聖なる白い牛に叱られて、賭博や酒・タバコから離れたティさんは、農園での仕事に熱心に取り組んだ。聖なる白い牛伝説は、カンボジアに伝わるもので、その牛に夢で打たれたティさんの心はカンボジアの人のものだ。海南島から渡ってきた祖父から数えて三代目のティさんには、聖なる白い牛も住んでいれば、チェンメン(清明祭)を祀る華人の文化も生きている。(前回、連載第19回には以下から飛べます。)
使い捨てオムツが普及していた
頭領の家を次に訪ねたのは9ヶ月後、2017年12月も最後の週だった。4月のチェンメンのときにお腹が大きかったパートナーはすでに半年前に赤ん坊を生んで、すっきりとした身体になっていた。少し驚いたのは、赤ん坊に使い捨てオムツを使っていたことだ。これまで私が見たカンボジアの農村では、赤ん坊はお尻丸出しで、おしっこは床に垂れ流しが普通だった。それを頭領に伝えると、以前は確かにそうで、使い捨てオムツを使うのはその赤ん坊が初めてだという。使い捨てオムツは値段が高いでしょうと尋ねると「そんなことない、安いもんだ。このあたりの家は、もうみんな赤ん坊に使い捨てオムツを使っている」という返事だった。

この日も昼食をご馳走になりながら、頭領から胡椒栽培や彼の両親の話、さらにはポルポト時代の話をゆっくり聞かせてもらった。
時計がもうすぐ午後4時になろうとするころ、ようやく長いインタビューを終えて頭領は仕事に戻っていった。こちらもそろそろプノンペンに戻ろうとしているところに、1台の車が庭に走り込んできた。チェンメンの日に会った頭領の弟が助手席に乗っている。彼からも話を聞く。
私の中国名は…
「私は小さいころから、プノンペンにいた2番目の兄のところですごしたから、両親との思い出はあまりない。プノンペンの海南系の中華学校で中国語(北京語)を勉強した。卒業後は中華系の企業に勤めて、建築現場や大理石の採石場で中国語の通訳をしていた。だから中国語は今でもなんとかできる。兄はほとんど話せない。高血圧で身体を壊して、今は療養もかねてこっちに戻って、兄の仕事の会計事務を手伝っている」
ふと思いついて中国名を漢字で書けるかと聞いてみた。すると紙にさらさらと名前を書いてくれた。
「私の中国名は、〝楊道林〟だ」
プノンペンに戻る前に、頭領の家の近くの町中にある中華学校を訪問した。そこも海南の人たちが開いた学校で、現校長も父親が海南からカンボジアにやってきた人だった。校長の父親は、カンボジアに来て漢方薬の商売をしていたそうだ。
「ありました、ありました!」同行してくれていたAさんが校長に案内されて入った職員室から飛び出してきた。ティさんの父親の写真があったという。

職員室には、1997年ごろに撮られた学校支援者の集合写真がはられていた。皆、地域の海南系の人たちで、写真の下にはそれぞれの名前も漢字で書かれてる。よく見ると、そのなかに頭領の父親もいた。その下に小さな文字で〝楊徳茂〟と書かれていた。頭領の父親は地域の海南系学校を支援する人だった。しかし頭領の子どもたちは、この町中の海南系学校ではなくて、自宅の近くの公立小学校に通っている。
弟と父親の中国名がわかったのに、頭領の中国名がわからないのは残念だ。次回、頭領を訪ねるのはかなり先になってしまうことはわかっていた。頭領の中国名を聞くために思い切って引き返すことにした。
時刻はもう遅い夕方。頭領は、自宅から数キロはなれた道沿いの小屋でスイカを売っていた。そう言えば、その日の昼飯どきにも有機栽培のスイカだと言って美味しいスイカを切ってくれた。
道端に停めた車に気がついて、ハンモックに寝っ転がっていた頭領が顔をゴジゴジこすりながら起きてきてくれる。中華学校で父親の写真と名前を見つけたことを伝えて、頭領は自分の中国名を漢字で書けるのかどうかを聞いた。漢字は忘れてしまったなぁとぼやきながら、頭領はこちらが差し出したペンと紙を手にすると思い出すようにして「楊」とまず書く。それから、少し手間取りつつ「道詰」と書いた。“楊道詰”。
頭領たちの中国名がわかったところで、それがどうしたという話ではある。それはたまたま道端で、珍しくもない二枚貝の化石を拾ったようなものだ。地面の脇にちょっと顔を出した露頭から転がり落ちた、ありきたりの化石。でも、自分で見つけたその化石はやはり愛おしい。それだけのことだ。でもその愛おしさは、自分の生を愛おしく思い、君の生を愛おしく感じることにつながっている気がした。

海南島がどこにあるかは知らない4世たち
チェンメンの日、頭領の兄の子どもたち、つまり頭領の甥っ子たちにも話を聞いた。彼らは自分たちの祖先が華人であることは知っているけれど、海南島がどこにあるかは知らないし、中国語はしゃべれず、漢字の読み書きもできないといっていた。おそらく自分の中国名を漢字で書けるのは、頭領の世代までだろう。その頭領も弟も、ポルポト時代後に改名したカンボジア名のほうに今は馴染んでしまっている。それでも、いつの日か頭領たちの時代が土に帰った後も、チェンメンの儀式はおそらく続くんじゃないだろうか。根拠は特にないけれど、チェンメンの日に見た真剣に祈る彼らの姿を思い出すと、なぜかそんな気がした。

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