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新しい文明病「学歴社会」、この感染力の高い病からカンボジアが自由であるわけもなく
経済発展の後発国では、先進国と比較して資格(サティフィケイト)、あるいは学歴が大きくものをいう社会となる、と指摘したのが英国の社会学者ドーア(Ronald P. Dore)です。途上国の教育開発を勉強した際、ドーアの名著『学歴社会 新しい文明病』には本当にお世話になりました(訳書は岩波書店の同時代ライブラリーの中古本が安価で入手可能です)。
たとえばインドではタクシー運転手になるためには、大学の卒業証が必要だとか。私自身の経験でも、フィリピンではファーストフード店でアルバイトをするためには、大学の学生証が必要でした。つまり、学歴社会では、何を学んだか以上にどんな資格証明書を持っているかが問われる。そういった学歴社会では、当然のように教育の質に対する考え方も変わってくる。
これまで途上国の教育支援をやってきて、このドーアの分析はまったくもって正しいと私は強く実感するのです。
そしてカンボジアでも、この新しい文明病は社会に強い影響を与えています。
たとえば、教育省内で出世するためには、修士や博士の資格をとることが求められます。これらの資格は10年前までは主に海外に留学して取得するものでした。私がかかわったODAを通じて、何人もの教員が日本の大学に留学し、修士を取得しています。もちろんそのほとんどが日本政府の奨学金制度を使っての留学です。修士を延長して博士まで取得するのはけして簡単ではないのですけれど、最近はぼちぼちと博士まで留学する人たちも増えています。
そして、日本で修士や博士を取った知人たちの中にはその資格を活かしてどんどん高い役職に就く人たちがいる。彼らが学習した内容(理科教育や、化学や生物の高い専門研究)と現在の彼らの仕事内容は、あまり直接の関連性はないように私には思えます。
もちろん、だからといって彼らが学んだ修士や博士がまったく無駄とは思いません。それらの資格をとるための経緯・経験は、彼らの思考に大きな影響を与えているはずだとは思います。
そして、需要があれば供給が生まれる。
最近はカンボジア国内で修士や博士が取得できる制度が整備されつつあります。教育セクターにおいては、この需要はほとんど公的セクター、つまり公務員によるものです。だって出世のためには修士・博士の資格が必須なのですから。
公務員の高学歴化は教員職にも大きな影響を与えています。たとえば、カンボジアで唯一の高校教員養成校であるNIEは、大学卒業後に1年間の教員になる前の訓練を提供していたのを、2年間に延長し、4年制大学+2年、つまり修士コースとしたのです。それは、今後カンボジアでの新規高校教員はすべて修士を持つことを意味します。すっごい!!
さて、こんな風情でやっぱり気になるのが、「資格証」の前提となる「何を勉強したか」です。カンボジアの場合、ここで大きな課題は言語の問題です。クメール語(カンボジア語)が唯一の公用語であるカンボジアの特殊性と上記の文明病“学歴社会”が、カンボジアの教育の質に大きな影響を与えていると感じるのです。
有力外国語がつぎつぎと移り変わってきたカンボジアの現代史
旧植民地から独立を果たした国々では、旧領主国の言語が今でも幅を利かせているようなケースも少なくありません。たとえばケニアやフィリピンでは、領主国だった英国や米国の影響が今でも強く残っていて、当然のように英語は公用語です。
その点、カンボジアの政府の公用語はカンボジア語のみです。カンボジア語を国語とする国は世界の約200カ国の中でもカンボジアだけです。
フランスの植民地だったカンボジアで、今ではフランス語の優位性はほとんど残っていません。
独立を果たした1953年以降、カンボジアの過去72年の歴史はとっても複雑です。独立後1970年代前半までは、エリートたちの第一外国語は仏語でした。
そして1975~1979年のポルポト時代、仏語を話す人は殺害対象でした。仏語に限らず英語などの外国語を話すのもとっても危険な行為でした。国内に閉じ込めれた人たちは、たとえ外国語が話せるとしても、それを口にすることはまず絶対にありませんでした。外国語を解すること、それは即スパイとして殺害対象だったのです。
ですから、ポルポト時代に唯一積極的な支援を行った中国の農業技術者が指導を行う際、中国語の通訳がいなくて困ったという話をどこかで読んだことがあります。1970年代には中国からの移住者は少なくなかったはずです。中国系の二世三世もたくさんいました。中国語を解する人はそこそこはいたはずなのです。けれども、彼らは中国の出自を隠し、名前すら変えたのです。
ポルポト後、1980年代に新生カンボジアのエリートとなる人たちにとっての第一外語、第二外語はベトナム語とロシア語でした。ポルポト政権を倒したベトナム軍のカンボジア侵攻をベトナムのカンボジア侵略と見なした西側諸国は、ベトナムの支援を受けて成立した当時のプノンペン政権(ヘンサムリン政権)をベトナム国の傀儡政権と見なしました。そのため、カンボジアを支援したのはベトナムやソビエト連邦といった東側諸国だけだったからです。
学校の教科書制作の参考にされたのはベトナム語で書かれたベトナムの教科書でしたし、エリートたちの留学先はロシアや、あるいは当時の東側陣営の国々、たとえば東ドイツやキューバだったのです。けれどもこのベトナム語とロシア語の優位性はたった10年で消滅します。
1990年代に入り、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の介入による国定選挙の実施があり、そしてカンボジアにやってきたのが大きな英語ブームです。公立学校ではまだ英語は正規科目ではなかったですけれど、都市部では英語の塾がたくさんできました。
この英語ブームは、現在でも続いています。公立学校での英語教育も始まっています。
さらにその後の約30年間、英語以外にも、短い周期で、まず日本語がブームになり、次にハングル語(韓国語)、そして中国語と人気外国語は変遷しています。そして、現在の中国語ブームは息の長い流行となっています。
どの言葉も、その学習によって将来の就職が有利になるという思惑があります。中国語と比較して日本語や韓国語のブームが尻すぼみだったのは、日本や韓国からの投資がそれほど伸びなかったからでしょう。その点、中国からの投資は最近は少々伸び悩みとはいえ力強いものがあります。中華系学校には、中国系の祖先の有無に関係なく多くのカンボジアの子弟が通っています。
高等教育までほぼカンボジア語で学習可能
さて、とにかくカンボジアの子どもたちは、ほとんどがクメール語を母語とし生活語とし、そして学校でも最初に国語(カンボジア語)として学びます。お金持ち家庭では、幼いころから子どもをまず英語塾に通わせ、さらに都市部では先に書いたように中国語も人気でが人気です。
カンボジアのインターナショナルスクールは、日本のそれとはずいぶん趣が違います。日本のインターナショナルスクールのような多国籍で英語バリバリの学校はごく少数です。
カンボジアのインターナショナルスクールの多くは、カンボジア語と英語の両方に力を入れていることを売り文句にする私立校で、生徒もほとんどカンボジアの児童というケースが多いのです。そういったインターナショナルスクールの教師の半数(あるいはそれ以上)が公立学校の教員のアルバイトです
さて、私立校でも公立校でも、その最終目的は、G12試験と呼ばれる高校卒業資格国家試験です(自動進級制ではない、つまりどの学年でも落第のあるカンボジアの学校教育では、すべての学年終了時に進級試験が実施されます。現在はほとんどの学年で各学校が責任をもって実施しています。中学校卒業時のG9資格は以前は国家試験でしたけれど、現在は各県の裁量にゆだねられています。正確なことは調べていませんけれど、このG9試験は県、あるいはクラスター/学校群で共通試験を実施しているようです。そしてG12 資格だけが国家試験となっているのです)。この試験は英語をのぞくすべての科目がカンボジア語表記で出題されます。
つまり、カンボジアで大学等の高等教育に進みたい学生は、G12試験ではすべての科目(英語をのぞく)でカンボジア語表記の出題試験を受けなければいけないのです。
ですから、インターナショナルスクールに通うカンボジアの学生は、英語だけではなくクメール語の習得も必須なのです。またG12試験は文系コースと理科コースのどちらかを選択する制度になっています。そして科目の選択の余地はあまりありません。たとえば理系コースを選べば、物理・化学・生物の理科三教科はすべて資格試験に含まれます。ですからそれぞれの専門の単語も当然カンボジア語で習得する必要があるのです。
つまり、小中高校で英語や中国語を学んでも、結局はカンボジア語ができないとG12試験で良い成績がとれない。
さらに大学でも多くの科目で使われる言語はカンボジア語です。これは高等教育でも日本語で勉強が可能な日本の状況ととてもよく似ていると感じます。
私自身の経験ですけれども。G12試験を合格したうえで入ってくる2年制の小中学教員養成校(PTTC・RTTC)の学生で、英語が不自由なく使える学生はほとんどいない印象です。PTTC・RTTCの教官でも英語でのコミュニケーションがとれる人は英語の先生ぐらい?です。
さらにG12 試験を良い成績で合格してカンボジアの大学教育ヒエラルキーのトップに当たるプノンペン王立大学に進む学生の場合はどうでしょう。先に書きました高校教員養成校(NIE)にはこのプノンペン王立大学を卒業した学生が多く入学してきます。そして、私の印象ですけれど、大学で4年間学んだうえで高校教員になるためにNIEに入学してくる学生も、けして英語でのコミュニケーションが達者ではありません。もちろん、先にあげたPTTC・RTTCの学生と比較すれば英語の理解度は高いといえますけれど、でも英語で専門科目のレポートを書くのは少々大変という感じの学生が10年前は多かった。どうもこの状況は現在でもそれほど大きくは変わっていないようです。
難しいといわれるカンボジア語
つまり、なんだかんだ言っても、国語であるカンボジア語の優位性がとても高いのがカンボジアの実状です。一方で、カンボジアの国語教育はあまりうまくいっていないという説も有力です。その理由にあがるのが、カンボジア語は特に読み書きは難しいから、です。
カンボジア語は、子音で33種類、母音で23種類(以下の図)のアルファベット表記があります。これらは表音文字です。たとえば日本語の「カ行」の「K」にあたる子音が4つあり、それぞれ違う発音法になります。単純な比較になりますが、日本語では「かきくけこ」と5文字で表現される文字が、カンボジア語だと4(子音)かける23母音で90以上の文字となる、わけです。そりゃ、たいへんだ。
さらに子音には脚文字と呼ばれる、なかなかややこしい存在もあります。この脚文字をしっかり読み取れないと、文字を組み合わせた単語の正しい発音はできません。生活語として使っていたクメール語ですから、生活でしゃべってコミュニケーションすることの問題は多くない。けれども小学校低学年から国語(カンボジア語)の読み書きをきっちりと習得するのは、きっと子どもたち(教える先生も)大変なのだろうなぁ。

一方で、カンボジア語の文法は単純ですし、主語の人称による、あるいは時制による動詞の変化もありません。名詞の複数形もありません。ですから、単語の発音を獲得すれば会話は通じますし、単語のスペルを理解すれば読み書きも比較的容易に可能となるはず(?)です。
けれども、文章での分かち書きがありません(分かち書きとは語と語の間や文節と文節の間を1字分空けて書く表記法で英語がその好例です。日本語は分かち書きなし文章ですけれど、漢字やカタカナが分かち書きの役割をはたしています)。また敬語・丁寧語があり、学習者を悩ませる。さらに日本語と同様に文章の中の主部(主語)を省略することも多いのです(英語のように文章には必ず主語がある、ということではないという意味です)。
私自身の感想として、カンボジア語の文章では過去・現在・未来の時制がホントにはっきりしない。長文の中のひとつのセンテンスなら前後の経緯から時制を察することが可能ですけれど、短文ではこの時制を読み手が勝手に決めてしまう(結果、誤解する)ことが起こり得ます。
さらに主語を抜いて文章を作ることが多いため、やはり聞き手読み手が勝手に主語をキャッチしてセンテンスを読み違えてしまうことが起こりやすい。100人が読んだら100人が同じように理解するという文章を作りにくいし、作る意識も低いのではと感じることが私は多いのです(それは日本語でも簡単なことではありませんけれど)。
学校で、生徒たちは口述筆記(教師が話したことを、そのまま書き取る)を盛んに練習させられます。けれども作文指導はあまりしっかりと指導されていないのではないだろうか。ですから、レポートや、さらには論文を自分で書くというレベルでみんな苦労する。
以前、数学指導の専門家からうかがった話だと、数学の証明問題を苦手とする数学教師がとても多いといいます。数学の証明は読み手の勝手な理解を廃して存在している。ところが、カンボジアの数学教師が書く証明(カンボジア語でも、英語でも)には、読み手の解釈が入る余地が多いと彼は言うのです。それを指摘すると、「読み手が悪い」という反応が返ってくるといいます。
うんうん、さもありそうなリアクションです。「書き手ではなく、読み手が悪い」という思考は、「理解できないのは、教える側の問題ではなく学ぶ側の問題なのだ」という実は相変らず広く流通している教育世界の考え方と重なる。
つまり、時制や主語がはっきりしない文章が、実はカンボジア社会にはかなり横行しているんじゃないのか? というのが私の仮説です。2021年の世界銀行の資料によれば、カンボジアの成人識字率は84%だそうです。この数字をどう見ます?
アカデミックな論文は何語で書くのがよいかしら??
さてここからが今回の本題です(なんと長い前振りだったか!!)。
先に書いたように、カンボジア国内では、エリートを対象とした修士や博士の需要が急速に高まっています。公務員の縁故採用や縁故出世を防ぐためというのも、背景にはありそうです。サティフィケイト(資格)で競争するのは公平だというわけです。
そして、先述したようなカンボジア語優位の教育制度の結果として、現在カンボジアで書かれるほとんどの研究論文がカンボジア語で執筆されています。
海外で修士や博士を取る場合は、どうしたって英語での記述が必要になります。けれども、カンボジアで博士や修士を取るのであれば、それを指導する教官もカンボジアの先生たちですから、カンボジア語で問題はない。
けれども、そこでの質の担保はどうなっているのか?
アカデミック業界の保守的な仕組みには、それなりの歴史的背景があります。もちろんこの歴史的背景を意地悪に読み解けば、西洋至上主義も顔を出す。けれども、質の確保という点では、この仕組みは叡知の蓄積による有効な方法だとも思えます。
論文審査や、アカデミックな場への投稿審査もなく、どんな論文でもOKとなれば、学問の質を担保するヒエラルキーは霧散してしまいます。
しかしながら、カンボジアにはそれぞれの専門分野の学会は未整備ですし、研究を発表する場もそれぞれの研究機関の内輪の集まり以外にはありません。つまり、研究成果が閉じられているのです。今のところは、せいぜい各高等教育機関が独自に紀要を作成し、その教育機関の中での研究の優良な論文なりレポートなりを公開するに留まっています。
つまり世界で唯一カンボジア語を使うカンボジアは、アカデミックな面では蛸壺状態です。世界との競争がない。カンボジア語の世界に閉じこもっている。それをいえば、もちろん日本語で修士や博士の論文を作成することが可能な日本も蛸壺的な面はありますけれど、でも…(私も修士論文は日本語で書き、それはどこにも発表されていません。3人の大学院教授が審査しただけで修士論文と認められた、やっぱり蛸壺論文でした)。
一応日本語社会でのアカデミックな学界や専門業界が長いことかけて整備され、公開と競争の原理が成立している(はず)。カンボジアはその歴史がない。その点でもポルポト時代の教育断絶は罪深い。
人口でみても、一億の日本語社会に対して、カンボジア語社会は二千万ほど。つまりカンボジア語の蛸壺状況は日本語よりもかなり深刻です。
けれども。国際的な競争力がなくても、カンボジア社会の中では通用する修士や博士の資格が必要とされる状況が生まれているのです。蛸壺状況でも学歴社会という文明病は入ってくるのです。
(ちなみに、カンボジアでは学士や修士を複数持つことはエリートでは珍しいことではありません。カンボジアで修士をすでに取得している人が、奨学金に応募して留学生として海外で再度修士を取ることも普通に起こっています。海外留学そのものが魅力的ですし、修士の質の点で海外で取得したほうが箔が高いという気分は強いからです)
そんなカンボジアの蛸壺状況を感じると、「修士や博士の論文はぜひ英語で書いてよ!」と私はお願いしたくなる。だってそうじゃなければ質は確保できないじゃないかと思うからです。蛸壺に籠っていないで、ぜひ世界を相手にしようぜ!と言いたい。井の中の蛙大海を知らず、のカエルじゃつまらないじゃないか!と言いたい。
けれども、それな余計なお世話なのかなぁ。新しい文明病である学歴社会では、まずサティフィケイトが大事なのだ。そして、一応ですけれど、カンボジア語でも修士や博士の論文を仕上げるのは楽なことではないのです。実際、ほとんどの(私の知る限りすべての)修士コース・博士コースは働きながら通う週末コースです。さらにはコロナ禍を経た最近ではZoom等による遠隔授業も多い。働きながら修士や博士で学び、研究論文を書かねばいけないのです。
でも、悪く言えば、ながらで学ぶ人が多い。だから、とにかく論文作成は、カンボジア語だってそりゃ大変です。
それを英語で?
もう翻訳ソフト任せでいいじゃない? さらにはどんどんとチャットポットといったAIツール任せでいいじゃない?というわけで、研究論文がカンボジア語でOKな状況は今後も変わらない。今や、多くの参考資料も英語からカンボジア語へ翻訳可能です(もちろんその質は高くないこともあるのですが)。
そうなってくると、剽窃・盗用なんてことがやっぱり深刻な問題になりそうで怖いなぁ。
でもさ、現状カンボジアの学歴社会、それで誰も「損」はしないのよね。修士や博士の資格(サティフィケイト)が欲しいという需要と、それに応えるために修士や博士を出す課程を用意するという供給。そこだけみれば、なんの問題もない。
私のようなよそ者が、支援者という立場から偉そうに「質」云々するのは、どうしてなのか?
それは、やっぱり「世界は開いているから仕方がない」だと思うのです。カンボジアがカンボジアの中でだけで、蛸壺に留まっているわけにもいかないはず。
もしアカデミック業界の存在意義が世界に広く通用するものだとすれば、カンボジア社会もそれとは無関係に成立できないはず。真剣な探求や研究(理科的なモノでも、社会的なモノでも)が私たちの社会で大切なものだとすれば、それはやっぱりカンボジア社会でも大切なんじゃないのか?
学問とは、それを希求する人の喜びや幸せに貢献するもので、まずある。そこに付加する「質」とは何か?その質の意味や意義はなにか? けれども、学歴社会という文明病が萬栄する社会では、学問の大安売り、つまり質の低下は起こっちゃっているんじゃないのか? (それは我が祖国日本も、なのかしら??)
カンボジア社会を眺めつつ、さいふことを、常々考へせるなり。

















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