな利点だ。つまり、ぼくは障害者になったことで、ひとつ大きな武器を手に入れたことになる。
 さらに、彼らは自分たちのことを話したいのだと思う。だから週末になると通ってくるぼくが、かれらの事故や、それからの日々のことを根掘り葉掘りしつこく聞いても、嫌がらずに、むしろ喜んで話してくれる。
 そして、通訳をしてくれる妻とぼくとの信頼関係があることで、彼らも安心できるのだと感じる。(もしその場だけの通訳者にお願いしていたら、手にいれられない親近感のなかで聞き取りができているということだ。)そして、おそらく、妻の持つ彼女固有の“女性性”が、彼らが「安心して話す」ことに寄与している。

 ぼくがこれまで話を聞いた4人の車イス者のうち、3人の脊損者は、受傷後に一度プノンペンの病院に入院した後、3人ともベトナムの病院に運ばれて治療を受けている。2020年現在は状況が変わっているかもしれないけれど、つい最近まで、プノンペンでは脊髄損傷の治療を受けることは難しかった。
 ベトナムへの輸送は自費で、治療のためどの家族も借金をしている。どの家族も社会保障などの福祉はほとんど受けていない。

 さらに、4人の家族すべてが、祈祷師のお祓いお願いし、霊的な力があると言われて“聖水”を購入している。「効くはずはない」と受傷者本人が思っても、家族は藁をもすがる思いなのだろう。

 これからもこの場で、ときどき彼らの話を紹介しようと思う。

ディーさん(左)と彼の仲間たち (ディーさんから写真提供)

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