前回の連載第12回(以下から飛べます)では、胡椒のヨーロッパでの広がりについて書きました。今回、連載第13回は、カンボジアの現代史とカンポット胡椒に大きな影響をおよぼすフランスでのグルメ文化の誕生と、ヨーロッパでのインチキ食品(胡椒も含む)の問題、さらには19世紀後半から20世紀初頭に起こったパリでのアンコールブームについて。インチキ胡椒は今の問題でもあるようです。
グルメとインチキ食品
ヨーロッパで胡椒の大衆化が進みつつあった17世紀後半以降、胡椒は料理にちょっとしたアクセントを加える脇役として親しまれてきた。18世紀前半に書かれた書物には、テーブルの装飾品として胡椒入れを含んだ銀食器一式を制作したという記述が見つかる[i]。テーブルに胡椒入れが置かれ、食事をしながら手元で胡椒を料理に加えるという現在まで続くスタイルは、この頃に始まったようだ。
18世紀後半、1789年のフランス革命は、宮廷のものだったフランス料理が社会に広がっていく契機となった。それまで貴族のお抱えだった料理人が、革命によって職場を失い、町に出て食堂を開き、その数が増えるにつれて美食が大衆化していった。
そして、この時期に料理一皿ごとに使う香辛料の量は少なくなっていく。
プーラン&ネランク著『フランス料理と料理人の歴史』は、17世紀18世紀におけるフランス食文化の流れについて以下のように要約している。
17世紀は、中世の料理が革新され、「グランド・キュイジーヌ」が誕生した時期である。そうした呼称で呼ばれるに値するどのような革新がなされたのであろうか。第一の革新は、スパイスの消費が減ったことである。新大陸発見に続く16世紀にはまだ珍しかった香辛料がその希少価値ゆえに上流階級によってほぼ独占的に使われていたが、17世紀に入るとヨーロッパ市場に香辛料が豊富に出回り貴族以外の人々によっても使われるようになった。すると、香辛料の価値が下落し、上流階級における香辛料離れがおこった。[ii]
グランド・キュイジーヌとは直訳すれば「偉大な料理」となり、ルイ14世の時代からフランス革命に至るまでの宮廷および高級貴族が楽しんだ料理スタイルのことをもともとは指した。香辛料を多用した、現代から見れば大雑把なそれまでの料理に代わり、現在のフランス料理につながるソースを重視したり、砂糖を使ったりしたデザートの工夫などが料理人のあいだで競われるようになった。ジャン=ピエールブーランらによる 『フランス料理の歴史』は、それを次のように描く。
どんなブルジョワ家庭の食卓にも香辛料が上がるようになった。贅沢品ではなくなった香辛料の価値は、貴族階級にとっては下がる一方である。
となると、料理人はエキゾティックな材料をこれ見よがしに使うことに興味を失い、代わりに調理技術を磨くことに力を注ぐ。以来、貴族の料理とブルジョワ民衆の料理の差別化は、もはや食材の豪華さや奇抜さではなく、調理法の複雑さと料理人の知見にかかってくるようになった。
こうしてフランス料理は複雑化の道をたどり始める。世代交代ごとに料理人はたえず先輩の残した技術を改良し、洗練し、美化し、完成をめざすのである。[iii]
フランス革命後、19世紀初めのナポレオンの時代にかけて、フランス料理はますます洗練度を増していき、優秀そして有名な料理人が多く出ている。そしてそうした名の知られた料理人に対する人々の尊敬の念が格段に高まっていった。こうして料理人の社会的地位が高くなって、そこに権威が生まれ始める。
権威は批評の対象にもなる。19世紀のフランスでは、美食文学や美食ジャーナリズムが盛り上がりを見せる。フランス語にあるガストロノミーという、和訳すれば美味学あるいは美食学となる言葉も、このころに生まれている。今で言うグルメ文化の誕生だ。フランスでは、美味しいものの愛好家を繊細な味覚を持つ「グルマン」と称賛した[iv]。
さらにもうひとつ。19世紀料理界の特徴として「インチキ食品」の氾濫があった。1820年にフレードリッヒアッカムというドイツ出身の化学者がイギリスで著した『食品偽装および食品に含有される毒についての論考』の中では、インチキ胡椒に関して次のように書かれている。
筆者は物品税務局の命をうけて大量の黒胡椒及び白胡椒の検査をおこなった経験があるが、約十六パーセントの偽の胡椒が含まれているのを発見した。この偽物は、油かす(油を絞った後の亜麻の実の残滓)、粘土、さらに、まず固めてから裏ごし器に通し樽の中で揺らして粒状にした粉末トウガラシからできている。(中略)
粉末に挽いた胡椒の場合は、本物の胡椒に、大量の「胡椒埃」――つまり、胡椒を保管する倉庫の床から掻きあつめた埃屑――を加え、さらに粉末トウガラシを混ぜて偽造される。[v]
さらに、同じくイギリスでアーサーヒルハッサルが率いる分析衛生委員会が顕微鏡を用いたインチキ食品調査を実施し、多くの粉末胡椒の中に、亜麻の実、カラシの種子、小麦粉、豆粉、すりつぶした米が混ぜられていることを明らかにした[vi]。このハッサルによるさまざまな食品調査結果は、現在まで続く信頼の高いイギリスの医学専門誌『ランセット』に1851年から1854年にかけて毎週掲載された。そこで調べられた2500以上の食料品サンプルに純正のものはわずかしかなく、その事実はイギリスを始めとして西欧社会に大きな反響をもたらした[vii]。1850年代から続いた食品偽装に対するメディアのキャンペーンの結果、不正食品を取り締まる必要性がヨーロッパ社会では広く共有されていくことになる。
最近はあまり見る機会は少なくなったようだけれど、洋風のちょっと気取ったレストランでは、客に料理が提供される際、客の面前で給仕が胡椒を擦り器で振りかける習慣がある。これは給仕が客からチップをもらうため西洋で広まったというのが定説のようだけれど、この習慣もインチキ食品の氾濫を背景にしているという説もある。「この店の胡椒はちゃんとした香りのたつ本物の胡椒ですよ」ということをデモンストレーションしたのが、給仕が胡椒を振る始まりだったという[viii]。
インチキ胡椒がまかり通るのは昔話ではない。2015年に原著が出版された『食品偽装を科学で見抜く』の中には、次のような現代のインチキ胡椒の記述も見つかる。
最近、胡椒の実とよくすり替えられるのは乾燥したパパイヤの種子だ。安価で、本物よりわずかに小さいが、すぐに手に入る。(中略)
もう一つ、胡椒の実の偽装に長く使われてきた手法に、胡椒の実をパラフィンオイルと、燃やしたディーゼルオイルのすすでくるむことだ。このコーティングによって胡椒の実の重さを増やせるうえ、カビの発生を防ぎ、磨いたような黒い光沢を与えることができる。
2014年にインドのチェンナイでは、ある倉庫の操作で、これら2種類の発がん性のある油でコーティングされた胡椒が18トンも押収された。[ix]
胡椒に限らない。現在のカンボジアでも、連日のように輸入食品で偽装が報道されている。インチキ食品の歴史を調べると、人間の性悪説に一票入れなければいけない気持ちにさせられる。あるいは、思い切り楽観的に、どの社会でもインチキ食品の道を通って、その改善に向かうと考えればいいのか。以前はヨーロッパ社会で、現在は多くの発展途上国で?
パリでのカンボジアブーム
ともあれ、カンポット産の胡椒がフランスで広く使われるようになるのは、このようなグルメ文化と、食品の安全志向が高まった時期だった。カンボジアがフランスの保護国となり、その後の仏領インドシナというフランス植民地に組み込まれていく、その始まりが19世紀中ごろ、1863年だ。それから20世紀にかけて、カンボジアのカンポットの胡椒生産が大きく成長し、その胡椒がフランスに輸出され、その品質が比類ないもの、世界一(?)、と評価されるようになった。
さらに19世紀後半から20世紀初頭にかけて、パリでは5回の万博博覧会、さらに国際植民地博覧会が開かれ、これらの催しを通してアンコールワットが広く喧伝された。1878年の第3回万博では、アンコール遺跡群から持ち込まれたオリジナルの巨大な彫刻や石版、さらに現地で採取された鋳型を基にしたレプリカが展示されパリっ子の人気となった[x]。さらに1889年の第4回万博――この万博開催にあわせてエッフェル塔が建設されている――では、そのエッフェル塔の東側にアンコールワット寺院の塔一基が復元された。極めつけは1931年の国際植民地博覧会だ。このときには実物大のアンコールワット中央祠堂と第三回廊部のレプリが、会場のメインストリーム部に建設された。高さ65メートルの中央塔が、それを囲む四基55メートルの塔を従えそびえ立つという、鉄筋コンクリートの近代的骨組みのこのレプリカは、ラテライトの質感を出すために砕いた石材を混入した凝った外装で、一見しただけではハリボテの作り物に見えない見事な出来だった[xi]。このフランスの植民地を世界にアピールする博覧会には6ヶ月の開催期間中にのべ3400万人が入場している。その頃のフランスの人口は4000万人を超える程度であり、つまり全フランス国民の8割がこの展覧会に参加した計算になる[xii]。
このような万博や展覧会の機会は、フランス国内でカンポットの胡椒の評判が高くなるのに一役かったに違いない。一方で、これらの万博や展覧会は、例えば植民地の人間を見世物として展示するなど、当時のフランス市民の植民地に対する差別的な視点を増幅する役割も担った[xiii]。
ここで紹介した19世紀の万博と1930年代の植民地博覧会の間には、1914年から1918年にかけての第一次世界大戦の荒波がある。仏領インドシナからも軍需工場や戦地の土木工事・墓掘りの労働力として6万人を超える人たちがフランスへ送られている。その多くはベトナム人と中国人だったようだが[xiv]、異郷の地で故郷の胡椒を知らずして口にした(華人系)カンボジア人も、きっといただろう。
[i] バーバラ・ウィートン/著 辻美樹/訳 1991『味覚の歴史 フランスの食文化 中世から革命まで』大修館書店 296ページ
[ii] 北山晴一/著 2008『世界の食文化16 フランス』農山漁村文化協会 62ページ
[iii] ジャン=ピエールブーラン、エドモン・ネランク/著 辻調グループ 辻静雄料理教育研究所 山内秀文/訳 2017『フランス料理の歴史』 角川ソフィア文庫 68~69ページ
[iv] J.L.フランドン、M.モンタナーリ/編 宮原信・他/訳 2006『食の歴史Ⅲ』 藤原書店 955ページ
[v] 横山茂雄/編 2008『危ない食卓』 新人物往来社 242ページ 資料の訳は横山茂雄
[vi] リチャード・エバーシェッド、ニコラ・テンプル/著 守信人/訳 2017『食品偽装を科学で見抜く』日経BP社 270ページ
[vii] ビー・ウィルソン/著 高儀進/訳 2009『食品偽装の歴史』白水社 165ページ
[viii] 「コショウとウェイターの100年史」『Newsweek 日本版』2013年9月24日号 63ページ
[ix] リチャード・エバーシェッド、ニコラ・テンプル/著 守信人/訳 2017 前掲書 270~271ページ
[x] 藤原貞朗/著 2008『オリエンタリスとの憂鬱 植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学』めこん 23~24ページ
[xi]藤原貞朗 2008 前掲書 349ページ
[xii] 「西ヨーロッパ主要国の長期人口推移」『社会実情データ図録』http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9013.html
[xiii] 平野千果子/著 2002 『フランス植民地主義の歴史』人文書院 207ページ
[xiv]H・P・ウィルモット/著 等松春夫/監修 山崎正浩/訳 2014『第一次大戦の歴史大図鑑』 創元社 95ページ および
ダルディ/著 藤原貞朗/訳 2016『塹壕の戦争』株式会社 共和国 120ページ
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