『カンボジアの胡椒とその周辺の物語』第4回 胡椒伝播ルート 原産地南西インドからカンボジアへ

これまでの展開
 13世紀にアンコールトムを訪れた周達観が『真臘風土記』のなかで書かれた胡椒。しかし、同時期の古書や、やはり同時期に書かれた有名なマルコポーロの『東方見聞録』にも当時のカンボジアの胡椒に関する記述はまったくない。おそらく、当時のカンボジアでの胡椒生産は、少量だったのだろう、ということを前回書きました。
 では、当時のカンボジアに、胡椒はどうやって伝わってきたのでしょう?
(こちらが前回10月24日の投稿です。)

『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第3回 マルコポーロ『東方見聞録』のなかの胡椒

 少量であったとしても、13世紀後半のカンボジアのアンコール地方で、周達観は胡椒が栽培されているのを実際に見て、食した可能性が高い。この胡椒は、元々はどこからアンコール地方にやってきたのだろう。

 胡椒の原産地はインド南西部とする資料が多く[i]、そこで胡椒の栽培が始まったとする説が有力だ。インドと現在東南アジアと呼ばれる地域の関係も歴史は古い。現在のクメール語はその文字からも明らかなようにサンスクリット語、つまりインドの影響を色濃く受けている。クメール語から派生したといわれるタイ語、ラオ語もクメール語同様の字体で、「インド文字」の仲間だ。東南アジア史およびカンボジア史の研究家ミルトンオズボーンはインド文化と東南アジア地域との初期の関係を以下のように記述している。

 インド文化の東南アジア地域との接触は、紀元二、三世紀にはじまり、ゆっくりと拡大した。それは不均等な過程であって、ある地域はインドの影響を受容する時期が他より遅れたり、また文化的なインパクトの程度は世紀によって異なっていた。(中略)インド化とは、インド人の東南アジアへの大量移住を意味するものではなかった。むしろ比較的限られた数の貿易商人や学僧たちがインド文化を多様なその姿のまま東南アジアへ持ち込んだのであり、この地域においてインド文化の全てではないにしても多くは、各地方の住民によって吸収され、既存の文化様式に結合されたのである。[ii]

 インド南西部からカンボジアまでのルートを考える際、まず海路が思い浮かぶ。インド南西部からインド亜大陸の南端を東に回りこむとスリランカ。さらにインド洋を東進すればマレー半島にたどり着く。そこからスマトラ島とマレー半島に挟まれたマラッカ海峡を通過し、現在のシンガポールを回って、北上すればインドシナ半島に至る。(下の方に示す地図で①で示したルート)

 胡椒がこのルートを通ったとすれば、インド南西部、スリランカ、マレー半島西部、スマトラ島、マレー半島東部、インドシナ半島、という順序で胡椒は広まっていっただろう。

 しかし、調べてみると、後の胡椒の大生産地であるスマトラ島に胡椒が伝わったのは十五世紀頃だ。周達観がカンボジアで胡椒を見たのは十三世紀末だから、それより百年以上後のことである。

 日本マレーシア学会の会報誌「JAMS News」31号(2005年2月)の巻頭言「インド洋世界のアチェ」の中に、次の記述がある。

 アチェに関わる歴史がある程度明らかになるのは、後にアチェ王国に統合される港市国家サムドラ・パセー王国からである。この王国では 13 世紀末、イスラーム化が進むが、それは来航したベンガル商人らの影響によっており、住民も多くはベンガル系であるとされている。また、商人は上記以外、アラブ、ペルシア、グジャラート、カリンガ、タイ、ケダーから来航するとされている。15 世紀にはこの地方にインド系の胡椒の栽培も導入され、上記へ輸出された。[iii]

 もう一つ他の資料。米国の歴史研究家マージェリーシェファーが書いた『胡椒 暴虐の世界史』という胡椒に特化した世界史を記述した本で、こちらも下記のようにアチェに胡椒が伝わったのは十五世紀としている。

 イスラーム商人が黒胡椒をインドからスマトラ北部へ初めて持ち込んだのは、正確にはわからないが、十五世紀のことだ。(中略)ヨーロッパで黒胡椒の需要が拡大するにつれて、栽培は島の南部や内部へ広がった。初めのうちスマトラではあまり見られなかった胡椒農園も、十六世紀になると島の西部沿岸で数を増していった。[iv]

 もし胡椒がインド洋からマレー半島を回り込む海路を伝って13世紀以前にカンボジアに到達していたとすれば、その途上にあるスマトラ島に胡椒が15世紀まで伝わっていなかったというのは不思議だ。もしかしたら胡椒は海路でカンボジアに到達したのではないのかもしれない。強いモンスーン(季節風)が吹くインド洋周辺では、南風を受けて北上しかできない時期、さらには北風を受けて南下しかできない時期があり、海路は不便でもあった。

 カンボジア史で、真臘(アンコール王朝)という名の前に出てくるのが扶南(ふなん)という国だ。扶南は1世紀から7世紀頃にかけてメコン川下流域から現在のタイに至る地域に栄えたとされる国で、カンボジアの歴史の教科書では自国の歴史の始まりの国名だ。(つまり、日本書紀を別とすれば、奈良に始まる大和朝廷の国家形成が4~7世紀である日本よりも、カンボジアの始まりは早かったことになる。)インドシナ半島突端に近いオケオという扶南時代の港町の遺跡からは、ローマ時代の金貨が発見され、かなり古くからヨーロッパまで続く貿易路があったことがわかっている[v]

 そして、インド洋からインドシナ半島のオケオへのルートは、マレー半島を海路で回り込む以外にも、マレー半島を陸路で横断する、あるいはビルマからタイ内陸部を通りメコン川経由でオケオに至るルートもあった。東南アジア古代史研究家の鈴木峻は、その著書『扶南・真臘・チャンパの歴史』の中で、インドから東南アジアへつながる陸路に関して、次のように記している。最初の引用は下の地図で示す②のルートとなり、2つ目の引用は③のルートとなる。

 4世紀以降ベンガル湾横断直行ルートが開発されると、マレー半島横断ルートはますます価値を高めた。季節風による「風待ちの6ヶ月間」を省略できたからである[vi]

 当初は下ビルマの港(タトン、タヴィ、テナセリムなど[vii])からはるばるタイの内陸部を主にチー川やムーン川[viii]といった河川を使い陸路でメコン・デルタの「オケオ」の港まで財貨を運ぶという時代が存在した[ix]

 胡椒がマレー半島横断ルート、あるいは大陸内部を通過するルートを通りカンボジアの地に至った可能性は大いにありそうだ。

 次回は、インド南部とカンボジアの関係をもう少し深堀りしてみる。

南インドからカンボジアへ胡椒伝播経路
①マレー半島を回り込む海路
②インド洋からマレー半島を横断し、タイ湾を進む海路-陸路-海路
③ビルマ(ミャンマー)経由でタイ内陸部を通る海路-陸路



[i] 82ページ 丁宗鐵/編著 『スパイス百科 起源から効能、利用法まで』丸善出版 平成30年(2018)

[ii] 24ページ ミルトン・オズボーン/著 山田秀雄・他/訳『東南アジア史入門』 東洋経済新報社 1987年

[iii]1~2ページ JAMS News31号 日本マレーシア学会 2005年2月

[iv] 93ページ マージュエリー・シェファー/著 栗原泉/訳『胡椒 暴虐の世界史』 白水社 2015

[v] 41、42ページ 石澤良昭/著 『東南アジア 多文明世界の発見』講談社学術文庫 講談社 2018

[vi] 7ページ 鈴木峻/著『扶南・真臘・チャンパの歴史』 めこん 2016

[vii] アンダマン海北東岸の港町

[viii] チー川もムン川も、共にタイ東北部の大地を西から東に流れメコン川に注ぐ、メコン川の支流。

[ix] 20ページ 鈴木峻 前掲書2016

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